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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
13/04/28(No.648)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第5主日
(ヨハネ13:31-33a,34-35)
神の民がイエスに倣い愛し合う
‥‥‥†‥‥‥‥
金曜日に、青方のゆうちょ銀行でATMを操作したのですが、すぐ脇の丸テーブルに、財布の入った手提げを置いたまま帰ってしまいました。郷の首のガソリンスタンドで「レギュラー、満タン。洗車もお願いね」と言って車を降りようとしたら、助手席に手提げがありません。
シートの下に落ちたのかなと思ったりしましたが、見当たりません。その瞬間、「あーこれは、どこかで忘れてきたんだな」と気づき、血の気が引きました。青方でどこを回ったか考えてみました。まず親和銀行に行って、新札を引き出しましたので、親和銀行に電話をしました。行員さんは、「手提げ類はないみたいですねー」という返事でした。
ガッカリしましたが、ならばゆうちょ銀行だと問い合わせると、「ありますよ。中身を答えてみてください。」と聞かれたので、「ねずみ色の手提げの中に、財布が入っていると思います。財布には、ナカダコウジという名前の免許証があります。」すると応対してくれた人が「はい、確かにあります。お預かりしておきます。」と返事をくださいました。
給油と洗車をしてくれたスタッフの方に事情を言って青方に引き返し、財布を取り戻して来ました。献堂百周年・献堂五十周年記念行事を目の前にしたこの忙しいときに、何をぼおっとしているのだろうか。どれだけ神さまも試練をくださるのだろうか。そんなことを思いました。
今になって考えると、よくまあ財布も持って行かれずに残っていたものだなぁと思います。カード類は役に立たないかもしれませんが、現金もそこそこ入っていましたし、一緒に入れていた免許証の住所を調べれば、わたしからもっとお金を要求することもできたかもしれません。だれもいたずらせず、小一時間そこに置いたままになっていたのですから、上五島の人たちは優しい人たちだなぁと感謝しました。
だれも気にしてなかったのかもしれませんが、もしかしたら、忘れ物をした人をかわいそうに思ったのかもしれません。「忘れた人は困っているだろうなぁ。そおっとしておけば、思い出して取りに来るかもしれない。」それは、ある意味、今週の福音でイエスが弟子たちに与えた掟、「互いに愛し合いなさい」という掟の実践なのだと思います。
さてイエスは、「あなたがたに新しい掟を与える。」(13・34)と切り出しました。この場面は、ユダがイエスを離れていって、夜の暗闇に消えて行ってからの話です。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」(13・21)この言葉がきっかけとなって、イエスのもとに留まる人と、イエスを見捨ててしまう人とが明らかになる場面です。留まる決意をした弟子たちに、「新しい掟を与える」と仰ったのです。
けれども、「互いに愛し合いなさい」という掟そのものは、そんなに目新しさはありません。「兄弟姉妹互いに仲良くしなさい」そうした言葉は、だれでも交わす言葉ではないでしょうか。この掟の新しさはどこにあるのでしょうか。
イエスの掟の新しさは、そのあとに続く「わたしがあなたがたを愛したように」ということばにあります。イエスは、留まる決意を示した弟子たちに、自分がこれまでどんなに深く弟子たちを愛してくださったか、身をもって示されました。多くの奇跡を行い、最後の晩さんの席では、弟子たちの足を洗ってくださいました。
そして今日の場面では、ユダが離れてしまい、裏切る者によってご自分が十字架にはりつけにされ、栄光を現すことが確実となりました。十字架上で人類のためにいのちを与えるほど、イエスは弟子たちに代表されるすべての人間を愛してくださったのです。
ですから、イエスの掟の新しさは、「お互い、できる範囲で愛し合いなさい」というものではないということです。自分を投げ出して、相手を愛する。イエスが示した新しさです。ですから、互いに愛し合うとは、「互いに相手のために自分を投げ出す」その覚悟が必要なのです。
幸い、福見教会は献堂百周年、高井旅教会は献堂五十周年、浜串教会も4年もすれば今の聖堂は50年になります。それぞれが、この聖堂に集い、声を合わせて祈り、声を一つに歌っていますが、互いに愛し合いなさいとのイエスの言葉に生きているでしょうか。
「人は人、自分は自分だから。」そんな雰囲気が、社会を飲み込んでいます。協力はするけれども、自分が損をするのは嫌だ。それがごく当たり前と思われています。その中で、新しい関わりかた、新しい隣人愛を示し、生きるようにイエスは求めているのです。
わたしたちの聖堂は、五十年・百年と年月を積み重ねる所まで来ました。この日までに、きっとだれかが、自分を投げ出してでも、この聖堂を愛し、守ってくれたことでしょう。懐を痛めずに、そこそこ協力しましょう。そんな関わりかたでは、この聖堂は今日を迎えることはできなかったでしょう。
さらに、あと五十年この聖堂を維持するためには、わたしたちの中から、自分を投げ出してでもこの建物を愛し、守ってくれる人たちが続いてくれないと、維持することは難しいと思うのです。そうして大切に守られてきた聖堂に集っているのですから、今がもっとも「互いに愛し合いなさい」というイエスの掟を学ぶにふさわしい時間だと思います。
全能の神と、兄弟の皆さんに告白し、ゆるしを願いました。ともに主の祈りを唱えます。平和のあいさつを交わします。同じご聖体から、皆が養われます。このミサの中で、自分をすっかり差し出して相手を愛する生き方を学びましょう。その生き方が社会の多くの人にも理解されるように心を配りましょう。
大きな喜びの日を前に、わたしたち小教区の神の民は、またとない学びの機会をいただいているのだと思います。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ17:20-26)
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‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼今回の福見教会献堂百周年・高井旅教会献堂五十周年記念事業は、考えれば考えるほど、準備していないこと、やり直さないといけないこと、配慮が必要なこと、見落としていることが出てくる。社会人としての常識も問われる。
▼だれでも分かりそうなことなのだと思うが、いかに自分が一般社会の常識をわきまえていないか思い知らされることばかりだった。たとえば、お祝い事に包む謝礼は、新札を用意すると知った。そう言えば、受け取ったことはあるが、用意して渡したことがなかった。
▼日本人のきめ細やかさの表れであるが、お祝い事は早くから日程が決まっているので、新札を用意することで心に留めていましたということを相手に伝えることになるらしい。反対に、弔意を表す香典には新札は用いないそうだ。
▼お祝いを包む封筒、「水引(みずひき)」は神事に用いられることから、神経質に考えれば手作りで教会の催しにふさわしい物を用意するくらいの慎重さが必要だったかもしれない。気にしなければ気にしなくてもよいのかもしれないが、あまりにも無頓着だった。
▼祝賀会の準備、食事を担当している婦人部のみなさんの財布はどうなっているのだろうか。わたしはまったく関知しなかったが、婦人部としてみればもっと早くから声を掛けてもらいたかったかもしれない。
▼考えれば考えるほど、頭が痛い。髪の毛が少なくなっていく。苦労したことは決して無駄にはならず、大いに勉強になったのだが、しばらくは「○○周年」には当たらないで過ごしたいというのが本音だ。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
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第255回目。中町教会に併設されている保育園の聖母像。並べてある物がかわいい。
ホームページもご覧ください。
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===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===
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神の民がイエスに倣い愛し合う
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金曜日に、青方のゆうちょ銀行でATMを操作したのですが、すぐ脇の丸テーブルに、財布の入った手提げを置いたまま帰ってしまいました。郷の首のガソリンスタンドで「レギュラー、満タン。洗車もお願いね」と言って車を降りようとしたら、助手席に手提げがありません。
シートの下に落ちたのかなと思ったりしましたが、見当たりません。その瞬間、「あーこれは、どこかで忘れてきたんだな」と気づき、血の気が引きました。青方でどこを回ったか考えてみました。まず親和銀行に行って、新札を引き出しましたので、親和銀行に電話をしました。行員さんは、「手提げ類はないみたいですねー」という返事でした。
ガッカリしましたが、ならばゆうちょ銀行だと問い合わせると、「ありますよ。中身を答えてみてください。」と聞かれたので、「ねずみ色の手提げの中に、財布が入っていると思います。財布には、ナカダコウジという名前の免許証があります。」すると応対してくれた人が「はい、確かにあります。お預かりしておきます。」と返事をくださいました。
給油と洗車をしてくれたスタッフの方に事情を言って青方に引き返し、財布を取り戻して来ました。献堂百周年・献堂五十周年記念行事を目の前にしたこの忙しいときに、何をぼおっとしているのだろうか。どれだけ神さまも試練をくださるのだろうか。そんなことを思いました。
今になって考えると、よくまあ財布も持って行かれずに残っていたものだなぁと思います。カード類は役に立たないかもしれませんが、現金もそこそこ入っていましたし、一緒に入れていた免許証の住所を調べれば、わたしからもっとお金を要求することもできたかもしれません。だれもいたずらせず、小一時間そこに置いたままになっていたのですから、上五島の人たちは優しい人たちだなぁと感謝しました。
だれも気にしてなかったのかもしれませんが、もしかしたら、忘れ物をした人をかわいそうに思ったのかもしれません。「忘れた人は困っているだろうなぁ。そおっとしておけば、思い出して取りに来るかもしれない。」それは、ある意味、今週の福音でイエスが弟子たちに与えた掟、「互いに愛し合いなさい」という掟の実践なのだと思います。
さてイエスは、「あなたがたに新しい掟を与える。」(13・34)と切り出しました。この場面は、ユダがイエスを離れていって、夜の暗闇に消えて行ってからの話です。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」(13・21)この言葉がきっかけとなって、イエスのもとに留まる人と、イエスを見捨ててしまう人とが明らかになる場面です。留まる決意をした弟子たちに、「新しい掟を与える」と仰ったのです。
けれども、「互いに愛し合いなさい」という掟そのものは、そんなに目新しさはありません。「兄弟姉妹互いに仲良くしなさい」そうした言葉は、だれでも交わす言葉ではないでしょうか。この掟の新しさはどこにあるのでしょうか。
イエスの掟の新しさは、そのあとに続く「わたしがあなたがたを愛したように」ということばにあります。イエスは、留まる決意を示した弟子たちに、自分がこれまでどんなに深く弟子たちを愛してくださったか、身をもって示されました。多くの奇跡を行い、最後の晩さんの席では、弟子たちの足を洗ってくださいました。
そして今日の場面では、ユダが離れてしまい、裏切る者によってご自分が十字架にはりつけにされ、栄光を現すことが確実となりました。十字架上で人類のためにいのちを与えるほど、イエスは弟子たちに代表されるすべての人間を愛してくださったのです。
ですから、イエスの掟の新しさは、「お互い、できる範囲で愛し合いなさい」というものではないということです。自分を投げ出して、相手を愛する。イエスが示した新しさです。ですから、互いに愛し合うとは、「互いに相手のために自分を投げ出す」その覚悟が必要なのです。
幸い、福見教会は献堂百周年、高井旅教会は献堂五十周年、浜串教会も4年もすれば今の聖堂は50年になります。それぞれが、この聖堂に集い、声を合わせて祈り、声を一つに歌っていますが、互いに愛し合いなさいとのイエスの言葉に生きているでしょうか。
「人は人、自分は自分だから。」そんな雰囲気が、社会を飲み込んでいます。協力はするけれども、自分が損をするのは嫌だ。それがごく当たり前と思われています。その中で、新しい関わりかた、新しい隣人愛を示し、生きるようにイエスは求めているのです。
わたしたちの聖堂は、五十年・百年と年月を積み重ねる所まで来ました。この日までに、きっとだれかが、自分を投げ出してでも、この聖堂を愛し、守ってくれたことでしょう。懐を痛めずに、そこそこ協力しましょう。そんな関わりかたでは、この聖堂は今日を迎えることはできなかったでしょう。
さらに、あと五十年この聖堂を維持するためには、わたしたちの中から、自分を投げ出してでもこの建物を愛し、守ってくれる人たちが続いてくれないと、維持することは難しいと思うのです。そうして大切に守られてきた聖堂に集っているのですから、今がもっとも「互いに愛し合いなさい」というイエスの掟を学ぶにふさわしい時間だと思います。
全能の神と、兄弟の皆さんに告白し、ゆるしを願いました。ともに主の祈りを唱えます。平和のあいさつを交わします。同じご聖体から、皆が養われます。このミサの中で、自分をすっかり差し出して相手を愛する生き方を学びましょう。その生き方が社会の多くの人にも理解されるように心を配りましょう。
大きな喜びの日を前に、わたしたち小教区の神の民は、またとない学びの機会をいただいているのだと思います。
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ちょっとひとやすみ
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▼今回の福見教会献堂百周年・高井旅教会献堂五十周年記念事業は、考えれば考えるほど、準備していないこと、やり直さないといけないこと、配慮が必要なこと、見落としていることが出てくる。社会人としての常識も問われる。
▼だれでも分かりそうなことなのだと思うが、いかに自分が一般社会の常識をわきまえていないか思い知らされることばかりだった。たとえば、お祝い事に包む謝礼は、新札を用意すると知った。そう言えば、受け取ったことはあるが、用意して渡したことがなかった。
▼日本人のきめ細やかさの表れであるが、お祝い事は早くから日程が決まっているので、新札を用意することで心に留めていましたということを相手に伝えることになるらしい。反対に、弔意を表す香典には新札は用いないそうだ。
▼お祝いを包む封筒、「水引(みずひき)」は神事に用いられることから、神経質に考えれば手作りで教会の催しにふさわしい物を用意するくらいの慎重さが必要だったかもしれない。気にしなければ気にしなくてもよいのかもしれないが、あまりにも無頓着だった。
▼祝賀会の準備、食事を担当している婦人部のみなさんの財布はどうなっているのだろうか。わたしはまったく関知しなかったが、婦人部としてみればもっと早くから声を掛けてもらいたかったかもしれない。
▼考えれば考えるほど、頭が痛い。髪の毛が少なくなっていく。苦労したことは決して無駄にはならず、大いに勉強になったのだが、しばらくは「○○周年」には当たらないで過ごしたいというのが本音だ。
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