こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第29主日(マルコ10:35-45)苦しみを苦しみとして受け取るだけで十分

2018-10-20 | Weblog
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こうじ神父
「今週の説教」
2018/10/21(No.968)
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年間第29主日
(マルコ10:35-45)
苦しみを苦しみとして受け取るだけで十分
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今週は田平教会出身の神父様がまた一人叙階50周年「金祝」を迎えます。福音朗読に触れながら、これまでの道のりがどんなに大変なことか、50年の重みはどれほどか、考えてみたいと思います。ひょっとしたらご本人は大変さや重さについて何も語らないかもしれません。私なりに、推察したいと思います。

50年を迎える出来事の中で、いちばん大変だろうと想像するのは結婚50年です。2つ理由があります。1つは夫婦が両方とも生きている必要があるということ、もう1つは結婚した年齢が30歳を過ぎると、50年後には80歳になっているということです。

その次に大変な50年の祝いとして、司祭叙階50年を取り上げたいです。たいていの人が、75歳を過ぎた頃に叙階50年となります。司祭の定年は75歳と言われていますので、50年過ぎるまでは特別な事情がなければ現役世代ということになります。しかし肉体的にも精神的にも、30歳前に司祭になってから、75歳まで変わらず現役で居続けるというのは、本当に難しいことではないでしょうか。

与えられた朗読箇所の中で、ヤコブとヨハネが「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(10・37)と願い出ました。単に名誉が欲しかったのではないと思います。自分たちの労苦が、「報いにつながる労苦であるという保証が欲しい」そういうことだったのではないでしょうか。

私たちは弱さを抱えた人間です。取り組んだことが記憶や記録に残ったり、何らかの報いが返ってきたりすることをどこかで期待しているわけです。苦労が苦労だけで終わることを、とても恐れているわけです。想像ですが、浜崎神父様もこの50年は、言葉に表せない苦労を味わってきたことでしょう。

その苦労に対して、今どのようなお気持ちなのかなぁと考えるのです。イエスを間近に見て、そばで暮らした弟子達さえ、報いの保証を取り付けたかったのですから、見ることも聞くこともできない現代にあってイエスのためにささげた50年を、どのように受け止めておられるのかなぁ。とても興味があります。

報いがなくても何も不満を感じない時期もあります。司祭になって25年の銀祝まで、これと言って報いはありませんでした。会社に勤めると、勤続25年で特別表彰とか会社丸抱えの慰安旅行とかあるかもしれません。司祭も25年で1年間のリフレッシュ休暇を願うことができるそうですが、同級生3人のうち誰もリフレッシュ休暇を願いませんでした。

特に、何かを与えられなくても、25年は務めることができました、ですが折り返しを過ぎてみると、1年1年が長く、つらく、重く感じるのです。50歳を過ぎて急に身体の疲れが取れなくなったり、今まで苦労せずにできていたことができなくなったり、それはもう前半25年までの1年と、折り返したあとの1年は少なくとも肉体的には感じ方が違うと思います。

浜崎神父様が、そっくり同じ体験をしているかは分かりません。ですが生身の肉体です。似たような思いはなさっているでしょう。その上で、折り返しの25年を完走したというのは、これはすごいことだと思います。肉体的な弱さをカバーするのは精神ですから、精神面で、きっと前半の25年とは違う何かを体得したのかもしれません。

福音朗読に登場するヤコブとヨハネは、言ってみれば弟子としての前半戦で、報いの保証を願ったわけですが、彼ら2人も含め、次のように諭しています。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」これは、弟子たちの後半戦に向けての心構えではないでしょうか。

弟子たちは前半戦は地上のイエスと共に行動し、宣教活動にいそしみました。後半戦は、復活したイエスが遣わしてくださった聖霊と共に宣教活動です。霊が導く宣教の形に自分を合わせていきます。弟子たちに求める宣教者の姿が、「皆に仕える者」「すべての人の僕」だったわけです。

「報いがあったらいいなぁ」と思います。それは本心です。前半戦のように、「報いがなくても構わない」と正直言い切ることができません。肉体の衰えとか変調は隠しようがありません。けれどもそれらを乗り越える、少なくとも乗り切る基(もとい)は、「皆に仕える者」「すべての人の僕」になりなさいというイエスの招きなのだと思います。

「僕」について、私はルカ福音書の次の箇所を思い出します。「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。」(ルカ17・7-9)

これに対し、僕の返事はありませんが、僕は「主人が私に具体的な感謝をしてくれない」と不平を漏らすでしょうか。そんなことはないはずです。そこから考えて、後半戦の25年を勤め上げた先輩神父様も、同じ心境に到達なさったのだと思うのです。肉体的な限界を乗り越えて忠実に務めを果たせたのは、徹底してイエスが招いておられる「皆に仕える者」「すべての人の僕」の境地に達しているからに違いありません。

私も自分のあり方を考えます。26年経過した今は、26年前の新司祭の姿よりも、24年後の金祝を迎えた先輩神父様方に近いと感じます。肉体的な部分だけでなく、精神的にも、「皆に仕える者」「すべての人の僕」ただそれだけで十分であると言える境地に達したいものです。苦しみを苦しみとして受け取る、困難を困難として受け取る。イエスの弟子はそれだけで十分である。そんな境地を、お祝いを受ける浜崎神父様から学び取りたいと思いました。

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‥次の説教は‥‥
年間第30主日
(マルコ10:46-52)
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ちょっとひとやすみ
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▼「頼まれていることは時を置かずに」という話。先週だったか先々週だったか、「葉書を2通」と書いたような気がするが、この件は片付いた。だが仕事は私に休みを与えてくれない。20日には決まって提出している15分程度のマリア文庫宛ての宗教講話、11月から始める「聖書愛読運動-詩編を読む-」の導入解説。まずはこの2つにすぐに取りかからなければならない。
▼さっき、小学生が司祭館のチャイムを押した。「お父さんのグローブをもらって帰りたいです。」9月に開催されたカトリック平戸地区評議会主催の球技大会でチームに参加し、たまたま忘れたグローブを、主催者の方で預かってもらっていた。10月9日にちょうど顔を合わせたので「忘れ物のグローブは田平教会チームのメンバーのものです。あずかって帰りたい」と声をかけた。
▼「すぐにお届けします」と言ってから早くも12日。子供に「もらってきて」と言ったお父さんは当然受け取れると思っていただろう。日曜日21日は参加しているチームでの試合があり、この時点で焦っているに違いない。うまく受け取って渡すことができれば幸いだ。
▼この記事を書いている間に、ケータイに電話が入った。「これから届けに行きます。遅くなって申し訳ありません」ということだった。まずは一安心。あとは今日のうちにお父さんが取りに来てくれれば明日何とか間に合いそうだ。
▼返事を出していない葉書がもう一つ出てきた。明日までに到着と書かれている。どうして今まで放置していたのか。心配しているに違いない。返事を待たれているものには時を置かずに返事を。そういう人でなければ、残りの25年お役に立てないのではなかろうか。

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今週の1枚
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第575回目。撮影する道具を主任司祭用途で買った。撮影する道具が主役だなんて。

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† 神に感謝 †
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