こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)何も弁明せず、一粒の麦は地に落ちて死ぬ

2021-03-20 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
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(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2021/3/21(No.1111)
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四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)
何も弁明せず、一粒の麦は地に落ちて死ぬ
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本日、午後1時から浦上教会で司祭の叙階式が行われ、三人の受階者が司祭に叙階されます。三人司祭が与えられるのは久しぶりです。神様に感謝しましょう。そして、日頃から祈りと神学生養成援助でお支えくださった皆様に感謝致します。

三人新司祭が誕生すれば、当然三ヶ所の任地に派遣されることになります。その他の人事異動も含めて、集まった司祭たちで賑やかになるでしょう。異動の対象になっていない私は、盛り上がっている輪の中に入って、誰がどこに異動なのか、集めて持ち帰りたいと思います。

先週、小教区の黙想会が行われましたが、その数日後に紐差教会巡回の黙想会に、ゆるしの秘跡の手伝いに行ってきました。黙想指導をしておられたのは、紐差小教区出身で、長らく宮崎のミッションスクールの校長を務めたことのある「山頭原太郎神父様」でした。何と御年96歳。

声はしっかりしておりましたが、耳は遠くなり、説教をするために祭壇に上がるにも、一旦座った椅子から立つのにも濵口主任神父様の介助が必要な状態でした。ですから信者さんの告白を聴くのはとても無理ということで、私が手伝いに行ったわけです。

紐差教会の巡回教会は二つありまして、一つは木ヶ津教会、もう一つは大佐志教会です。皆さんの方がよくご存知でしょう。そして木ヶ津教会と言えば、聖堂内にかつて永井隆が描いた「十字架の道行」が飾られています。思ったよりも小さな絵でしたが、小さなかわいらしい聖堂を飾るには十分でした。

午前の部で木ヶ津教会のお手伝いに行きましたが、「そう言えば、桜も有名だったなぁ」と思い出しまして、お手伝いを終わって食事までの空き時間に桜を見に行くことにしました。スータン姿で、歩いて出かけました。田平教会の北側の通路くらいの、狭い道を歩いていると、後ろから軽トラックがそろーっと付いてきます。

私が邪魔しているかも知れないと思い、畑に上がって道を譲ったら、おばあさんが軽トラから声をかけてきました。「神父様~。神父様は山頭神父様ですか~?」私はショックを隠しきれませんでしたが、気を取り直して「田平教会の神父よ。木ヶ津の黙想会の告解の手伝い。」

するとそのおばあさん達はこう続けます。「あー、平戸口教会ですか。ご苦労さんです。」ショックでした。そのおばあさん達にとって、「田平教会」とは、「平戸口教会」のことのようです。それでも自分を奮い立たせて「いやいや。平戸口教会じゃなくてレンガの教会のほうよ」と返すと、「それじゃ宝亀教会ですか?」と言うのです。私は田平教会のすべてを否定されて、泣きたい気持ちでした。

話を切り替えようと思い、こう言いました。「お母さん。この道を行ったら桜があるかな?」すると「慈眼桜のことですね。私たちも今から行くところですよ。」それで私が「そうか。ありがとう」と言ったら、その軽トラックは去ってしまいました。せっかくなら荷台に載せろよ!

生涯残る面白い出会いでした。虚を捨てて、心を開いて話に耳を傾けたら、会話した言葉の何倍もの収穫があったからです。「田平教会」と聞いたおばあさんが「平戸口教会」と疑いもなく考えたこと。ではこのおばあさん達にとって、田平教会は何という名前の教会で呼ぶのだろうか?深く考えさせられました。

その他にも、たくさんの収穫がありました。そこで、「何だと?黙想会の説教をしていたじいさん神父様と勘違いするとは失礼にも程がある!」と切り捨てたら、何も収穫は得られなかったでしょう。イエスがすべての人を救うために、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12・22)と言われたのが、この年齢になって痛いほど分かります。

さて、慈眼桜を見に行く時に出会ったおばあさん達は、あの時のことを振り返って思い巡らしたでしょうか?「『田平から来たよ』と言っていたけれども、平戸口教会じゃなくて瀬戸山教会のことだったのではないだろうか?すると『レンガの教会』と言っていたのも宝亀教会ではなくて当然瀬戸山教会だ。何ということでしょう!」そこまでたどり着いたでしょうか?

おそらく、何も気付かないままだと思います。それでも、私が多くのことに気付いたので、恵み多いひとときになりました。そのように、イエスがたとえに用いられた「一粒の麦」は、何も語らず、弁明もせず、御父からこの地上に種蒔かれて、死ぬのです。

舞台を整えてから死ぬのではありません。十字架という、残酷な形で死ぬのです。しかし、死ねば多くの実を結ぶのです。それは私たちがあとで思い巡らして豊かにするからではなく、御子の死が無残な死であっても御父が栄光を与えてくださるのです。

すでにその時は迫っています。イエスは黙って、死に向かわれます。弁明もなく、一粒の麦になられるのです。私たちにできることは限られていますが、いつか私たちが一粒の麦の立場になる時、イエスの姿に見倣いたいものです。弁明の機会が無くてもうろたえず、自分を差し出しましょう。もし一度でもそのような機会が与えられれば、私たちはイエスのたとえを生きることができます。

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‥次の説教は‥‥
受難の主日(枝の主日)(マルコ15:1-39)
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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会は説教師を招いて行うことが多いので主任司祭は接待に回る。さまざまなタイプの神父様と個人的に親しく会話する貴重な機会となる。司祭会議では見えなかった一面も見ることが出来、実り多い三日間であった。
▼期間中、火曜日が大荒れの天気だった。参加者の中にも、荒れた天気を嫌って遠慮した人もいたようだ。さらには新型コロナウィルスの影響もあったかも知れない。参加人数が私の予想よりも少なかった。来年は、通常開催といきたいものだ。

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今週の1枚
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第718回目。桜の開花ももう少し。私は慈眼桜でなく、「田平桜」が好き。

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