当ブログをお読みくださり、ありがとうございます。
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↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/210214.mp3
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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2021/2/14(No.1106)
‥‥‥†‥‥‥‥
年間第6主日(マルコ1:40-45)
初歩の段階で有頂天にならず、イエスに付き従う
‥‥‥†‥‥‥‥
1月17日から中止されていたミサが、およそ一ヶ月ぶりで再開されました。平日のミサも止めていたので、修道院を含め多くの方々に影響が出ました。再開された今週のミサの説教は、福音朗読からの学びと併せて、仮にミサが中止されても、信仰を養い、維持する工夫を学んで帰りたいと思います。
今回の中止期間に、私は聖週間の典礼の説教のことを考えていました。出来上がったわけではありませんが、たくさんの時間を与えていただいたので、どうにかしてそれを活かしたいと思ったのです。聖週間になった時に、皆さんが家庭にいても信仰を養う雰囲気に満ちた一週間を味わえるように、材料を提供したいと思っています。
およそ一ヶ月、心配の種もいくつかありましたが、結果的には杞憂に終わりました。たとえば、電話応対で振り回されるのではないかと思っていましたが、一ヶ月で四回電話を取ったでしょうか。ほとんど電話もかかりませんでした。それよりも心配していたのは、葬儀が入るのではないかという心配でした。皆さんが健康に十分気を付けてくださったおかげで、何も起こりませんでした。むしろ、洗礼式の依頼が入って、新しい神の子供が誕生したのでした。
ミサの中止期間に入った最初は、「何も起こりませんように」と考えていました。けれども日を重ねていくうちに、「この中止期間に、何かの実りが生じますように」と願うようになったのです。願えば、神様は必ず答えてくださる。本当にそのことを実感しました。長い迫害の時代を耐え、宣教師がいない中で信仰を次の世代に伝えていった先祖達も、きっと同じことを体験によって理解したのだと思います。願いは、必ず聞き入れられるのです。
さて今週の福音朗読は「重い皮膚病を患っている人をいやす」という物語です。イエスがこの人を深く憐れむ様子が印象的です。最後にこのいやされた人は「だれにも、何も話さないように」(1・44)というイエスの注意を守らず、人々に言い広めます。イエスが「この人は言いふらすだろうな」と、最初に見抜けなかったとはとても思えません。
彼の願いは真剣そのものでしたが、いやされたあとさらにイエスの指示にとどまれる人ではありませんでした。イエスの深い憐れみは、「第一段階には聞き従えるけれども、第二段階には従って来られない人」への、深い憐れみなのだと思います。
私たちも同じことです。第一段階、第二段階までは従って行けても、第三段階、第四段階になると自分に甘くなり、イエスの意向に従えないのです。たとえば中田神父も、「何も起こりませんように」という考えから「何かが起こりますように」という考えまではたどり着きましたが、「何かを起こしに行きましょう」とまでは考えなかったのです。
念のため、なぜイエスが「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と厳しく注意されたのか考えておきましょう。それはイエスの十字架による救いの道を理解できなければ、奇跡的ないやしが一人歩きする恐れがあったからです。
十字架の上で亡くなることでイエスが救いのわざを完成させる。これが第四段階のイエスの救いのわざだとすると、奇跡はそれよりずっと前の段階、第一段階なのです。第一段階だけで分かったつもりになってイエスのことを言い広めてもらっては困るのです。
新型コロナウィルスの影響下にあって、約一年が過ぎました。新型コロナウィルスと出会う前が、私たちの信仰生活の第一段階だったとしましょう。今コロナ禍にあって、懸命に信仰生活のあり方を探しています。これが第二段階です。すでにある人たちは、第二段階で信仰生活の模索をあきらめたかも知れません。
けれども間もなく、ワクチン接種や治療法すら見つかったりして、新型コロナの恐怖を脱出するでしょう。それからが第三段階で、もっと先の段階も待っています。どこまでも、どんな試練をくぐってでも、イエスに付き従う。それだけの覚悟がなければ、奇跡的ないやしも、あえて語る必要は無いわけです。
奇跡的ないやしを見せるイエスにはついて行けるが、十字架を担うイエスにはついて行けないのでしょうか。間もなく四旬節で、イエスの受難を黙想する季節です。私たちの信仰は、奇跡的ないやしに有頂天にならないし、どんな災難で揺り動かされても前を向いてイエスに付き従う。その確信を得るために、コロナの時代を過ごしましょう。この試練が与えられたものであれば、試練には必ず、次の段階に上がるための意味があるのです。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
四旬節第1主日(マルコ1:12-15)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼先週の続き。でもってこの祈祷書、読み返しているうちに疑問が湧いてきた。「ミサにあずかるを得ざるときの祈り」は、祈りのタイトルがもはや「ミサに参加できない事情をもつ人」が思い出せないだろう。むしろ「このような祈りをしてみたら?」という提案もすべきなのではないか?
▼ほかにも、かつての十字架の道行にあった格調高い文言「御肉は破れ、御血は流れて御力尽き、なおも御渇きは耐えたもうべくもあらず」も、今となっては理解できる人がどれだけいるだろうか?祈祷書を開いた時、「どのように祈るべきか」を学ぶことができる。それが今の祈祷書の使命だと思う。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第713回目。旅先にて春を感じさせる第二弾。ただ来週は厳しい寒さになりそう。
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ホームページもご覧ください。
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
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† 神に感謝 †
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こうじ神父
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年間第6主日(マルコ1:40-45)
初歩の段階で有頂天にならず、イエスに付き従う
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1月17日から中止されていたミサが、およそ一ヶ月ぶりで再開されました。平日のミサも止めていたので、修道院を含め多くの方々に影響が出ました。再開された今週のミサの説教は、福音朗読からの学びと併せて、仮にミサが中止されても、信仰を養い、維持する工夫を学んで帰りたいと思います。
今回の中止期間に、私は聖週間の典礼の説教のことを考えていました。出来上がったわけではありませんが、たくさんの時間を与えていただいたので、どうにかしてそれを活かしたいと思ったのです。聖週間になった時に、皆さんが家庭にいても信仰を養う雰囲気に満ちた一週間を味わえるように、材料を提供したいと思っています。
およそ一ヶ月、心配の種もいくつかありましたが、結果的には杞憂に終わりました。たとえば、電話応対で振り回されるのではないかと思っていましたが、一ヶ月で四回電話を取ったでしょうか。ほとんど電話もかかりませんでした。それよりも心配していたのは、葬儀が入るのではないかという心配でした。皆さんが健康に十分気を付けてくださったおかげで、何も起こりませんでした。むしろ、洗礼式の依頼が入って、新しい神の子供が誕生したのでした。
ミサの中止期間に入った最初は、「何も起こりませんように」と考えていました。けれども日を重ねていくうちに、「この中止期間に、何かの実りが生じますように」と願うようになったのです。願えば、神様は必ず答えてくださる。本当にそのことを実感しました。長い迫害の時代を耐え、宣教師がいない中で信仰を次の世代に伝えていった先祖達も、きっと同じことを体験によって理解したのだと思います。願いは、必ず聞き入れられるのです。
さて今週の福音朗読は「重い皮膚病を患っている人をいやす」という物語です。イエスがこの人を深く憐れむ様子が印象的です。最後にこのいやされた人は「だれにも、何も話さないように」(1・44)というイエスの注意を守らず、人々に言い広めます。イエスが「この人は言いふらすだろうな」と、最初に見抜けなかったとはとても思えません。
彼の願いは真剣そのものでしたが、いやされたあとさらにイエスの指示にとどまれる人ではありませんでした。イエスの深い憐れみは、「第一段階には聞き従えるけれども、第二段階には従って来られない人」への、深い憐れみなのだと思います。
私たちも同じことです。第一段階、第二段階までは従って行けても、第三段階、第四段階になると自分に甘くなり、イエスの意向に従えないのです。たとえば中田神父も、「何も起こりませんように」という考えから「何かが起こりますように」という考えまではたどり着きましたが、「何かを起こしに行きましょう」とまでは考えなかったのです。
念のため、なぜイエスが「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と厳しく注意されたのか考えておきましょう。それはイエスの十字架による救いの道を理解できなければ、奇跡的ないやしが一人歩きする恐れがあったからです。
十字架の上で亡くなることでイエスが救いのわざを完成させる。これが第四段階のイエスの救いのわざだとすると、奇跡はそれよりずっと前の段階、第一段階なのです。第一段階だけで分かったつもりになってイエスのことを言い広めてもらっては困るのです。
新型コロナウィルスの影響下にあって、約一年が過ぎました。新型コロナウィルスと出会う前が、私たちの信仰生活の第一段階だったとしましょう。今コロナ禍にあって、懸命に信仰生活のあり方を探しています。これが第二段階です。すでにある人たちは、第二段階で信仰生活の模索をあきらめたかも知れません。
けれども間もなく、ワクチン接種や治療法すら見つかったりして、新型コロナの恐怖を脱出するでしょう。それからが第三段階で、もっと先の段階も待っています。どこまでも、どんな試練をくぐってでも、イエスに付き従う。それだけの覚悟がなければ、奇跡的ないやしも、あえて語る必要は無いわけです。
奇跡的ないやしを見せるイエスにはついて行けるが、十字架を担うイエスにはついて行けないのでしょうか。間もなく四旬節で、イエスの受難を黙想する季節です。私たちの信仰は、奇跡的ないやしに有頂天にならないし、どんな災難で揺り動かされても前を向いてイエスに付き従う。その確信を得るために、コロナの時代を過ごしましょう。この試練が与えられたものであれば、試練には必ず、次の段階に上がるための意味があるのです。
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ちょっとひとやすみ
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▼ほかにも、かつての十字架の道行にあった格調高い文言「御肉は破れ、御血は流れて御力尽き、なおも御渇きは耐えたもうべくもあらず」も、今となっては理解できる人がどれだけいるだろうか?祈祷書を開いた時、「どのように祈るべきか」を学ぶことができる。それが今の祈祷書の使命だと思う。
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