こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

年間第25主日(マタイ20:1-16)どの時点で恵みにあずかっても感謝できる人になる

2020-09-19 | Weblog
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(参考)実際の声を確かめながら読みたい方はこちらをクリック
↓↓説教者の意図が、より自然に伝わます。↓↓
http://ss104313.stars.ne.jp/voice/200920.mp3
(音声ファイルは、MP3形式です。再生ソフトをを用意してください。)
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こうじ神父
「今週の説教」
2020/9/20(No.1082)
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年間第25主日(マタイ20:1-16)
どの時点で恵みにあずかっても感謝できる人になる
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【期間限定】YouTubeで説教を視聴できます。チャンネル登録歓迎します。
https://youtu.be/S38boBKl7OA
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「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(20・16)およそ30年、身近な例にうまく当てはめることができずにいましたが、今回はうまく当てはまりそうです。

先週、司祭館の床の間のある部屋から「骨壺」が出てきたと、前振りだけしておりました。賄いさんから「床の間の部屋を掃除すると、何だか肩が重くなるとかずっと見られている気がする」と言われたのですが、「そんなことあるはずがない」と相手にしてなかったのです。

そうしてしばらく経ってから、大声を上げて助けを呼ぶので泥棒か?と、床の間の部屋を見に行きましたら賄いさんが腰を抜かし、床の間を指差して座り込んでいました。「出た!」と言っているのです。

そこで床の間の引き出しを開けますと、何と「骨壺」が出てきました。さすがにこんな物は置いておけないと思い、風呂敷に包んで納骨堂に移動しました。あとで中を確かめましたが、何も入ってなかったのでひと安心です。誰が、どんな目的で置いていたのかは分かりませんでした。もし皆さんで心当たりの方がおられたらご一報ください。また、近いうちに使う予定のある人も、ご一報ください。格安でお分けします。

さて今週の福音朗読、最後の結びは「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」となっています。私は正直、この部分が十分消化できずにいました。30年ものあいだです。

今年は突破口が見えた気がします。夜明け前に雇われた人から始まって、最後は夕方五時に雇われた人までいたわけですが、「もう一度雇われることになったらどうだろう?」と考えてみたのです。

今回の一連の騒動の後に、もう一度広場で雇われることになったら、どうだろう?夜明け前に雇われ、一時間しか働かなかった人より多く賃金をもらえるだろうと思っていたのに、彼らと同じ一デナリオンしかもらえなかった人は、次の日、また夜明け前から仕事を求めて広場に立つのだろうか?そんなことを思ったのです。

皆さんはどう思いますか?「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」(20・12)ここまで不平を言った人たちが、次も夜明け前に立つでしょうか。十中八九、この人たちは夕方ギリギリにしか、広場に立たないのではないでしょうか。

一方で、五時頃雇われ、一時間しか働かなかった人たちは、次に雇われる時にもっと早く広場に立つのではないかと思うのです。ずる賢い者もいるかも知れない。皆が皆ではないでしょうが、主人の寛大さに心を打たれ、一日分の賃金をもらえるなら、何もしないでいるよりは、ぶどう園で汗を流そう。そんな人が出てくると思うのです。

夜明け前から働いて、結局賃金に不平を漏らした人は、「夜明け前から立っていても馬鹿らしい」と思い、一時間しか働かなかったのに主人の寛大さに触れた人々は「早く広場に立って、この前のお礼にもっと長く働こう」と思う。これが、「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」ということなのではないでしょうか。

同じことは、洗礼をいつ受けたかということにも考えさせられます。今の時代、残念ながら幼児洗礼を受けた多くの人が、教会から姿を消しています。彼らは「夜明け前から」主のぶどう畑に入るのを許された人々です。ある人はこう言って、来なくなりました。「小さいうちに、一生涯ぶん祈りをしたから。」祈りがもたらす実りを味わう頃には、もう教会から遠ざかってしまいました。

一方で、成人してから洗礼を受ける人、結婚を機に洗礼を受ける人がいます。彼らが皆教会に留まっているわけではありません。私もそれは認めます。ただ、後で洗礼を受けた人は、受けた洗礼の恵みに感謝しています。自分で責任を持って洗礼を受けたので、自分が教会の家族に入れてもらったことを感謝しているのです。

できるなら、「結婚信者」とか「新信者」という言葉は無くなればいいなぁと思っています。神の子となり、神から永遠の命に招かれ、神の家族とされた。いきさつはそれぞれですが、夜明け前に恵みを受けた人も、あとで恵みを受けた人も、主であるイエスの前で互いに喜び合える教会家族でいたいなぁと心から願っています。

福音朗読に重ねて考えましょう。もう一度、洗礼を受けるとしたら、あなたはどのように行動しますか?「生まれてすぐに洗礼を受けるのは割に合わない。もう一度やり直すなら、人生の終わり、日暮れ前に受けて滑り込みたい」と思いますか。それともやはり生まれた時に洗礼を受けておきたいと思いますか。

今日、本来なら「福者カミロ・コンスタンツォ殉教祭」が焼罪(やいざ)殉教公園で行われる予定でした。カミロ神父様は、燃えさかる火の中で殉教しました。ご自身の信仰と、私たちの信仰を、火で精錬するために、殉教してくださいました。カミロ神父様がもし、もう一度人生を与えられるとしたら、「洗礼は亡くなる直前で十分。殉教などとんでもない」と思うのでしょうか。

私はご本人ではありませんが、もう一度人生を与えられても、生まれた時に洗礼を受けて、殉教を求められたら喜んで殉教したのではないかと思うのです。「最後に回心したこの連中と、火に焼かれて命をささげた私たちとを同じ扱いにするのですか?」殉教者がこんなことを言うはずがありません。

最後の一人にまで寛大に恵みを与えてくださる神の思いを、もう一度考えてみましょう。「燃えて輝くともし火」(ヨハネ5・35)となってくださった福者カミロ・コンスタンツォ神父様の思いを、もう一度考えてみましょう。だれもが、洗礼に招かれた境遇を感謝できる人になれますように。だれもが、違った環境で洗礼に招かれた人を喜べる人になれますように。

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‥次の説教は‥‥
年間第26主日(マタイ21:28-32)
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ちょっとひとやすみ
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▼平戸地区は9月の第3日曜日に「福者カミロ・コンスタンツォ殉教祭」のミサを焼罪殉教公園で午後2時からささげている。台風や、強風、雨のために現地での開催を田平教会聖堂に変更することはあるが、「中止」(台風直撃は別として)にはできるだけしない。
▼それだけこの殉教祭を大切にしているが、今年は何とも残念な結果となった。天気も上々なのに、もちろん台風も接近していないのに、殉教祭ができないのである。田平教会聖堂での開催も、「三密を避ける」ことが難しく、断念することとなった。
▼浦上教会に助任として入った20代のころ、毎年のようにこの殉教祭にマイクロバスで巡礼団を組んで出かけた。当時は、「平戸」は「遠路はるばる出かける場所」で、平戸大橋をバックに記念写真を撮る。これがお決まりの流れだった。
▼他にも平戸地区には「平戸ザビエル祭」「黒瀬の辻殉教祭(生月)」などがあり、巡礼には事欠かなかったが、今年はどこまで開催できるのか、開催しても、どんな制限を設けることになるのか、楽しみが削られることばかり頭によぎる。
▼田平教会に赴任するなど考えもしてなかった時代、よく殉教祭の帰りに「田平教会」に立ち寄って帰っていた。記憶はなんとも曖昧なもので、教会の敷地に入ったこと、聖堂の二階から内堂を見学したこと。
▼墓地がすぐ近くにあり、なぜか名前が同じ「中田藤吉」という神父様の胸像があった(大変申し訳ない!)こと、石段があって、あくまで記憶だが、遠くに海が見えていた(ような)。まさか、主任司祭となって風貌まで似てきた藤吉神父様をまじまじと眺める日が来るとは。

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今週の1枚
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第689回目。海岸清掃。「被造物を大切にする世界祈願日」環境整備活動の一環。

ホームページもご覧ください。
http://ss104313.stars.ne.jp/
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今週の「笑える」
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「最近カツレツが悪くなってきた」「確かに、『滑舌』悪くなってるかも」
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† 神に感謝 †
コメント
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