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‥‥‥†‥‥‥‥
こうじ神父
「今週の説教」
2019/5/26(No.1005)
‥‥‥†‥‥‥‥
復活節第6主日
(ヨハネ14:23-29)
聞いている言葉にお遣わしになった父の声が
‥‥‥†‥‥‥‥
「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」(14・24)主の昇天を来週に控えた復活節第6主日に、イエスのこの言葉を考えてみることにしましょう。
聖母月の締めくくりである「聖母行列」を無事に終えることができました。聖母像を先頭に、ロザリオを唱えながら行列したわけですが、行列をしたということだけが聖母行列の意味ではないと思います。聖母と共にこの五月を歩む。聖母の生き方に倣ってこの五月を生きる。そういうことを最終確認するための行列ではないでしょうか。
では聖母の生き方とはどのようなものだったでしょうか。それはイエス・キリストの言葉を生きて力ある言葉として受け止める生き方でした。たとえば婚礼の席でぶどう酒がなくなったとき、イエスの言葉が今にも台無しになろうとしていた婚礼を喜びに変えました。この時イエスの言葉が場面を喜びに変えることを信じて疑わなかったのはマリアお一人だったのです。
ですからわたしたちの聖母行列も、イエスの言葉を生きて力ある言葉として受け止めたマリア様の生涯に、これからも見倣っていきますという気持ちで聖母行列に参加したわけです。イエス・キリストの言葉は今は「聖書」という文字に書かれた言葉ですが、私たちもマリアに倣い、「生きた言葉として私たちに語られている」そう受け止める工夫・努力が必要です。その努力はふだんの教会生活から始まっているかも知れません。
私は田平教会に赴任するに当たって忘れられないことがあります。赴任したその年の夏に、大司教様が駐日バチカン大使を連れて平戸地区を視察で回られた折、田平教会に立ち寄ってくださいました。田平教会の説明を私が引き受け、その内容を大司教様が大使に英語で通訳します。「この教会はおよそ百年前に中田藤吉神父様が先頭に立ち、信徒が力を合わせて建てたものです。」
さらに「中田藤吉神父様から百年後に、師の血筋に当たる中田神父が献堂百周年を祝うことになります。これも大司教様の粋な計らいです」と大司教様に伝えたのです。その時大使に通訳しようとしていた大司教様は驚いたような顔で私を見て、「そうだったのかね?」と言われました。私は心の中で「そこは、『そうなんだよ』と言ってくださってよいのに」と思ったものでした。
私はこの話を単なる思い出話で話したのではなく、説教の冒頭で触れたイエスの言葉を思い出すきっかけにしたかったのです。「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」イエス・キリストの言葉は、福音書に刻まれた二千年前の話ではなく、今も生きて、力ある言葉だということです。
大司教様が私を田平教会に任命したとき、本当に百年前の中田藤吉神父様と私のつながりには気づいてなかったかも知れません。けれども神の摂理は、今も変わらず働いているのです。大司教様を通して、神は不思議な計らいを、実現させてくださったのです。ある意味大司教様がお気づきで無かったということが、神の摂理であることを物語っています。こうして、ふだんから「神の言葉は生きていて力がある」という体験を積むことで、福音書に語られるイエスの言葉により深く耳を傾けることができるようになるでしょう。
もう一つ考えたいことは、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14・26)このみことばです。私たちが触れることのできるイエスの言葉も、自分勝手に解釈すべきではありません。聖霊の照らしがあってこそ、その意味が説き明かされるのです。
聖書を読み、学ぶ中で、聖霊の照らしはどのように与えられるのでしょうか。私はそのとっておきの場が「聖書の分かち合い」だと思っています。田平教会ではまだ実践されておりませんが、少人数で聖書の箇所を読み、それについて感じたことを分かち合うという聖書の学びです。
イエスはかつてこう言われました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18・20)少人数で聖書を読むとき、聖霊が聖書の読み方を導いてくださり、よりよい学びをお与えになるのです。一人で専門書を読み、聖書を学ぶことも可能ですが、集まって分かち合いをするなら、聖霊の照らしによって大きな実りが得られることでしょう。
来週になると、私たちは主の昇天を祝います。主が天に昇られるのは、聖霊をお与えになるからです。私たちに与えられたイエスのみことばが、今も生きて力強く働いてくださる。そのためには聖霊による解き明かしがいつも必要です。聖霊のご降臨を願いながら、イエスのみ心の月へと続いていく一週間を希望のうちに歩むことにしましょう。
‥‥‥†‥‥‥‥
‥次の説教は‥‥
主の昇天
(ルカ24:46-53)
‥‥‥†‥‥‥‥
‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥
▼保育園行事の聖母祭に参加してきた。計画から準備まで、カトリックではない一般の保育主任が今取り組んでくださっているそうだ。よく考えられた聖母祭だった。子供達は「五本指の祈り」という祈りをしていた。教皇フランシスコがまだアルゼンチンの司教だった時に人を祈りに招くのに用いたものだそうだ。ネットで調べた。
▼聖母にバラの花びらを撒く「花蒔き係」に選ばれた園児たちが、「五本指の祈り」の節目節目で「あめのきさき」という聖歌に合わせてバラの花びらを撒く。中には真上に撒いていて自分の頭に降ってきてマリア様に届いていない園児もいた。懸命さは、マリア様に届いていたと思う。
▼評議会メンバーの親睦会というか、今年度奉仕してくださる皆さんと食事を交えて交流を深めた。新旧交代会が年度の終わりにある。これはご苦労さんかいなので、ねぎらいの意味だが、年度初めに「よろしくお願いします」との思いを込めて食事を取ってもよいのではないか。
▼この食事会で「世の中は実績を強調して活動や人物の理解を得ようとしますが、私たち教会の活動は、『右の手のすることを左の手に知らせない』そのような活動です。だれかに強調したりしませんが、神様は目に見えて実績を作る活動も、目に見えない隠れた奉仕も、すべてよくご存知です。信頼してそれぞれの持ち場での務めを果たしてください」と励ました。
▼教会は目に見える形の中で、神様の目に見えない活動を引き継いでいる。目に見えない活動を見てくださっている神を信じていなければ、活動の力も湧いてこない。信仰が土台にあっての奉仕なのである。
‥‥‥†‥‥‥
今週の1枚
‥‥‥†‥‥‥
第612回目。マリア様に祈る子供達に、マリア様の心が種蒔かれますように。
ホームページもご覧ください。
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【文庫本の問い合わせについて】
文庫本説教集「取って食べなさい」に問い合わせくださり
ありがとうございます。C年の文庫本がまた見つかり、
3冊セットの提供が可能になりました。ABC年セットで
2000円です。ご希望の方は住所と名前を添えて連絡ください。
† 神に感謝 †
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復活節第6主日
(ヨハネ14:23-29)
聞いている言葉にお遣わしになった父の声が
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「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」(14・24)主の昇天を来週に控えた復活節第6主日に、イエスのこの言葉を考えてみることにしましょう。
聖母月の締めくくりである「聖母行列」を無事に終えることができました。聖母像を先頭に、ロザリオを唱えながら行列したわけですが、行列をしたということだけが聖母行列の意味ではないと思います。聖母と共にこの五月を歩む。聖母の生き方に倣ってこの五月を生きる。そういうことを最終確認するための行列ではないでしょうか。
では聖母の生き方とはどのようなものだったでしょうか。それはイエス・キリストの言葉を生きて力ある言葉として受け止める生き方でした。たとえば婚礼の席でぶどう酒がなくなったとき、イエスの言葉が今にも台無しになろうとしていた婚礼を喜びに変えました。この時イエスの言葉が場面を喜びに変えることを信じて疑わなかったのはマリアお一人だったのです。
ですからわたしたちの聖母行列も、イエスの言葉を生きて力ある言葉として受け止めたマリア様の生涯に、これからも見倣っていきますという気持ちで聖母行列に参加したわけです。イエス・キリストの言葉は今は「聖書」という文字に書かれた言葉ですが、私たちもマリアに倣い、「生きた言葉として私たちに語られている」そう受け止める工夫・努力が必要です。その努力はふだんの教会生活から始まっているかも知れません。
私は田平教会に赴任するに当たって忘れられないことがあります。赴任したその年の夏に、大司教様が駐日バチカン大使を連れて平戸地区を視察で回られた折、田平教会に立ち寄ってくださいました。田平教会の説明を私が引き受け、その内容を大司教様が大使に英語で通訳します。「この教会はおよそ百年前に中田藤吉神父様が先頭に立ち、信徒が力を合わせて建てたものです。」
さらに「中田藤吉神父様から百年後に、師の血筋に当たる中田神父が献堂百周年を祝うことになります。これも大司教様の粋な計らいです」と大司教様に伝えたのです。その時大使に通訳しようとしていた大司教様は驚いたような顔で私を見て、「そうだったのかね?」と言われました。私は心の中で「そこは、『そうなんだよ』と言ってくださってよいのに」と思ったものでした。
私はこの話を単なる思い出話で話したのではなく、説教の冒頭で触れたイエスの言葉を思い出すきっかけにしたかったのです。「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」イエス・キリストの言葉は、福音書に刻まれた二千年前の話ではなく、今も生きて、力ある言葉だということです。
大司教様が私を田平教会に任命したとき、本当に百年前の中田藤吉神父様と私のつながりには気づいてなかったかも知れません。けれども神の摂理は、今も変わらず働いているのです。大司教様を通して、神は不思議な計らいを、実現させてくださったのです。ある意味大司教様がお気づきで無かったということが、神の摂理であることを物語っています。こうして、ふだんから「神の言葉は生きていて力がある」という体験を積むことで、福音書に語られるイエスの言葉により深く耳を傾けることができるようになるでしょう。
もう一つ考えたいことは、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(14・26)このみことばです。私たちが触れることのできるイエスの言葉も、自分勝手に解釈すべきではありません。聖霊の照らしがあってこそ、その意味が説き明かされるのです。
聖書を読み、学ぶ中で、聖霊の照らしはどのように与えられるのでしょうか。私はそのとっておきの場が「聖書の分かち合い」だと思っています。田平教会ではまだ実践されておりませんが、少人数で聖書の箇所を読み、それについて感じたことを分かち合うという聖書の学びです。
イエスはかつてこう言われました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18・20)少人数で聖書を読むとき、聖霊が聖書の読み方を導いてくださり、よりよい学びをお与えになるのです。一人で専門書を読み、聖書を学ぶことも可能ですが、集まって分かち合いをするなら、聖霊の照らしによって大きな実りが得られることでしょう。
来週になると、私たちは主の昇天を祝います。主が天に昇られるのは、聖霊をお与えになるからです。私たちに与えられたイエスのみことばが、今も生きて力強く働いてくださる。そのためには聖霊による解き明かしがいつも必要です。聖霊のご降臨を願いながら、イエスのみ心の月へと続いていく一週間を希望のうちに歩むことにしましょう。
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▼聖母にバラの花びらを撒く「花蒔き係」に選ばれた園児たちが、「五本指の祈り」の節目節目で「あめのきさき」という聖歌に合わせてバラの花びらを撒く。中には真上に撒いていて自分の頭に降ってきてマリア様に届いていない園児もいた。懸命さは、マリア様に届いていたと思う。
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▼この食事会で「世の中は実績を強調して活動や人物の理解を得ようとしますが、私たち教会の活動は、『右の手のすることを左の手に知らせない』そのような活動です。だれかに強調したりしませんが、神様は目に見えて実績を作る活動も、目に見えない隠れた奉仕も、すべてよくご存知です。信頼してそれぞれの持ち場での務めを果たしてください」と励ました。
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