こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

日本カトリック神学院東京キャンパス講話(2)

2017-01-23 | Weblog
【司祭は神によってしか、存在意義を示せない】

わたしは自分のことを「家造りの捨てた石」と自覚しています。中学一年生の夏休みのことです。長崎の小神学校に入学して、一学期を過ごし、初めての夏休みです。久しぶりに郷里の平日のミサにあずかり、そして神学生として初めて、郷里で日曜日のミサを迎えました。
教会の玄関にカトリック信者のおじさんたちがたむろしていました。その脇を通って行く時、たまたまおじさんたちの会話が聞こえたのです。こんなふうに言っていました。「輝あんちの息子の神学校に行ったって?」「おう」「何のそ~ん。輝あんちの息子の神父様にならうっとっちかよ。」中学一年生の少年だったわたしは恥ずかしさで顔が真っ赤になり、おじさんたちが誰だったのか、確認することすらできませんでした。
ミサにあずかっている間、おじさんたちの言葉がグルグル頭の中を回っていました。「何のそ~ん。輝あんちの息子の神父様にならうっとっちかよ。」通訳が必要かもしれません。「どうして輝兄貴の息子が、神父様になれるはずがあろうか。なれるはずがない」そういう意味です。次第にわたしの中に怒りがこみ上げて来まして、「見とれよ」という気持ちになりました。
わたしは来年司祭叙階25年の銀祝なのですが、あの時あの会話をしていたおじさんたちをこの機会に見つけ出そうと思っています。「あの時、『何のそ~ん』と言った奴は出て来い。名を名乗れ」と言いたいです。
しかし、よくよく考えると、あのおじさんたちには死ぬまでに一度感謝の気持ちを表したいと思っています。あの言葉がなかったら、歯を食いしばって辛抱することはできなかったでしょう。反抗期の時に、とっくに召命の道を放棄していたことでしょう。ありがたい言葉でした。
「輝兄貴の息子が司祭になれるはずがない。」これは事実です。詳しいことは言えませんが、わたしは小学校卒業を間近に控えて警察に補導された身です。ですからわたしは、「家造りの捨てた石」なのです。けれども神は、このわたしを使ってくださり、「隅の親石」としてくださいました。大なり小なり、司祭は神によってしか、その存在意義を示せないのです。


【司祭・修道者は祈る人である】

ここからは非常にまじめな話です。司祭・修道者は祈る人でなければなりません。知識は枯渇します。祈りも枯渇します。学び直したり、学び続けるのは、知識を枯渇させないためです。昔身に付けた知識にあぐらをかくと、痛い目に遭います。同じように祈りも、若いころにたくさん祈ったからもう祈る必要などない。そんな理屈は通りません。祈りの枯渇した司祭・修道者は、知識の枯渇した司祭・修道者よりもあわれでみじめです。
みなさんの考える祈りはどのような姿でしょうか。わたしが思い描くのは「手を合わせている」という姿です。基本的に人間は活動するというとき、両手を使い、両手を開いて活動するものです。手がふさがっていては、何もできない、というのが一般的です。
ただし、一つだけ、手を閉じて、手を合わせて行う活動があります。「祈り」だけは、手を閉じて、手を合わせて行う活動です。それは、一つの姿を現しています。自分のためには何もしないで、神様のために活動するという姿です。
もう少し言いますと、祈りは、自分のための活動をいったん止めて、神様に心をあげ、神様のために時間を使います。手を閉じているというのは、自分のためには働きません、という思いが形に現れたものです。自分のための活動には手を使いませんという意思表示なのです。
これは司祭・修道者の立っている場所も表しています。自分のためには手を使わない、時間を使わない。そういう生き方を世に示すのです。神と人々のために自分の手を使い、時間を使いますということです。祈る司祭・祈る修道者は、手を閉じて生きることの意味と価値を、生涯にわたって世に示し続ける存在だと思っています。


【司祭・修道者の「あかさたな」(1)】

何か皆さんにお話ができればと思うのですが、もちろんわたしたちは神様に何かの形で自分をおささげしてそして神様から全てをいただいてこの日々を生きていく者だと思います。
わたしたちの方から神様に何かおささげできるものがあるか?もちろん全身全霊をおささげすると思いますが、それをいくつかの言葉に置き換えると、まず一つめはわたしたちの愛を神様におささげする必要があると思います。
興味があるかどうか、この講話を録音したものをCDにしてお届けしますので、よかったら後でゆっくり聞いてください。愛を神様におささげするのがまずはわたしたちの大切な使命だと思います。
神様が男性なのか女性なのかあるいは男性女性気にしなくていいのかいろいろあると思いますが、“父よ”と呼びますのでどちらかというと男性として意識していいと思うのですが、本当に人間の世界の愛し合っている男女を少しイメージして何か考えてもいい、と思うのです。
愛する男女はお互いに与え合いますしお互いに全てを欲しがるのではないかと思います。小さい子供の面倒を見るときに、時々子供が思いがけず泣いたりします。最近泣いている子供を見てもかわいいと思うようになりました。わたしも年をとったかな?と思う瞬間です。
20代のときは、うるさいなぁと思ったと思いますが、今ではかわいいなぁと思います。泣いている時でもかわいいと思う。変なことですけれども、何をやってもかわいいわけです。何でも、それは目に入れても痛くないというか目に入れておきたいと思っているわけです。
そういう方にわたしは愛されている。そういう方に精一杯の愛をお返しするというわたしたちと神様の結びつきではないかなぁと思います。神様がわたしたちの全てをほしがるのであれば、期待するのであれば、わたしの方からいろいろあれこれ注文をつけないほうがいいと思います。
「あなたの何でもわたしは好きなんだ。愛しているんだ。あなたがどんなことをしていても、あなたはわたしにとって輝いているんだ。」そういうつもりで神さまがわたしたちを見ているとしましょう。そうなるとわたしたちは条件を付けない方がいいと思います。
例えば一般的な男性と女性の場合、「いやぁ~もう今日は準備できていないからデートできない」「今日は美容院に行ってないから何とかかんとか」と条件を付けて会話をしている。そういう様子をちょっと考えてみると、わたしたちの方が条件を付けるとするなら、こうゆう様子ならわたしの美しさ・良さ・魅力が出せるから、神さまこういう条件の時に見てください、わたしを愛してくださいと、あれこれ条件を付けるのはいかがなものかなと思っております。
愛する神はわたしたちがあらゆる状態にあるのをどんな状態でも目に入れても痛くない。本当にかわいらしいと思う。そういうふうに見ておられるのではないでしょうか?
なるほどそうだなぁと思ってくださるなら、もう少し話したいことがあります。それぞれ置かれている場所はいろいろです。こんなことをしてくれと言われ、その務めを果たしている。あなたはこういう位置にいてくれ。例えば、何か「長」の付く責任のある立場についてくださいと言われた。いろいろ考え付くでしょう。
そういう中で「個人的にはわたしはこういう中ではわたしの良さ・魅力を発揮できないのになぁ」と不満を持っている。いろんなことを思っている方々いらっしゃると思いますが、神さまから見ていてどうなんでしょう?わたしはこうゆう時こそ魅力があるから、魅力がない今は見ないでと言うのは、神さまの方からどうなんでしょう?
「わたしはあなたを愛しているからあなたがどんな務めであっても、たとえば寝たきりであっても、わたしにとっては魅力的だよ。あなたが祈っている姿、悪戦苦闘している姿、何を見てもわたしにとっては非常に喜ばしいよ」と神さまの方は思っているのでは?とわたしは思うわけです。愛し合っている人、愛している人の方からはそうではないかな?と思います。
途中で話したのですが、子供が泣いているのがかわいいなぁと思う。それは泣いている子供にとっては迷惑な話です。ですが、愛している人、かわいいなと思っている人にとってはそれはどんな状態であっても目に入れても痛くない魅力的な姿なんじゃないでしょうか?
そう思うとわたしたちのいろんな心配事、不満とはちょっと横に置けるのではないでしょうか?わたしは不満ばっかり。悩んでばっかり。こういう起用の仕方、こういう使われ方をわたしは耐えられないと思っている。神さまは「あなたがそうやって悩んで転げまわっていても、それでもいいんだよと。わたしにとってはあなたの良さ・魅力は何も変わっていないよ」とおっしゃってくださるのではないか?そう思います。
そのような方にわたしたちは愛をお返しする、愛されているんだなということを知って日々の務めに専心する。一生懸命心を向けていく。そういうことを期待されているんじゃないでしょうか。愛する。愛を返すために、わたしたちから条件を付けないようにしましょう、ということです。


【司祭・修道者の「あかさたな」(2)】

2つめは感謝です。
結婚式を引き受けることがあります。ある結婚式、両者ともカトリックではない方の結婚式でした。わたしはその方々にはなむけの言葉として「お互いに感謝することは当然ですが、感謝のもう一つ先にあるものに気がつくような、そんな夫婦であってほしい。そんな家庭生活を歩いていってください」とお話しました。感謝の先にあるものはわたしに言わせると「賛美」です。感謝で終わらずに、賛美する。何かを素晴らしいと言える。そういう人になってくださいとお話ししました。
感謝というのは、わたしの印象ですが、目の前の相手にする行為です。例えばこのような配偶者を与えていただいた。このような方とめぐり合うことができてありがたい。あるいは、わたしたち夫婦に新しい命をいただいた。この子を見て新しい命がやってきてありがたいと心から感じる、など。目の前の相手に感謝すると思うのです。


【司祭・修道者の「あかさたな」(3)】

もう一つ先に賛美というのが生まれてくるなら、もっと素晴らしい。
わたしはこういう生活に置かれた、こういう人とめぐり合った、あるいはこういう方々と知り合うことができた。ありがたいと思うと同時に素晴らしいと思う。そこまで気持ちが向くようになると目の前の相手ではなくもう一つ向こうにあるものを賛美できるようになる、讃えることができるようになるのではないでしょうか。そんなことを、花婿・花嫁さんに話しをしたわけです。
まったくカトリックではないので神様とかそういうことは話しませんでしたが、気持ちとしてはその先にあるあなたとあなたをめぐり合わせてくださった神様を讃える。そこまで気づいてほしいですというふうに言いたかった。あなたがたご夫婦に新しい命を授けてくださった、目の前にあるこのか弱い命を送り届けてくださった、もう一つ向こうにあるものに気がついて讃えてほしい。賛美してほしいと言いたかったのです。
どこまで伝わったか分かりませんが、わたしの気持ちとしては神への感謝と賛美に夫婦を向けたい。そういう面がありました。実は、この言葉にはもう少し裏がありまして・・・わたしはおぎゃぁっと生まれたときから洗礼を受けましたので他の宗教のことを良く分かりません。他の宗教の中で賛美するというような言葉・活動があるのかなと。
もしも、賛美するという活動があまり他の宗教に見られないとしたら、それはキリスト教にとっては一つの発見ではないでしょうか。わたしたちは賛美するという活動や言葉を十分に知っています。聖体賛美式というのがありますよね?賛美するこということについてわたしたちはある程度一日の長があるわけです。少しわたしたちに分があるかなと思っています。
もちろん、わたしは他の宗教のことを良く知りません。だから「いいえわたしたちにも賛美するという言葉があって賛美する働き・活動がありますよ」と言われると、もういちどわたしは勉強しなおす必要があると思います。わたしたちには初めから賛美するという働きがあります。まことの愛をお返ししたいという気持ちから、こういう場所に置かれたことを心から感謝する。今まで気持ちの問題で、置かれた場所を納得できなかった、不安に思っていた、苦しんでいたけれども、ちょっと楽になった。もしも楽になったのであればまずは感謝の気持ちを持っていただきたいと思います。
結婚を控えている方々にも話をする機会があります。20代30代の人たちです。みなさん明日目が覚めるというのは当たり前だと思っていますか?と聞きます。どうしてですか?という顔をしています。
もちろんそうでしょう。命にみなぎって本当に充実した時間をすごしているでしょうから、なぜ明日がやってくるのが不思議ですかという顔をしています。実際は20代・30代の方が例えば日本に150万人いるとして明日全員目が覚めるという保障はありません。昨日のうちに交通事故でなくなる方もいるかもしれません。何が起こるかわかりません。ということは次の日、目が覚めることにあなたはありがたいなぁと思いませんか?というふうに話をします。
わたしたちもそうだと思います。日常に感謝できるようになるのはどこかで神様に気がつくときだと思います。置かれた場所が非常に厳しい場所で、何も喜びを感じない、どれだけ頑張っても満足できないと思っていた人が、あるときどこかで神様を感じて、こんな厳しい場所でも神様はそばにいてくださったんだと気がついて感謝できるようになる。
感謝するときは、わたしたちにとって神様に気がついたときではないでしょうか?もちろん日常の感謝もありますが、突き詰めて深いところでは神様に気がついたとき、当たり前と思っていたことが感謝できる。そこに神様の何かを気づいたとき感謝できるようになるのではないでしょうか?
朝、目が覚めて皆さん何とも無いかもしれませんが、「良かったなぁ。今日一日また貰ったんだ」と思うならそれは感謝とか、祈りに結びついて良いのではと思います。この難しい問題にわたしたちは一生懸命取り組んだ。何とかこの問題を乗り越えていったというときに感謝できるのは当然だ!と思うか感謝できるかの違いは、どこかで神様を感じるかではないでしょうか?
そういうことが常々できるようになってくるともっともっと賛美する気持ちが芽生えてくるのではないかなぁと思います。
愛し、感謝し、感謝が深まって賛美する。そこまでわたしたちの神様への働きを考えてみました。今度はわたしたちが神様から何かを受けて溢れさせる。わたしの信念ですが、あふれ出ないことには外に向かっていかないと思っています。神学生の皆さんは料理の経験はあるでしょうか。伊王島に異動したとき初めの2ヶ月間自炊しなければならず、苦労しました。軽量カップなんていうものも初めて触りましたが、スプーン一杯、箸ですりきりいっぱいでは絶対こぼれません。溢れ出るから外に行くのではないのでしょうか?
わたしたちの思い。何かお返ししたいというのは溢れ出てからが始まりだと思います。皆さんの魂が探求心でどんどんいろんなものを吸収していく。吸収することはとても大切なことですが、吸収して積みあがっていくなら、溢れ出てようやく外に向かっていくのではないかなと思います。
ある日、お風呂で失敗しました。タンクにお湯がたまってから浴槽へ入れるシステムのものだったのですが、21時頃タンクの蛇口をひねりました。気がついたのは夜中12時半。悪いことをしました。行って浴槽に手を入れてみたら冷たかったんです。やってしまった。経済評議委員に「すまん。このタンク丸々一杯分お湯を失ったよ」と言ったところ、「仕方ないです神父さん。今度から注意して下さい」と言われました。
じゃんじゃん溢れ出ました。これくらい溢れ出るようにやってください。そうすると皆さんの働きはどんどん外へ向かっていく、また空になったら溜めたらいいんです。溢れ出るということはこういうことでしょうねと思いました。


【司祭・修道者の「あかさたな」(4)】

あふれ出るという思いは大事だと思います。あふれ出たら一つの形にしていってください。わたしたちの多くの人がしなければいけない、あふれ出て外に向かって行う働きは種まきだと思います。
刈り取りばっかりの人がいればそれはうれしいことです。例えば、行った先の教会に助祭さんがいた。助祭さんがいたということはもう間もなく司祭になるわけです。ありがたいことです。刈り取りだけ、種まきはしていないのです。この教会で。そういうことはありえます。
最初から最後まで刈り取りばかりの勤めという人はたぶんいないと思います。そういう中で、ほとんどの教会でみなさんが行うことは種まきではないかなぁと思います。皆さんのあふれ出る思い神様に愛をお返しした、感謝した、賛美した。当然それ以上のもので包んでいただける、満たしていただいていると思うのですが、そういう神様からいただいたものを種まきという形でこの世に届けていく。収穫の当てのない種まきかもしれません。それでもよいではありませんか。種まきのためにわたし自身を神におささげしましょう。
実はわたしはまだ「神学校に行け」と神学校にやった子はいません。入学に手を貸した子は一人います。滑石にいるとき入学手続きを手伝った川端君です。意識して神学校に行けと誘って行かせた子で、はっきりこの子だと意識している子はいません。川端神父さんはお兄さんが行っていたので、兄さんにあこがれて行ったようなものですから、なんとなくわたしから勧めて行ったというわけではないので、まだまだたくさん種まきが必要だなぁと思っています。
わたしは男の子の侍者の子とじゃんけんをしてその子が負けたら「神学校に行こうか」と言うのですが、きっぱり「嫌です」と言われます。「いいやんか。じゃんけんで負けたぐらいの子が行ったほうがうまくいくとって神学校は」とよく言います。そんなに優秀で模範的な生徒を送ったからといって確実になるということでは無いです。
じゃんけんでいいんです。じゃんけんで負けたから神学校に行けと。お父さんお母さんにそう言ってこいと。じゃんけんで負けたら神父様から神学校に行けといわれたと。なかには「面白いことをいう神父さんだなぁ」と言って行ってみようかなぁとか、親がこの神父さんのときに手なずけて欲しいなぁって思うような人もいるかもしれません。
いろんな種まきを通して、皆さんの働きを世にお返ししていってください。収穫の時、同じ人が刈り取るならそれは素晴らしいことですが、また違う人が刈り取りをするかもしれません。育て、芽を出させてくれるのは神様です。わたしたちはその時に期待されていることのために精一杯自分をささげればよいのです。
刈り取る人が違うかもしれませんが、それを悔やんだり、ねたんだりする必要は無いです。たまたまそこにいただけです。神様が芽を出させ、育ててくださるのを花婿の介添人は眺めて喜ぶ。それで良いのではないでしょうか。


【司祭・修道者の「あかさたな」(5)】

そして最後は「慰め」のために奉仕するということです。
慰めにつて、2つ考えていいと思います。1つは神様がお一人お一人を慰めてくださる。もう1つはわたしたちも誰かを慰めてあげる必要がある。泣いている人がいる。希望のもてない人がいる。そういう中でわたしたちはキリストの慰めを届ける者として出かけていく必要があると思います。
神様からの慰めについて、当然わたしたちはいただくことができると思うんです。慰めを届けに行くほうが問題です。希望の持てない人がいるんです。神様がいるならどうしてこんなにつらい日々を送らなければならないのか。神様なんてあったものじゃないと思っている人がいるんです。
そういう方々にわたしたちは出会うことがあります。わたしたちがそのときに届けてあげられるものは物質的な何かではありません。神様の慰めだと思います。あなたにも神様の慰めが必ず届きますという言葉を届けてほしい。敷居の高い司祭館にやっとの思いでやってくる人々は、ほとんどが誰からも慰められず、打ちひしがれてやってくる人々です。司祭が慰めを語ることがなければ、彼らは絶望してしまうでしょう。希望を失った人にキリストを語る。結婚が破たんしてしまった人に慰めと新しい道への希望を語る。家族を失い、祈り方を知らずにさまよっている遺族に、泣かなくともよいと近づいていく。そのために司祭は、身をささげる者なのです。
わたしたちはいつくしみの特別聖年を過ごしてきました。亡くなった聖ヨハネ・パウロ二世教皇様が復活節第2主日を神のいつくしみの主日として推奨なさいました。めぐり合わせでしょうか。この数年間亡くなられた教皇様のために神の慈しみが十分に注がれますようにとわたしたちは願い、祈って、ついに列聖されました。
教皇様ご自身定めてくださった神のいつくしみは、ますます重要になってきました。わたしたちが慰めを語る司祭となる必要性も、ますます高まっている感じがします。

最後に、まとめたいと思います。一回目の話は、こうなってはいけないという反面教師として受け取って結構です。二回目の話は、司祭は祈る存在であるということと、司祭が生涯かけてささげていくものは、「愛」「感謝」「賛美」「種まき」「慰め」ということでした。
これ、「あかさたな」の順番です。気がついた人いらっしゃいます?気がつかなかったでしょうか?これは何かを話すときのちょっとしたコツです。みなさんが何か話す機会があるなら、役に立つと思います。話がそれていっても、元に戻しやすいですね。
今後、時間が経って、講話の内容はぜんぜん思い出せなくても、皆さんなりの「あかさたな」のような「あいうえお作文」で組み立て直してください。「遊ぶ・買い物をする・さんざん寝る・たらふく食べる・なけなしの金をパチンコですってしまう。たしかこういう話だったかな」どうかこうならないことを願っています。
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