こうじ神父今週の説教

日曜日の福音メッセージをお届けします。

王であるキリスト(ヨハネ18:33b-37)王にすべてを従わせて生きる

2012-11-25 | Weblog
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(音声ファイルは、MP3形式です。)
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こうじ神父
「今週の説教」
12/11/25(No.620)
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王であるキリスト
(ヨハネ18:33b-37)
王にすべてを従わせて生きる
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先週金曜日、浜串教会出身で聖母の騎士修道会の神父さま叙階25周年銀祝の感謝ミサが長崎市のカトリック本河内教会でささげられ、同じ修道会の先輩後輩の神父さまと、浜串教会の歴代の主任神父さまが出席して、盛大に執り行われました。

感謝ミサでは、聖母の騎士の修道会会員としての誓願50周年の方が2人、そして司祭として25年を迎えた方が2人お祝いの対象になっていました。お祝いの対象者が複数いらっしゃる時は決まってそうですが、ミサの司式はこの人が、ミサ中の説教はこの人が、祝賀式の挨拶はこの人が、といった感じで役割分担をすることになります。浜串教会出身の神父さまはミサの司式を担当しました。

説教を担当したのはもう1人の司祭叙階25周年銀祝を迎えた神父さまでした。わたしの予想では説教も浜串の神父さまがするものと思っていたのでちょっと拍子抜けしたのですが、予想していない神父さまではあっても、25年を司祭として務めてきた方の話ですから、聞いていてとても参考になりました。

また、ミサの後の祝賀会の中で、修道士として50年間、修道会の誓願を守ってきた方のあいさつがありました。修道士ですので、表に立つことは少ない方だと思いますが、披露されたその半生は心を打ちました。

さて今週は、先週予告しておいたとおり年間最後の主日「王であるキリスト」を迎えています。この王であるキリストの週を終えると、来週からは待降節、イエスの誕生を準備する季節です。年間の主日を終わる今週、イエスの「王」としての姿に注目して学びを得ることにしましょう。

まずわたしは、「この世の王」と「王であるキリスト」の違いについて考えてみました。決定的な違いは、この世の王は限られた国の王であり、全人類の王であるキリストとは一線を画す存在だということです。いくら全世界の覇権をもくろむ王であっても、地上の王の権威が及ぶ範囲は限られています。地上の王の権威が及ばない場所があるのです。

これに対して、王であるキリストの権威は、すべての人、すべての場所、すべての時代に及びます。実際に、イエス・キリストは2千年たった今でも、多くの人、多くの場所、あらゆる時代に王として認められているのです。

また、この地上の王と王であるキリストの決定的な違いとして、地上の王は生まれた時は王ではなく、いつか王になる人ですが、イエス・キリストは、生まれたその時から変わらない王でした。地上の王は、仮に王の世継ぎとして生まれたとしても、現在の王が亡くなったり、引退しなければいつまでたっても王にはなれません。ところがイエス・キリストは、宿屋がなくて家畜小屋で生まれたその時でも、王として占星術の学者たちから礼拝と贈り物を受けたのです。

今週選ばれた福音朗読も、ピラトがイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問しています。ちなみにこの2人の対決は、表面上はピラトがイエスを尋問しているように見えますが、中身はイエスが一つ答えるたびにピラトは困惑し、追い詰められています。ですからイエスは裁判の被告に立たされていながら、真理を明らかにすることによってピラトを尋問しているのです。

ピラトは真理の前に身をかがめ、イエスに聞き従う直前までいったのですが、残念ながら彼は自分の身分が邪魔をして、真理であるイエスに聞き従うことはできませんでした。このピラトの姿に、今週わたしたちが学ぶべき点が見えてきます。すなわち、わたしは、イエス・キリストを王として認めているだろうか、ということです。

すでに、王であるキリストの特徴として2つのことを確認しました。1つはイエス・キリストはすべての人、すべての場所、すべての時代を超えて王であるということでした。わたしの生活の中で、イエス・キリストを二の次にするような場面が、だれに対しても、どんな場所でも、どんなタイミングでもあってはいけません。その点、揺るぎない信念をもって守ってきたでしょうか。

もう1つ、イエスはある時から王となられた方ではなく、初めから王であり、生涯のどの場面を取っても王であり続けました。わたしたちは、イエスのさまざまな場面を思い出し、イエスを王として認め、受け入れてきたでしょうか。

「こんな姿のイエスさまを王として受け入れられない」わたしたちの心が揺れていて、そんな時がいつか起こるかも知れません。今日の「王であるキリスト」の祭日を機会に、次の一年間は、イエス・キリストをどんなときにも王として迎える生活をする、その覚悟を新たにすることにしましょう。

わたしたちは、地上の国に属していない王を持っている国民です。王の喜ぶ生き方を、日々積み重ねましょう。また王であるキリストの生き方を、より多くの人に伝え、王の国民である「囲いに入っていないほかの羊」(ヨハネ10・16)が、王であるキリストをはっきり意識することができるように、働きかけを続けましょう。

イエス・キリストをみずからの王とし、また王であるキリストの生き方だけを徹底して証ししている人の50年、また25年の節目を祝う式典に参加して、自分自身の歩き方をもう一度見つめる良い機会を与えてもらいました。

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‥次の説教は‥‥
待降節第1主日
(ルカ21:25-28,34-36)
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ちょっとひとやすみ
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▼25周年の司祭が司式をした感謝ミサに一緒に参加してミサをささげた。多くの感謝の言葉を聞いた。自分のために祈ってくれた人、自分を影になり日向になり支えてくれた人。その感謝の言葉を繰り返し聞きながら、わたしはあと5年もすればやって来る25周年に、どんな言葉を絞り出すのか考えてみた。
▼25年を迎えるためには、そのスタートがあったわけだが、司祭に叙階されるまで福岡の大神学院で育ててくれた司祭がこんなことを尋ねた。「なぜあなたは(何のためにあなたは)司祭になるのですか。」いろいろなことを答えたが(教区のためとか、キリストをまだ知らない人のためとか)、それでも指導司祭は問い続け、「なぜあなたは司祭になるのですか」とわたしを追い詰めた。
▼最後に彼はこう続けた。「自分自身のために司祭になるのではありませんか。この人生、すばらしかったと言えるために、司祭の道を選ぶのでなければ、司祭への道を選ぶべきではありません。」今でもこの言葉はわたしの中で問い続けている。「なぜ司祭になったのか。」
▼もちろんわたしの努力で司祭になれるわけでもないし、司祭職を何かほかの選択肢と天秤に掛けて選んだわけでもない。だからこの道しか自分にはないと思っているが、今すでに20年この道を曲がりなりにも歩いてきて、「なぜ司祭になったのか、何のために司祭になったのか」と自問自答する。
▼それなりに、決して忘れられない体験もしている。記憶に残る出会いもある。それでも、「なぜ司祭になったのか」この問いに十分に答えることができていない気がする。たとえば、ここ数日体調がすぐれないが、もしも病気だったらどうしよう・・・と考えてしまうのである。今の生き方に迷いがないのであれば、病気になっても迷いはないはず。それが実際はそうでもない。
▼だから、「なぜ司祭になったのか」と真剣に考えたら、「うーん」と返事に困ってしまう。そこそこ何かを果たしてきたけれども、その「そこそこの人生」のために司祭職を選んだのだろうか。特にここ数日の体調不良の日々の中で考えた。

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今週の1枚
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第227回目。記念祝賀会。中央の花束を持った司祭が浜串出身の銀祝司祭

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