蕎麦喰らいの日記

蕎麦の食べ歩き、してます。ついでに、日本庭園なども見ます。風流なのが大好きです。

新しい鞄

2007-04-16 22:57:45 | 持ち物
何年も使った鞄が擦り傷だらけになってしまい、新調することにした。


今まで使っていたのは、A4ジャストサイズ、それでA4の書類をフォルダーに入れた状態で鞄にしまおうとすると、無理が出てしまっていた。それで一サイズ大きいものを選んだ。


その代わり(という程でもないのだが)、ファスナーで鞄の開け閉めをする形になり、口金のワンポイントが付かない。ちょっと残念。


でも、それだけマチもあり、大きく口が開く。これは、出張の時には便利そうだ。
前の鞄とは、北海道にも九州にも一緒に行ってきた。今度の鞄とは、どこまで行けるだろう。

日本橋  御清水庵 清恵

2007-04-15 22:51:56 | 蕎麦
お江戸日本橋は、日本の五街道の基点。要するに、日本のヘソのような場所といわれています。


しかし、この国の長い歴史の中で、東の国が中心になるのはごく近年です。それまでは、当然、京都が基点になると思われます。


日本橋からたった100メートル、越前のお蕎麦を食べてきました。日本橋川を望む、最高の場所でした。この界わいのお店ですので、日曜日に開いておられるのが、ありがたい。


いささか空腹もあり、おろし蕎麦+天麩羅をお願いしました。おろしは、実にピリ辛。それを計算に入れたか、汁自体は甘め。絞り汁でありながら、甘めです。


天麩羅は、お蕎麦屋さんらしい揚がり具合。カリリ、ハグ、サク。でした。

お昼はラーメン

2007-04-14 17:27:41 | 男の料理
お腹が空いたので、ラーメンを作ることにした。


まずはトッピング。作り置きのチャーシューに煮玉子。小松菜を茹で、ネギは小口で。


麺は市販のもの(インスタントではないですよ)を茹でた。鶏スープは塩と醤油で薄味に仕上げた。


お好みで、特性ラー油をお使い下さい。

滋賀県五個荘町  中江 準五郎邸

2007-04-13 21:18:23 | 古民家、庭園
近江商人屋敷は見所満載で、格屋敷の閉館時間が16時半と知りながらも、ついつい時間が経ってしまう。そのあおりを受け、中江邸に着いたときには、時間はもうギリギリになっていた。本当に駆け足で邸内をめぐるも、帰宅後に中江家のいわれなど知るに、更なる興味が沸いてくる。


中江家の座敷、居間は大きな池に三方を囲まれており、どの面の障子を開けるかにより、ひとつの連続した庭の一部分でありながら、全く異なる場面が展開する。


前の写真中央にある靴脱ぎ石辺りから、池を眺める。小さな噴水がアクセントとなり、その奥は深山の風情が漂う。


座敷側、ガラス越しに庭を望む。つくばいより下に、ガラスに反射した廊下の様子が写る。


居間側の庭。これも、ガラス越し。池からの浅い流れが、リズミカルである。

中江家は、明治に呉服商を始め、昭和9年には三中井百貨店と改称。日本の植民地政策を民間事業で実践するかのように、中国大陸、朝鮮半島に二十数店舗を展開した。「実業を以って鮮満支に活躍せんとする青年は来たれ、我が三中井へ」という企業理念であったようだ。釜山の支店は五階建てで、当時の町最大の建物であったらしい。
まさしく、満蒙開拓団の世界である。そのためか、中江家が敗戦後に急速に没落したと聞いても、それ程不思議にも思えない。おそらく中江家は、歴史の重みと不条理を体得した一族なのであろう。

それにしても秀吉の朝鮮覇兵といい、江戸時代の朝鮮使節段といい、近江の地は大陸との繋がりを強く感じさせる。その揚げ句が、三中井百貨店となると、これは余程の因縁であろう。

滋賀県五個荘町  外村 宇兵衛 邸

2007-04-12 20:54:23 | 古民家、庭園
こちらは1802年に、外村本家から分家した家で、明治時代には全国長者番付にも載る豪商となった。建物、庭共に一部は失われてしまったそうだが、特に庭は充分に魅力的だ。


梁は自然の木をたくみに使い、力強い。土間には、かまどの他、人力車も。


座敷から、庭を望む。庭の右手は木戸になっており、玄関を通らずに座敷の靴脱ぎ石へと上がることも可能だったようだ。実質を重んじた近江商人らしさが、感じられる。




座敷の障子にはガラスは使われていないが(上)、居間の縁側の障子には使われている。恐らく、明治、大正時代に相当に手が入っているのだろう。




庭は、近江商人屋敷として公開される前に、相当手を入れたものらしい。四阿もその時の復元らしいが、庭にうまく溶け込んでいる。


座敷、居間を庭から望む。神崎郡一番と評された当時を、思い起こさせる。

滋賀県五個荘町  外村 繁邸

2007-04-11 22:11:35 | 古民家、庭園
近江八幡の旧市街でゆっくりと昼食をとったので、もう午後2時半を過ぎている。小雨もパラついている。しかし、せっかくここまで来たのだから、五個荘町にある近江商人屋敷を見ずに帰るわけには行かない。とはいえ、そのためには相当な障害物が控えている。
・近江八幡旧市街から、駅まで出る(バス)
・東海道線(琵琶湖線)で2駅(普通電車)
・能登川駅からバスで約10分
しかも、時刻表も何も把握していない。
結果として、それぞれの待ち合わせ時間が10分以内になり、かなり運が良かったようだ。それでも、2時半から閉館の4時半までは、たったの2時間。見たい屋敷は3つ。随分駆け足になると同時に、よさそうな所を写真に撮ったら、どんどん次を目指していく、といういささか落ち着かない態度での訪問になってしまった。


最初に訪問したのは「外村 繁邸」。こちらは、外村家の分家にあたり、明治40年に本家の婿養子の吉太郎が独立したのが始まりだという。


座敷や庭は、かなり凝った造りだが、やはり近代の作と感じさせるものがある。


床の間には、雛人形が飾られていた。


分家としての初代吉太郎の三男として、外村 繁が生まれた。外村 繁は第三高等学校、東大経済学部と、商人としてのエリートコースを進み、家業も継いだが(三男だが長男は本家の養子となり、次男は病没)、昭和8年弟に家業を託し、私小説作家として名を成した。私小説作家としては、もちろんフィクションも織り交ぜてあるのだろうが、恐らくは自己の体験をなるべく忠実に書き記した作品が多いだろうと思われる。そのなかから「澪標」の一説を引用しよう。
「私が生れたところは滋賀県の五個荘である。当時は南、北五個荘村に分かれていたが、今は旭村と共に合併して、五個荘町となってゐる。

 周囲はどこでも見られる平凡な農村の風景であるが、いはゆる近江商人の主な出身地で、村の中には白壁の堀を廻した大きな邸宅も少なくない。木立の間から、白壁の、格別美しい土蔵も見られる。こちらの家の主人は、殆どが大都会に出て、商業に従事してゐ、妻が子供達と共に留守を守ってゐる。」
外村の自叙伝的作品は、その後の東京での生活など露悪的部分にも及ぶのだが、こののどかな一節は五個荘町の描写として、当を得ている。




閉じた無限を象徴するかのような庭。外村 繁は、この窓からの風景をどんな思いでみていたのであろうか。

近江八幡  喜兵衛

2007-04-10 23:34:30 | 日本料理
喜兵衛さんは、築190年の民家を活かした郷土料理のお店。


お花見客が多いのか、大分混みあっていたが、運よく一連のお客が終わられて、座敷のそれも床の間の前という最高の場所に座ることができた。


座った位置からの庭の眺め。おそらく、こちらのお店のベストポジションであろう。


大分歩いたので、冷えたビールがたまらない。赤いのは、コンニャク。おそらくベンガラで染めたものだろう。


お客が多くて、名物の鯉の煮付けは売り切れてしまったが、代わりに近江牛のタタキが付いた。昨日、たくさん魚を食べたので、この方が良かったかもしれない。ともかく、ビールにぴったり。


喜兵衛御膳。左奥はコンニャクに、牛蒡を牛肉の煮物。右奥はさまざま。卵焼きは、関西風で甘くない、出汁味。小魚の煮物に、サツマイモ。鯖寿司が一カン。左手前、野菜の炊き合わせは薄味だが、出汁が効いている。右手前、牛肉はしゃぶしゃぶ。タレは、タタキと変えている感じだ。
あまりのことに、冷酒までいってしまった。遅めに始めたお昼が、さらに遅くなってしまった。


蜆の御汁。これでお酒が呑めそうな、見事なもの。

滋賀県  近江八幡

2007-04-09 22:58:07 | 古民家、庭園
豊臣秀次は、戦国時代末に八幡城を築くとともに、八幡山下町として近江八幡の町を開いた。楽市・楽座の経済開放政策により、商業都市としての基盤を築いた。八幡城は廃城となるが、近江八幡は江戸時代を通して、商業都市として発展を続けた。
琵琶湖を見ていて、思ったのだが、京都・大阪が日本の経済的中心であった江戸中期までの時代に近江の商人たちは地理上、非常に有利な場所を本拠地としていたので、こんなにも栄えたのではないだろうか。その時代、商業は回船による水運が中心だった。日本海を航海する回船の荷を京都・大阪に運ぶとなると、京都の真北は山が深いので、小浜や敦賀から一度陸路に出て、それから琵琶湖を経由するのが一番楽そうに見える。となると、琵琶湖東岸の地は、その要となりそうだ。


近江八幡の旧市街地に立つ旧西川家。屋号は、大文字屋。


座敷より、主庭を見る。


振り返ると、裏の茶庭が見える。


旧市街地の中心の新町通り。徳川時代には、朝鮮との国交も回復し、朝鮮の使節団がこのすぐ後ろの京街道筋で昼食をとった記録もある。





新町通りでは、あまり広くない庭でも松を生かして、緑が豊かに見える。




八幡掘り沿いの桜が満開。人出がとても多かった。
この後、遅い昼食をとる。


大阪キタ  う越貞

2007-04-08 20:10:28 | 日本料理
大阪での仕事も無事終わり、関西方面在住の超グルメな方に手配していただいたお店へと向かう。


「う越貞」さんです。こちらは、魚を熟成させて、より美味しく食べさせる技術をお持ちなのだ。家庭用などの湿度が低い冷蔵庫に魚を入れておくと、表面が乾いてきたりして、味はどんどん落ちてきてしまう。ところが、戦前の氷式の冷蔵庫のように充分な保湿機能のある冷蔵庫に、痛む要素の無い(この辺を見分けるのが素人には難しそうだ)魚を入れると、熟成して味が良くなるものなのだそうだ。






冷蔵庫には、見るからに良さそうなネタが並んでいる。一番下は淡路の子持ち渡り蟹。


まずはビールでスタートする。お通しは、アユの稚魚にうみぶどう。


充分に熱した鉄板で、トリ貝を焼く。3-4日寝かせたものだそうだが、実にやわらかく食べやすい。さらに、味は豊か。よくあるゴムを噛むようなものとは、大違い。




お造りは、生ウニ(ミョウバン処理なし)、鯖のづけ、マグロの焙り、アオリイカ(こちらも数日寝かせたらしい)。ウニはそれ自体の味が濃く、山葵に少量の塩でいただくのがよい。づけは、充分に味が入っており、こちらも醤油など不要。アオリイカは、身が厚いのに、非常にやわらかい。醤油が要るのはマグロのみ。
ここから、日本酒(純米)にした。


白甘鯛の兜焼き。頭の周辺の鯛の身は、味の固まり。背骨の周囲、目の周りと、身も豊富に付いている。


子持ち渡り蟹。姿もよいですが、味わいも飛び切り。これ以上、何と書いていいやら。


炊き込みご飯も、いい出汁を使っていて。
ごちそうさまでした。


御堂筋  吉野すし

2007-04-07 23:04:43 | 寿司
大阪で仕事だったのだが、朝も随分早くから出かけたし、昼休みはちょっと長めでもよいだろう。


テクテクテクと、御堂筋まで歩く。一本入ったところに、大阪寿司の名店がある。なにしろ、創業天保12年とある。
何を注文するか、かなり悩んだ。なにしろ大阪寿司には、巻物も、茶巾も、おいなりさんも、箱寿司もいろいろあるのだ。しかし、お品書きの箱寿司のところに書かれた、一言で決まった。「二寸六分の会席」!こうなると、どうしても箱寿司を頼まなければ。


箱寿司の姿はとても美しく、シャリの下のほうに隠された山椒などの薬味のアクセントも素晴らしい。しかし、ひとつがやや大振りで、口の中にそのまま放り込むと、ちょっと難儀する。それで、考えてみたのだが、江戸前の場合はネタに醤油を付け、ネタを下向き、舌に乗せるようにするとよいといわれている。それに対して、誰だか忘れたけれど、その食べ方のスタイルだと、シャリが直に舌に来ないのでちょっとつまらない。それより、寿司を倒して横向きで食べるのがよいのでは、という事を書かれていた。それを、思い出したのだ。
そう、横向きにすれば、口の形とも和むし、ネタと同時に下のほうの薬味も舌に広がる。私の口が、ちょっと、情けない大きさなのかもしれないが、このスタイルで食べると、実にしっくりくる。
まあ、結論は実に陳腐で、美味しくいただきました。