蕎麦喰らいの日記

蕎麦の食べ歩き、してます。ついでに、日本庭園なども見ます。風流なのが大好きです。

酒田  本間家旧本邸

2007-04-24 23:25:07 | 古民家、庭園
酒田の本間様といえば、小学校の歴史の副読本に出てくるくらい有名である。商人として大成功を納めた揚げ句、庄内藩への大名貸で藩の財政を握ったところを「本間様には及びもつかねど」となったのだろう。
酒田の町は、西回り廻船の拠点として栄えた。本間家も、17世紀後半以来、北前船による商業を軸に、その後は三千町歩という広大な農地も所有し、武士の身分も許されていた。




塀が延々と続く旧本邸。正面は長屋門。
江戸時代に築いた財力は明治以降も衰えず、昭和二十年までは、酒田市の税金の半分は本間家が払っていたという。




屋敷の側面の薬医門。下は、塀の内側から見たところ。薬医門に対する位置に玄関がある。松の格式は流石のひとこと。

邸宅の内部は、くっきりと2つのゾーンに分けて造られている。藩の役人などの接待に使われた武家屋敷造りと、生活の場として使われた商家造りである。建物の規模はそれ程の差は無いが、使われている材がまるで違う。武家屋敷造りは、全てが正目。格の高い檜等が使われている。商家造りは、杉の材を使い節目が目立つ。しかし、岩崎邸和館でも感じたのだが、正目の座敷は不思議に居心地が悪い。江戸時代の本間家の人々も、内心そう感じていたのでは、などと思ってしまう。

この屋敷は、戦争末期の昭和二十年春に軍の司令部となり、本間家はそれ以来、この家で暮らすことはなかった。戦後は、公民館(!)として利用されて、相当いたんでしまった部分もある。邸内の生活道具は、昭和二十年春に全て持ち出され、現在は建物の骨組みを残すに過ぎない。ちなみに邸内は撮影禁止。
そんな、いきさつが有りながら、この屋敷は本間家当主の個人所有だという。恐るべし、本間家の知恵。




邸宅と正面の塀の間に、空間としてはごく限られた庭がある。巨満の富を得ながらも、自らのための場所は限定されたものと、していたのだろうか。