近江商人屋敷は見所満載で、格屋敷の閉館時間が16時半と知りながらも、ついつい時間が経ってしまう。そのあおりを受け、中江邸に着いたときには、時間はもうギリギリになっていた。本当に駆け足で邸内をめぐるも、帰宅後に中江家のいわれなど知るに、更なる興味が沸いてくる。
中江家の座敷、居間は大きな池に三方を囲まれており、どの面の障子を開けるかにより、ひとつの連続した庭の一部分でありながら、全く異なる場面が展開する。
前の写真中央にある靴脱ぎ石辺りから、池を眺める。小さな噴水がアクセントとなり、その奥は深山の風情が漂う。
座敷側、ガラス越しに庭を望む。つくばいより下に、ガラスに反射した廊下の様子が写る。
居間側の庭。これも、ガラス越し。池からの浅い流れが、リズミカルである。
中江家は、明治に呉服商を始め、昭和9年には三中井百貨店と改称。日本の植民地政策を民間事業で実践するかのように、中国大陸、朝鮮半島に二十数店舗を展開した。「実業を以って鮮満支に活躍せんとする青年は来たれ、我が三中井へ」という企業理念であったようだ。釜山の支店は五階建てで、当時の町最大の建物であったらしい。
まさしく、満蒙開拓団の世界である。そのためか、中江家が敗戦後に急速に没落したと聞いても、それ程不思議にも思えない。おそらく中江家は、歴史の重みと不条理を体得した一族なのであろう。
それにしても秀吉の朝鮮覇兵といい、江戸時代の朝鮮使節段といい、近江の地は大陸との繋がりを強く感じさせる。その揚げ句が、三中井百貨店となると、これは余程の因縁であろう。
中江家の座敷、居間は大きな池に三方を囲まれており、どの面の障子を開けるかにより、ひとつの連続した庭の一部分でありながら、全く異なる場面が展開する。
前の写真中央にある靴脱ぎ石辺りから、池を眺める。小さな噴水がアクセントとなり、その奥は深山の風情が漂う。
座敷側、ガラス越しに庭を望む。つくばいより下に、ガラスに反射した廊下の様子が写る。
居間側の庭。これも、ガラス越し。池からの浅い流れが、リズミカルである。
中江家は、明治に呉服商を始め、昭和9年には三中井百貨店と改称。日本の植民地政策を民間事業で実践するかのように、中国大陸、朝鮮半島に二十数店舗を展開した。「実業を以って鮮満支に活躍せんとする青年は来たれ、我が三中井へ」という企業理念であったようだ。釜山の支店は五階建てで、当時の町最大の建物であったらしい。
まさしく、満蒙開拓団の世界である。そのためか、中江家が敗戦後に急速に没落したと聞いても、それ程不思議にも思えない。おそらく中江家は、歴史の重みと不条理を体得した一族なのであろう。
それにしても秀吉の朝鮮覇兵といい、江戸時代の朝鮮使節段といい、近江の地は大陸との繋がりを強く感じさせる。その揚げ句が、三中井百貨店となると、これは余程の因縁であろう。