BLOGkayaki2

蚊焼です。日記です。
旅のこぼれ話や没写真の再利用、
ブログ1、3、4に載らない
「その他」がメインのブログ。

【水どう】いよいよ!

2006年08月22日 | テレビ

 「水曜どうでしょう」(北海道テレビ)オフィシャルホームページにて。


 「旅に出てます。」


 おおおっ!!

 いよいよか!!

 2006年新作、早くも期待大でございます!!

 早く製作していただきたい。
 そして早く、日本海テレビで放送していただきたいのです!!


附属図書館はただ今工事中

2006年08月21日 | 鳥大時代/就職活動

 附属図書館が、9日ぶりの開館です。
 ありがたいですね。やっぱり図書館は、憩いの場所でございますよ。というよりも、鳥取に残った学生の、唯一の行くところ?ですよ。だから、久々の開館、人も多かったです。

 しかしながら、2階の半分ものスペースが、改修工事のために工事中でした。
 教養文庫コーナーが閉鎖され、BLOG1の読書記録が書けない状況となりました。まぁいいや。

 図書館の工事は、9月中旬ごろまで続くということです。
 図書館がきれいになることは、有難きシアワセではございませんか。


草刈ボラ(に参加する予定)

2006年08月21日 | 【大学時代】学外活動

 たった今、学生人材バンク より、27日の鳥取市国府町での棚田草刈ボランティアの案内が来ましたので、早速希望との返信をしました。
 こういうのは、勢いですからね。少しでも興味のあるものは、即座に飛びつく。

 しかしこの日は、旅のため離鳥する前日なんですよねぇ。でもこれは、恥見てではないのがまた、ミソでございます。
 旅の前日は、人材バンクで仕事をする。これはある意味、毎年の慣習となってしまいつつあるようです。


 そういえば、横尾の棚田はどうなったのであろうか。4月、5月とボランティアで関わってきただけに、気になる。
 7月の草刈は、都合が悪くて行けなかったからなぁ。また、夏休み中に草刈はあるのだろうか。
 そして10月には収穫が待ち構えているのだ。10月かぁ、忙しそうな時期だが、出来れば行けるようにしておきたい。


古紙3束

2006年08月21日 | 凡日記

 今朝、3束にもなる古紙を、ゴミ集積所まで持っていきました。
 2往復しましたよ。だって、3束あるのですから。腕は2本しかありませんから、2往復せざるを得ないのですよ。
 大体、1ヶ月前にも古紙を出したばかりなのに、もうこんなに古紙が溜まってしまうとは…。まぁ、別の日の日記にも書いていることですが、これも半年後の引越しに向けての整理のためです。

 しかし3束もの古紙を処分しますと、部屋が見違えるほどすっきりしましたね。
 ただ古紙といっても、古新聞ではないのですよ。新聞は大家さんの読み古しを読んで済ませていますからね。
 それは、就活の各種案内や、授業プリントなどです。堆(うずたか)く積んでいたり本棚に適当に詰め込んでいたものを、洗い浚(ざら)いに目を通して、そして必要ないものは即座に、必要ないかもしれないものはちょっと考えて、古紙として束ねました。
 あとは、食料品の外箱、いわゆる板紙をも溜めて、古紙に出しております。今や古紙の不足が言われている時代ですからね、少しでも燃えるゴミを古紙に回さなくては。
 まぁ塵も積もれば、ということで、なかなかに重い量となってしまいましたよ。

 何かこう、捨てる(といってもリサイクルにまわすのですが)という行為は、実に清々しいものですよね。
 今までは、溜めることに人生の喜びを感じていたのですが、しかしそれはある特定のものに限ってしまって、他のものは悉く切り離す。
 すると、何か身が軽くなったような気がします。

 人生、身軽が一番。


 ところで、古紙を運ぶ道すがら、路上には無残にもプラスチックゴミが散在しておりました。
 近くには、学生のアパート郡専用のゴミ集積所がありますから、おそらくそこからどばっと飛来してきたのでしょう。
 確信犯ではないにしろ、学生たちの仕業には違いありません。
 これはいけないなと思って、自己の良心と学生復権のために、ゴミ拾いをしましたよ。
 まったく、自分の住んでいる周辺の環境を汚すようでは、地球環境問題なんて言っておれんなぁ、と近所の学生たちに苦言を呈すのでした。


智頭街道逍遥

2006年08月20日 | 凡日記

 わらべ館バイトの帰り道。
 わらべ館は、智頭街道に面しておりますので、そこから袋川まで、智頭街道の散策です。
 智頭街道は、いい感じに整備されていますし、何より袋川にかかる橋が素敵です。

 でも、何かが足りないような…何が足りないんだろう?寧ろ、他の街道よりもまだ恵まれている方のような気もするのだが…。

 鳥取市街地は、320万石城下町鳥取の面影を色濃く残しており、旧街道の直線が複雑に交じり合う景観を作り出しております。
 街道は主に、鹿野街道、智頭街道、若桜街道がございましてね。鳥取駅から久松山麓に向かって、一直線に伸びているわけです。それが、横にも何本か街道が伸び、交差し合い、複雑な碁盤の目を作り出しておるわけです。

 鹿野、若桜街道よりも、智頭街道がいちばん好きなのです。
 なぜでしょうね。よく分からないのですが、そういう雰囲気があるのです。
 でも、どこか足りない、何かが違う。何だろう。もっとよく見て、調べて、探さないとなぁと思っております。

 ─10月29日の「環境サミット」で、「鳥取市内の景観」についての議案が出されておりますので、その関連ということで、智頭街道の「視察」と問題探しをしたわけでございますよ。


37℃!

2006年08月20日 | 凡日記

暑いです。
暑すぎます。

今日の鳥取の最高気温は、
37度を記録したそうで
ございます。

そんな
猛暑酷暑こんちく暑の中、
自転車漕いで
市内まで行きましたよ。
バイトのためにね。

この季節のチャリは、
修行と言いますか、
トレーニングといいますか、
減量といいますか。
ひたすらに体力を奪い、
水分を奪い、
気力までも
奪われそうな勢いです。

朝の9時には
東に向かって走り、
バイトが終わって
西に向かって帰る。
つまり、
常に太陽とは
面と向かって勝負を
しているわけでございます。

太陽め、こん畜生!

「んだと馬鹿タレが、あ゛?
俺の自慢の波長280nm~315nm、
いわゆるUV-Bを
くらいやがれゴルァ!」

ぐおぉぉぉ!

というわけで、
ただ今ワタクシの左目は、
UV-Bによる攻撃のせいか、
非常に痛いわけでございます。
なんたって太陽の光が
直接角膜に
入ってくるんだもの。

そんな仁義無き太陽光線も
さることながら、
追い討ちをかけるように
蒸し暑さと
異常な熱風に
これまた苦しむわけです。

今朝だってねぇ、
無意味に早起きして
しまいましたしねぇ。
暑苦しくて、
頭は眠いのに寝られないの。
これは地獄よ。

そして今もね、
苦しめられているわけなの。

日が暮れて、
艱難(かんなん)辛苦甚だしき
太陽光線直射から逃れて
安堵するもつかの間、
闇夜に渦巻く熱気に
汗腺の休息の暇(いとま)を
悉(ことごと)く奪う。

夜になっても、
暑いのなんの。

暑いのいやだぁ。
ありえねぇよ、37度。


【水どう】いいぞ~藤やんの勘の鈍り具合

2006年08月19日 | テレビ

 毎週土曜日は、サンテレビとABCで「水曜どうでしょう」を見る日でございます。

 さてサンテレビのclassic、いいですねぇ。
 ヨーロッパ完全走破から2ヶ月。すっかり番組制作の意欲と作り方を忘れてしまったどうでしょう班は、海外の旅ばかりやって北海道内のロケが面白くなくなり、旅よりも車内トークや車内ハプニングに重きを置くようになった、カントリーサインの旅2が始まりましたねぇ。

 いやぁなんなんでしょう。こんなに手抜きなのに、とても面白い。なぜか笑い転げてしまう面白さがここにはあります。毎度のことではありますが。
 この壊れ具合、やる気の無さ、罵り合い、藤やんDの出演の当たり前化。
 これはローカル番組の常識どころか、テレビ界の常識をも打ち破りすぎて、どえらいことになっております。そういう番組なのです。
 それがね、2005年新作になってもまた新たな打ち破りをしようとはね。まぁそれはまだ第7,8夜ですけれども。

 そういっているうちに、もうすぐ2005年新作が…っておい、今日はないんかい。
 しかも、内PSPも、ABCは放送してくれないんかい!そりゃ無いぜよ。


【ふしぎ】長寿の秘訣は、「楽しむ」!

2006年08月19日 | テレビ

 毎週土曜日は、「世界・ふしぎ発見!」(TBS)ですよ、皆様。
 「探検ロマン世界遺産」(NHK)も同じ土曜日ですが、「ふしぎ」でもつい2週前に取り上げられた兵馬俑を取り上げて、その演出がなんだかますます「ふしぎ」化しているように感じられました。
 そういう意味でも、土曜日は「ふしぎ発見!」の日なのでございます。

 そして今回は、グルジアです。「Georgia」と綴って、グルジアと読むのですよぉ。
 ここは、カスピ海ヨーグルトで有名な、健康食と自然豊かな国です。そのためでしょうか、ご長寿がたくさんいらっしゃる国なのです。
 健康の秘訣は?それは、人生を楽しむこと!もう、これに尽きるのです。

 今が楽しくて仕方が無い。だから80歳のご長寿は、あと80年生きるのが目標なのだそうです。
 走るは、重いものはもつは、酒(ワイン)を一気に干すわ…、その活発さは、若い我々も見習うところがあまたあります。

 人生を如何に充実させ、如何に楽しく生きるか。
 これから生きていくうえで、心掛けていこうと思いましたね。楽しい人生を送って、何が悪い。


 そして今週も、私は携帯電話で、クイズに参戦するのでした。外れてばっか…。


出発の前に、やらねばならない幾つかの課題

2006年08月19日 | 凡日記

 今日もぼんやりと過ごしていたら、ありゃりゃ、後10日後にはワタクシ、日本から離れていますわよ。
 早く、卒論の調査票を片付けねばなぁと思って、今日はずっと、パソコンに向かって作成をするも…、なんか、あんまし気合を入れすぎて調査票を作ってしまうと、後々大変なことになるし、かといって手を抜くわけには…ぬおぅ!
 そういったわけで、段々と現実逃避傾向が強くなっていったのでございます。参った参った。

 そして、旅に向けての準備といいますか、下調べをやらなくちゃいけないのですよね。
 これから向かう国は、世界遺産が5つあるのです。それを全て制覇し、世界遺産の光と影の真実を見出そうという崇高な(アホ丸出しの)旅を計画しているのでございます。それにその国、さらに暫定遺産として4つの遺産候補を挙げているのでございますから、それも出来るだけ見なくちゃ。
 それで今回の旅の日程、10日間なのでありますが、途中経由する台北で2泊せねばなりませんので、実質8日間で5つ以上の遺産を回らねばならないということになるのです。

 ですから、前回の中国、タイのように、下調べもせず体当たりで旅をしようなどと考えていると、明らかにまずいわけです。今回は、計画性というものが重要となってくるのです。
 それで、卒論に飽きたら、その国の情報をネットで集め回っているという状況なのですよ。特に、個人の旅行記のHPやブログを読みまくって、旅のヒントにしております。

 その個人旅行記を読んで、世の中には本当に凄い人がいるものですね。そして、その掲載されている写真が美しかったり、文章も読みやすく、絵が上手いというサイトを見つけたら、おおすごいという感動と同時に、俺もこういうサイトを作りたいぞぉというやる気が心底から湧いてくるのであります。

 そんな楽しみも心の中に秘めつつ…、卒論に、環境ゼミの仕事、頑張んないとね。
 というわけで、また、卒論の調査票作りに没頭…できねぇ。


動物はしゃべれない

2006年08月19日 | 雑感散文

 昨日、『図書』8月号にて、岡ノ谷さんの論文(というかエッセイでしょうか)「動物はしゃべらない」が掲載されていたことに触れました。
 それで、その内容がとても面白かったので、後日詳しくといっておりましたが、今日早速書いちゃいますね。

 岡ノ谷先生は理化学研究所・生物言語研究チームに所属されており、動物の音声コミュニケーションから人間の「ことば」がどう形成され、発展してきたのかを研究されている方です。
 その方いわく、「動物はコミュニケーションをすれども、しゃべることが出来ない」。

 つまりどういうことか。
 例えばハダカデバネズミの場合、17種類もの鳴き声、いわば17個の「単語」をもって、他のネズミとコミュニケーションをとっているのだそうです。
 しかしそれは「ことば」ではない。「ことば」というのは、「組み合わせにより新たな意味を創出できる機能」を持つものであるから、駄目なのだそうです。
 もっと分かりやすくいうと、17種類の鳴き声は17個の「仮名」に過ぎず、仮名を複雑に組み合わせた言語とは程遠い、ということなのでしょう。

 だから、「動物のことば」なんてのは無いし、動物はしゃべらない。ゆえに、動物との会話は不可能だというわけです。
 ネアンデルタールですら、「ことば」を獲得できぬまま、それを獲得したホモサピエンスに追い詰められ、絶滅した。不思議なものです。何故ホモサピエンスだけ、唯一「ことば」を獲得できたのでしょうか。それこそ、これからの岡ノ谷先生の研究に期待がかかるわけです。

 しかし思うのですよ。果たして本当に、動物としゃべることが出来ないのか。
 まず、言語つまり音声のみに頼る会話は、間違いなく出来ないということは分かりました。相手は「ことば」を持たないのですから。
 しかしまだ手はあるのではないでしょうか。ボディーランゲージや、アイコンタクトなどです。
 どうも人間でも、しゃべるというのは音声だけに頼ったものではないそうですね。しぐさや状況判断で持って、言葉の解釈をしているのだそうです。『人は見た目が9割』という新書が最近話題になりましたよね。まさに人間の会話は、音声以外のものに9割も頼っているらしいのです。

 ということは、です。
 様々なコミュニケーションツールを駆使すれば、それらのツールが複雑に組み合わさることによって、多次元の「ことば」が形成されるのではないかと思うのです。
 それはもはや本来の意味での「ことば」ではなくなっているでしょうが、理屈としては「ことば」と同じ意味合いを持つのではないでしょうか。
 ですからきっと、動物たちと「ことば」を交し合うことは、夢ではないと思うのですがね。まぁ、ネズミは無理だろうな。


 ところで、昔「キテレツ大百科」(フジテレビ)で、動物たちの会話を翻訳する機械が出てきましたよね。調べると「聞き耳頭巾(ずきん)」というものらしいですね。
 音声ではなく、動物の微弱な脳波を読み取って、考えていることを直接聞くことが出来る発明品だそうすよ。
 うーむ、脳波で会話しようってのがすごいですねぇ。どうなんでしょうか。


また夢を見たので、己の深層心理を探る

2006年08月19日 | 凡日記

また、夢見たのよ。
常日頃から夢は見るけど、
今日もまた
リアリティーあふれる夢なの。
設定はリアルとは
かけ離れているけどね。

実家がなぜか静岡に
引っ越すことになったので、
その手伝いしてたの。
それで、色々と思い出の品々の
要る・要らないを
分別していくうちに、
その思い出の品々に
浸っていくわけ。
で、夢だから当然、
話は変わって思い出の中へ。

なぜかね、
収穫が終わった田んぼの真ん中で
コタツの中に入っていたの。
そんな経験無いんだけれども、
それはそれで風情があるというか、
なんか素敵だったの。
田んぼとはいっても、
住宅地に囲まれた、
小さな田んぼよ。

そしたら地主の人に怒られて、
すみませんと謝ったら、
いや、後ろで植林・造園している
人たちを怒っているんだって。
どうもその造園業者、
田んぼを勝手に
公園化しようとしていたらしい。

そして今度は神社参りに行ったの。
その田んぼが突如として
境内になったわけ。
ふと気がつくと、
収穫後の秋の気配漂う
切り開かれたような土地が、
鎮守の森に
覆われていたわけ。

夢って凄いのね。
むちゃくちゃなストーリー展開も、
なんの疑問も感じないわけだから。
全て、「ああそうだった」と
納得してしまう怖さ。
単純に、馬鹿ね。


この夢から、
己の深層心理をどう読むか。
これは、はっきりした夢を
見た後に必ず行う、
ワタクシの習慣でもあり、
楽しみでもあります。

実家の引越しですが、
現実のワタクシは、
半年後には本当に
引っ越さねばなりませんので、
もうすでに引越しのための
片付けを行っているのです。
引越しという寂しさと、
段々片付け慣れしてきた
楽しさが入り混じって
いるのでしょう。

田んぼの中でコタツは、
おそらく寝ているとき
暖かかったのでしょうね。
実際は暑苦しかったのだけれども。
でも分からん。
何で田んぼのど真ん中で
コタツに包っていたんだろう。

それに、秋の田んぼで遊ぶなぞ、
小学校低学年以来無い。
相当な昔の記憶が蘇って
きたということであろうか。
確かに懐かしさがあった。

でも何より、田んぼのど真ん中で
コタツの電源が入っていたという
SFの要素も混じっているのが
不可解である。

さらにSFなのは、
前を向いて後ろを見た瞬間、
田んぼが境内に変わったことだ。
そして、おぉここはいい境内だ、
いいクスノキだ樹齢云百年だ
などとほざき、
思考回路も Super Folly と
なっていた。

いや別にね、
こういうオチをつけたくて
駄文を連ねたんじゃないよ。


PR誌という雑誌

2006年08月18日 | 雑感散文

 岩波書店から、『図書』というPR誌が出ているんですよ。
 それが大学生協に置いてあって、いつも持って帰って読むのを、毎月の楽しみとしているのですよ。
 ところがその『図書』は毎月必ず入ってくるものではないようで、時に読めない月があったりするとき、とても悲しいのですよ。ちゃんと入荷してもらいたいと思います。…まぁ、欠かさず読みたきゃ、定期購読しろよと言われそうですが。

 そして今日手に入れた8月号。表紙を繰ってみますと、目次が現れます。
 そこには様々な学問の分野の先生方が、思い思いに書き綴ったものをアピールすべく、心を引く題名が並んでいるわけでございますよ。
 しかしね、どんなに心惹かれる題名でも、人には、好きなジャンルと苦手なジャンルというものがあるのですよ。
 だからここでは、題名よりも寧ろ、ジャンルを気にするのです。

 『図書』には、哲学やら芸術やら、はたまた政治学やら国際学やら、さらには生物学やら化学やら物理学やら、そして小説やら散文やら、本当に様々な、そして点でばらばらなジャンルが、一冊の、A4の小さな雑誌にまとめられているわけですよ。
 そんな学問の扉がいくつも目の前に並ぶ中、やはりワタクシは、お決まりの「扉を開ける順番」を持っているようなのでございます。
 たまに、大好きな椎名誠さんのエッセイが不定期に連載されるのですが、それは除きまして、以下のような順番があるということが分かりました。

 まずは大雑把に、科学。それも、生物学から。今月号で言うと、「動物はしゃべらない」を真っ先に読みました。非常に面白かったです!なので別の日記に、このことについてもっと詳しく書いちゃいます。
 次に、美術学やデザイン学の話があれば読むが、今月号にはそれが無し。
 その次に、考古学や歴史学を読む。おやどうしたものか。今月号にはそれも無いぞ。
 その次には、言語学や哲学を読む。「思想史家・狩野享吉の眼」がそれに当たりました。

 しかし逆に、読まないものもあるんですよね。演劇とか舞台演出についての話が今月号にありましたが、なんだか興味がもてない。あらゆるジャンルに手を出す男にも、やはり限界というものがあるのです。…いや実は、俺はさほど多趣味な人間ではないということか?

 まぁ兎に角、面白いものですよ、PR誌は。
 岩波書店のみならず他の出版社からもPR誌が出ているのです。
 そのPR誌全体の傾向を見て、その雑誌に連載されたものが、かなりの確率で、そしてかなり早期に、新書になっているということです。
 例えば、岩波の『図書』や集英社の『青春と読書』の両方に、筑紫哲也氏のエッセイが掲載されていたのですが、連載が終わってすぐさま、両方とも新書化されましたからね。その早さには驚きました。
 だからですね、PR誌の面白さの一つに、新書になる前の本が読める、ということも挙げられようかと思うのです。

 なんだか、PR誌をPRしちゃって、変な日記になってしまいましたけれどもね。それだけにワタクシは、PR誌が好きなんですよ。
 高校時代から、集めちゃっていますもの。だから実家にも、今の下宿にも、PR誌がたくさん箱詰めされているのです。
 PR誌はいいですよ。


【宇宙へ】カリスマの危うさ

2006年08月18日 | テレビ

 18日深夜に最終回を迎えた「宇宙へ ~冷戦と二人の天才~」(NHK、BBC原題「SPACE RACE」)というドラマについてです。

 旧ソ連の宇宙開発担当を一手に担っていたコロリョフが死去した後、開発チームはすっかり士気が下がり、統率が取れるような「カリスマ性」のある人間がいなくなり、遂には宇宙開発、ましてやアメリカとの競争どころではなくなるという話が、最終話の後半を占めていたように感じられました。
 それで少し思ったのですよ。
 下手に、一人の人間もしくは少人数のトップに、大きな任務もしくは重要な任務を与えることの危険性というものです。
 「カリスマ性」すなわち統率を取るのが上手く、人々を惹きつけるのが上手い、そういう人が指揮してくれたら、確かに物事は活発に進み、順調に成し遂げられるとは思うのですよね。

 しかし、そのトップが駄目になったら、はたまたいなくなったら、どうなるのか。
 そこでもう、部下たちの士気が下がり、魅力が失われ、そしてその組織は衰退していく。この危険性を感じました。

 例えば、社会主義国のキューバで、カストロ議長が任務を離れ、その後の政治展開がどうなるか、住民たちは不安がっているわけでしょう。
 一人の革命者、つまり一人のカリスマがいなくなったとたん、国家という組織が危ぶまれている。そんな感じですね。

 今、日本の大企業とかでも、そうでしょう。創業者などが神様とか天才などと讃えられた某メーカーは、今様々な問題に直面しているわけでしょう。一口に、「大企業病」という便利な言葉で言われていますけれども。
 これとて、企業という組織の衰退の危機ですよね。

 しかし難しいものですよね。
 カリスマがいてこそ、その組織は発展してきた。
 しかしいざカリスマがいなくなると、後の人はプレッシャーですよ。よりカリスマ性のある人が求められているわけですからね。

 本編とは関係の無い所に目をつけてしまいおって、と呆れさせたかもしれませんけれどもね、そんなことをこのドラマを見て思いましたね。


I have a pile of things to eat.

2006年08月18日 | 食生活

 さて、今回はちょっと手強い、冷蔵庫の残り物。

 写真右上の卵パックに同封されている、賞味期限が印刷された紙を見て欲しい。
 …!?いつのだよ!!
 そんな卵を用いて、目玉焼きを作ろうというのである。

 さて、一見して普通の、これといってなんら見劣りの無い、鶏の卵。
 これを、いざ、割ってみようと思う。

 さて、中はどうなっているのであろうか。
 大方の予想は2つ。

①卵の殻は、通気性に優れているので、卵の内部は水分を失い、カラカラになっている

②冷蔵庫の一番奥に長い期間寝かせているので、内部は凍り付いている

 さて、どちらが正しいか…、いやいや、無事に卵として食せるのか。
 いざ!参る!

 …ふつーやった。
 ふつーに美味かったし。
 後日、腹を下すことも無くふつーに元気やったし。

 うーむ、なんらオチがないなぁ。
 いや、あっても困るけど。


 さてこれにて、冷蔵庫内の卵を全て処分することに成功した。
 しかし依然として、冷蔵庫内部には、未だに消費しきれない他の食品が納められている。
 調味料類も、かなり残っている。
 まだまだ、食べるものは「山積み」なのだ。


Consideration of a mantis ~カマキリ孝~

2006年08月18日 | 雑感散文

 大学構内の旧BOX前畑を維持管理しているのだが、ここでは素敵な出会いがたくさんある。
 昆虫の数だ。それは殆どが直翅目、つまりバッタ類なのだが、その種類の多さには驚かされるばかりだ。
 ほんの小さな空間なのである。こじんまりとしたビオトープの中に、あらゆる姿かたちをしたバッタたちが、ぴょんぴょん跳ね回っているのだ。その跳ね回り方も多彩なのだから面白い。

 そんな中で、「直翅目の王」とでもいえる存在の者が、特に目立つようになってきた。
 カマキリだ。鋭い眼光で、しかし体は茂みに隠し、じっと獲物を狙っている。その重厚なオーラは、人間でも畏怖してしまいそうだ。

 しかしこのように、貫禄がついたカマキリたちも、つい最近まではちっぽけで、人間が近づくとすごすごと逃げていたのだ。
 人の手が近づくと、まず後ずさりして、そしてすばやく茂みの奥へ身を隠す。バッタよりも、臆病な胆の持ち主あった。
 やがて成長し、10センチくらいの大物になると、もはや人間の手なぞに屈するものはいない。まずは、持ち前の鎌で持って威嚇し、振り下ろすのだ。
 もちろんそれでも人間の方が勝つのだから、最後には持ち前の俊敏な足でさっと逃げてしまうのだが。

 それにしてもバッタ類というものは不思議なものである。
 生まれながらにしてすでに親と同じ体つきをしている、昆虫界では異彩を放つ者たちである。
 その子供たちは1センチにも満たないほど小さな体だったにも拘らず、3ヶ月ほどで、体長が3倍にも5倍にも、10倍にもなるのである。これは体積にして、27倍、125倍、1000倍なのである。真に不思議なものであると感嘆せざるを得ない。

 ところで話を戻すが、何故成長したカマキリは、いくら大きくなったとはいえ、こうも人間の手に立ち向かおうとするのだろうか。人間だからよいものを、猫だったら完全にその胃の中に収められてしまうであろうのに。
 それは、ハンターとしての宿命なのかもしれない。
 兎に角動くものを、生きとし生きるものを食らっていかねば、己の生命を保持することが出来ない。

 肉食獣なども含めたいわゆる高次消費者は、一次消費者や生産者からすれば、効率よく食物を摂取してずるいと映るかも知れない。
 しかしそれを弁護する立場に立つと、高次消費者は、常に他の生命を絶やさない限り、生きていくことが出来ないのである。常に何者かを殺さねばならない。ある意味あくどくて、貪欲でなくてはならない。だから、どんな生物であろうとも、獲物として見なくてはならない。
 それはもっと突き詰めていうと、常に己の命と引き換えでなくてはならない。真剣勝負なのだ。本当は切ない、生き方を選んでしまった者たちではないか。

 …とまぁ、実に人間的な、感情的な分析をしてしまったものだ。人間はそう思って、つまり食事の際に神に感謝の祈りをささげたり、手を合わせて「いただきます」と唱えるのであろうが、果たしてカマキリがそんなことを考えていようはずも無い。
 ただ、やはりカマキリが別の生命体を食らっているところを見ると、その餌食に同情の念を抱き、勝手に怨念をそのカマキリに抱いてしまいかねない。
 人によっては、それが「弱いものいじめ」に映るようで、カマキリなど捕食者を敵とする伝説や逸話も多くある。そのもっともたるものが狼であろう。

 いずれにしろ、それではカマキリたち捕食者の肩身が狭い。
 そのものたちの復権のために、ある意味、生態学というのが発展してきたのかもしれない。
 例えばサバンナのライオンなぞは、シマウマを2,3日に1頭食べる代わりに、結果としてシマウマたちのテリトリーを守っているのである。
 また、寓話では敵役が多い狼も、狼の絶滅などで分かったことだが、鹿などの草食者の無秩序な繁殖を防止したり、その餌食の食いかけを他の動物たちも享受することによって、豊かな生態系が発達してきたということが分かってきた。

 それでは、カマキリたちが守っているものとは何か。
 考えてみよ、カマキリはバッタや甲虫などの昆虫を食べるのである。ではその昆虫たちが増えすぎるとどうなるか。当然、その近辺の草本があっという間に食い尽くされてしまう。
 なおかつ、ここは旧BOX前畑、ここでは花などを植えている場所である。
 特に今年はカメムシやら甲虫やらが異常発生し、作物に多大なるダメージを与えていると聞く。ここも例外ではなくカメムシや甲虫を多く見かけるが、そこまで大事には至っていない。
 これも、カマキリのおかげなのである。もちろん、大きな巣を張った蜘蛛のおかげでもある。

 これらの偉大なる生命のつながり、生態系に思いを馳せるとき、その大きなカマキリの目に映るものの先には、生態系をコントロールするための任務が…いやいや、考えすぎか。
 カマキリ1匹を目の前にして、またつまらぬ考察をしてしまった。