BLOGkayaki2

蚊焼です。日記です。
旅のこぼれ話や没写真の再利用、
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「その他」がメインのブログ。

PR誌という雑誌

2006年08月18日 | 雑感散文

 岩波書店から、『図書』というPR誌が出ているんですよ。
 それが大学生協に置いてあって、いつも持って帰って読むのを、毎月の楽しみとしているのですよ。
 ところがその『図書』は毎月必ず入ってくるものではないようで、時に読めない月があったりするとき、とても悲しいのですよ。ちゃんと入荷してもらいたいと思います。…まぁ、欠かさず読みたきゃ、定期購読しろよと言われそうですが。

 そして今日手に入れた8月号。表紙を繰ってみますと、目次が現れます。
 そこには様々な学問の分野の先生方が、思い思いに書き綴ったものをアピールすべく、心を引く題名が並んでいるわけでございますよ。
 しかしね、どんなに心惹かれる題名でも、人には、好きなジャンルと苦手なジャンルというものがあるのですよ。
 だからここでは、題名よりも寧ろ、ジャンルを気にするのです。

 『図書』には、哲学やら芸術やら、はたまた政治学やら国際学やら、さらには生物学やら化学やら物理学やら、そして小説やら散文やら、本当に様々な、そして点でばらばらなジャンルが、一冊の、A4の小さな雑誌にまとめられているわけですよ。
 そんな学問の扉がいくつも目の前に並ぶ中、やはりワタクシは、お決まりの「扉を開ける順番」を持っているようなのでございます。
 たまに、大好きな椎名誠さんのエッセイが不定期に連載されるのですが、それは除きまして、以下のような順番があるということが分かりました。

 まずは大雑把に、科学。それも、生物学から。今月号で言うと、「動物はしゃべらない」を真っ先に読みました。非常に面白かったです!なので別の日記に、このことについてもっと詳しく書いちゃいます。
 次に、美術学やデザイン学の話があれば読むが、今月号にはそれが無し。
 その次に、考古学や歴史学を読む。おやどうしたものか。今月号にはそれも無いぞ。
 その次には、言語学や哲学を読む。「思想史家・狩野享吉の眼」がそれに当たりました。

 しかし逆に、読まないものもあるんですよね。演劇とか舞台演出についての話が今月号にありましたが、なんだか興味がもてない。あらゆるジャンルに手を出す男にも、やはり限界というものがあるのです。…いや実は、俺はさほど多趣味な人間ではないということか?

 まぁ兎に角、面白いものですよ、PR誌は。
 岩波書店のみならず他の出版社からもPR誌が出ているのです。
 そのPR誌全体の傾向を見て、その雑誌に連載されたものが、かなりの確率で、そしてかなり早期に、新書になっているということです。
 例えば、岩波の『図書』や集英社の『青春と読書』の両方に、筑紫哲也氏のエッセイが掲載されていたのですが、連載が終わってすぐさま、両方とも新書化されましたからね。その早さには驚きました。
 だからですね、PR誌の面白さの一つに、新書になる前の本が読める、ということも挙げられようかと思うのです。

 なんだか、PR誌をPRしちゃって、変な日記になってしまいましたけれどもね。それだけにワタクシは、PR誌が好きなんですよ。
 高校時代から、集めちゃっていますもの。だから実家にも、今の下宿にも、PR誌がたくさん箱詰めされているのです。
 PR誌はいいですよ。


【宇宙へ】カリスマの危うさ

2006年08月18日 | テレビ

 18日深夜に最終回を迎えた「宇宙へ ~冷戦と二人の天才~」(NHK、BBC原題「SPACE RACE」)というドラマについてです。

 旧ソ連の宇宙開発担当を一手に担っていたコロリョフが死去した後、開発チームはすっかり士気が下がり、統率が取れるような「カリスマ性」のある人間がいなくなり、遂には宇宙開発、ましてやアメリカとの競争どころではなくなるという話が、最終話の後半を占めていたように感じられました。
 それで少し思ったのですよ。
 下手に、一人の人間もしくは少人数のトップに、大きな任務もしくは重要な任務を与えることの危険性というものです。
 「カリスマ性」すなわち統率を取るのが上手く、人々を惹きつけるのが上手い、そういう人が指揮してくれたら、確かに物事は活発に進み、順調に成し遂げられるとは思うのですよね。

 しかし、そのトップが駄目になったら、はたまたいなくなったら、どうなるのか。
 そこでもう、部下たちの士気が下がり、魅力が失われ、そしてその組織は衰退していく。この危険性を感じました。

 例えば、社会主義国のキューバで、カストロ議長が任務を離れ、その後の政治展開がどうなるか、住民たちは不安がっているわけでしょう。
 一人の革命者、つまり一人のカリスマがいなくなったとたん、国家という組織が危ぶまれている。そんな感じですね。

 今、日本の大企業とかでも、そうでしょう。創業者などが神様とか天才などと讃えられた某メーカーは、今様々な問題に直面しているわけでしょう。一口に、「大企業病」という便利な言葉で言われていますけれども。
 これとて、企業という組織の衰退の危機ですよね。

 しかし難しいものですよね。
 カリスマがいてこそ、その組織は発展してきた。
 しかしいざカリスマがいなくなると、後の人はプレッシャーですよ。よりカリスマ性のある人が求められているわけですからね。

 本編とは関係の無い所に目をつけてしまいおって、と呆れさせたかもしれませんけれどもね、そんなことをこのドラマを見て思いましたね。


I have a pile of things to eat.

2006年08月18日 | 食生活

 さて、今回はちょっと手強い、冷蔵庫の残り物。

 写真右上の卵パックに同封されている、賞味期限が印刷された紙を見て欲しい。
 …!?いつのだよ!!
 そんな卵を用いて、目玉焼きを作ろうというのである。

 さて、一見して普通の、これといってなんら見劣りの無い、鶏の卵。
 これを、いざ、割ってみようと思う。

 さて、中はどうなっているのであろうか。
 大方の予想は2つ。

①卵の殻は、通気性に優れているので、卵の内部は水分を失い、カラカラになっている

②冷蔵庫の一番奥に長い期間寝かせているので、内部は凍り付いている

 さて、どちらが正しいか…、いやいや、無事に卵として食せるのか。
 いざ!参る!

 …ふつーやった。
 ふつーに美味かったし。
 後日、腹を下すことも無くふつーに元気やったし。

 うーむ、なんらオチがないなぁ。
 いや、あっても困るけど。


 さてこれにて、冷蔵庫内の卵を全て処分することに成功した。
 しかし依然として、冷蔵庫内部には、未だに消費しきれない他の食品が納められている。
 調味料類も、かなり残っている。
 まだまだ、食べるものは「山積み」なのだ。


Consideration of a mantis ~カマキリ孝~

2006年08月18日 | 雑感散文

 大学構内の旧BOX前畑を維持管理しているのだが、ここでは素敵な出会いがたくさんある。
 昆虫の数だ。それは殆どが直翅目、つまりバッタ類なのだが、その種類の多さには驚かされるばかりだ。
 ほんの小さな空間なのである。こじんまりとしたビオトープの中に、あらゆる姿かたちをしたバッタたちが、ぴょんぴょん跳ね回っているのだ。その跳ね回り方も多彩なのだから面白い。

 そんな中で、「直翅目の王」とでもいえる存在の者が、特に目立つようになってきた。
 カマキリだ。鋭い眼光で、しかし体は茂みに隠し、じっと獲物を狙っている。その重厚なオーラは、人間でも畏怖してしまいそうだ。

 しかしこのように、貫禄がついたカマキリたちも、つい最近まではちっぽけで、人間が近づくとすごすごと逃げていたのだ。
 人の手が近づくと、まず後ずさりして、そしてすばやく茂みの奥へ身を隠す。バッタよりも、臆病な胆の持ち主あった。
 やがて成長し、10センチくらいの大物になると、もはや人間の手なぞに屈するものはいない。まずは、持ち前の鎌で持って威嚇し、振り下ろすのだ。
 もちろんそれでも人間の方が勝つのだから、最後には持ち前の俊敏な足でさっと逃げてしまうのだが。

 それにしてもバッタ類というものは不思議なものである。
 生まれながらにしてすでに親と同じ体つきをしている、昆虫界では異彩を放つ者たちである。
 その子供たちは1センチにも満たないほど小さな体だったにも拘らず、3ヶ月ほどで、体長が3倍にも5倍にも、10倍にもなるのである。これは体積にして、27倍、125倍、1000倍なのである。真に不思議なものであると感嘆せざるを得ない。

 ところで話を戻すが、何故成長したカマキリは、いくら大きくなったとはいえ、こうも人間の手に立ち向かおうとするのだろうか。人間だからよいものを、猫だったら完全にその胃の中に収められてしまうであろうのに。
 それは、ハンターとしての宿命なのかもしれない。
 兎に角動くものを、生きとし生きるものを食らっていかねば、己の生命を保持することが出来ない。

 肉食獣なども含めたいわゆる高次消費者は、一次消費者や生産者からすれば、効率よく食物を摂取してずるいと映るかも知れない。
 しかしそれを弁護する立場に立つと、高次消費者は、常に他の生命を絶やさない限り、生きていくことが出来ないのである。常に何者かを殺さねばならない。ある意味あくどくて、貪欲でなくてはならない。だから、どんな生物であろうとも、獲物として見なくてはならない。
 それはもっと突き詰めていうと、常に己の命と引き換えでなくてはならない。真剣勝負なのだ。本当は切ない、生き方を選んでしまった者たちではないか。

 …とまぁ、実に人間的な、感情的な分析をしてしまったものだ。人間はそう思って、つまり食事の際に神に感謝の祈りをささげたり、手を合わせて「いただきます」と唱えるのであろうが、果たしてカマキリがそんなことを考えていようはずも無い。
 ただ、やはりカマキリが別の生命体を食らっているところを見ると、その餌食に同情の念を抱き、勝手に怨念をそのカマキリに抱いてしまいかねない。
 人によっては、それが「弱いものいじめ」に映るようで、カマキリなど捕食者を敵とする伝説や逸話も多くある。そのもっともたるものが狼であろう。

 いずれにしろ、それではカマキリたち捕食者の肩身が狭い。
 そのものたちの復権のために、ある意味、生態学というのが発展してきたのかもしれない。
 例えばサバンナのライオンなぞは、シマウマを2,3日に1頭食べる代わりに、結果としてシマウマたちのテリトリーを守っているのである。
 また、寓話では敵役が多い狼も、狼の絶滅などで分かったことだが、鹿などの草食者の無秩序な繁殖を防止したり、その餌食の食いかけを他の動物たちも享受することによって、豊かな生態系が発達してきたということが分かってきた。

 それでは、カマキリたちが守っているものとは何か。
 考えてみよ、カマキリはバッタや甲虫などの昆虫を食べるのである。ではその昆虫たちが増えすぎるとどうなるか。当然、その近辺の草本があっという間に食い尽くされてしまう。
 なおかつ、ここは旧BOX前畑、ここでは花などを植えている場所である。
 特に今年はカメムシやら甲虫やらが異常発生し、作物に多大なるダメージを与えていると聞く。ここも例外ではなくカメムシや甲虫を多く見かけるが、そこまで大事には至っていない。
 これも、カマキリのおかげなのである。もちろん、大きな巣を張った蜘蛛のおかげでもある。

 これらの偉大なる生命のつながり、生態系に思いを馳せるとき、その大きなカマキリの目に映るものの先には、生態系をコントロールするための任務が…いやいや、考えすぎか。
 カマキリ1匹を目の前にして、またつまらぬ考察をしてしまった。