2006年8月9日、午前11時2分。
テレビをつけて、黙祷をしておりました。
毎年、この日に黙祷をすることは、長崎人の習慣と言いますか、勤めでございましてね。
あの日から61年たっても、未だに核兵器が世界のあちこちで製造され続けていることに、かなりの絶望感を抱かされます。
やはり同じように苛立ったのでございましょう。
今年の長崎市長の「平和宣言」は、かなり具体的に、核保有国に対して批判をしておりました。
従来、こういった核保有国への批判は稀でして、昨年のアメリカへの名指し批判は初めてのことで、相当なインパクトがありました。
今年は、さらに大きなインパクトを与えられましたね。
アメリカはもちろんのこと、インド、パキスタン、イラン、そして北朝鮮に対して、明確に、名指しで批判をしておられました。
今年は随分と踏み込んだことを言っておられます。しかし逆に、今までそれを言ってこなかったのも不思議なことです。
とある大国が、「あの国は大量破壊兵器を持っている」という大儀の元に、総攻撃をした戦争が、つい最近ありましたね。
しかしどうでしょう、その大儀の説得力がいまいちではございませんでしたか。
それもそのはずですよ、大量破壊兵器を破壊するために、大量破壊兵器を使っているのですから。
挙句の果てに劣化ウラン、つまりその大国は再び、戦争に核を用いているのでございますよ。殺傷能力に大差はあれども。
つまり何を言いたいかと申しますと、「核保有反対」を相手国に押し付ける国は、核を保有してはいけないのです。第一、説得力がありませんからね。
しかし逆に言うと、非核三原則を唱えた日本は、これから世界に向けて、「非核」を訴えていかなければならない立場にあると思うのです。
「非核」を訴えるのに、十分に説得力のある国は、日本しかないと思っていますから。
外国と対等に外交するためには、日本も核を保有しなければならないという強硬論もありますが、長崎人としてそれは断固反対したいのです。
もちろん、根拠として一蹴されがちな「感情論」もありますとも。原爆の悲惨さを、ずっと教えられてきたのが長崎人ですから。
しかしそれ以外にもですね、核を保有している以上、それを使う可能性を否定できないではありませんか。
万一、いや億が一、日本が先制攻撃にあった場合に備えるのでしょうが、本当に核兵器が必要なのかと疑問になります。ならば相手国の官邸に、集中してミサイルでも撃ち込みなさいよ、と思うのです。わざわざ、民間人を大量虐殺させる兵器を用いる感覚が、よく分からないのですよね。
こうして長崎で、平和宣言が読まれている今もなお、レバノン地域では紛争が続き、アフリカの国々ではニュースに取り上げられる暇がないほど、たくさんの内戦が勃発しているのですよね。
虚しいではございませんか。それこそ、平和宣言が空回りしているように思えるではありませんか。そして、悔しさとやるせなさを感じるわけですよ。
7万5千以上(その後の死没者も含めると13万人)の御霊が安らかに眠られることを祈ろうとも、「核兵器は世界に広まっていく一方ではないか」と、御霊も憤慨して眠れないことでしょう。
これからも長崎人は、世界の核兵器の拡散を注視し、どうにかならないものかと考え続けるのです。考えることしか、今のところは出来ませんが…。
ところで、昨晩の「筑紫哲也NEWS23」(TBS)では、「二重被爆者」という方が取り上げられていましたね。
第五福竜丸の乗組員だった長崎人が、ビキニ諸島で二重被爆ということは存じておりました(そのことは番組中触れられず残念でした)が、広島で被爆し、長崎に帰ってまた被爆したという方が、少なくとも8人入るということに、正直驚かされました。
番組では、その方の戦争体験の語り部が、海を渡って世界中の若者たちに紹介されているところを映画化したものを紹介していました。映画の題名は、「二重被爆」。
映画の中では、世界の若者の反応について注目されていました。
フランスの女学生:
「被爆者が今元気でいることに、核の脅威と矛盾を感じる。」
中国の女学生:
「日本の被害は、世界から見て公平なもの。特に中国に対して。」
…えー、特に後の意見に対しては、「じゃぁ日本だけ執拗に攻められるのは不公h…」などと言いたくなるのは分かりますが、ここは抑えておきましょうか。実際、日本も何かはしているのですしね。
とにかく現実問題として、日本の被爆者が世界に向けてメッセージを発しても、このように冷めた眼で見られることもあるということなのです。
まさか、日本でもこのような眼で見られるなんて事はありますまいな。一瞬で7万5千人もが殺されているのですよ。9・11同時爆発テロの優に10倍ですよ。(言うまでもないでしょうが、もちろんこのテロも、大変に卑劣なもので憤りを感じます。)
日本の戦後教育は、日本の加害者意識を執拗に刷りこませたものだという意見もありますが、もしそれが本当なら、長崎は幸いなことに、加害者そして被害者両面から、先の戦争というものを学ぶという実に中立的な教育を受けることができました。
日本も、当然ながら多大なる被害を被っているのですよ。官民限らず。それを省みずに、戦争放棄とか、首相の靖国参拝とかで不完全な議論がなされるのではないかと思うのですよ。
日本の兵士が、そして一般人が、どれだけ犠牲になったのかを、もっとよく知るべきではないでしょうか。
その中で、長崎そして広島の被爆というものも学んで欲しいと思うのです。
長崎が被爆したことは、やがて長崎人しか知らない、なんてことにならぬように。(でも実際に、その兆候は進んでいるようですね。大学に入って他県の友人たちの中に、長崎の被爆日を知らない人たちが殆どのようでしたから。唯一の例外は広島人でしたが。)
1年に1回しか、平和のことについてじっくり考えない自分にも、不甲斐なさを感じますね。
でも、考えないよりはましでしょう。考えなしには、解決の糸口もつかめず、そもそも前進が出来ないのですから。
参考:
長崎県HP「長崎平和宣言」