マダムようの映画日記

毎日せっせと映画を見ているので、日記形式で記録していきたいと思います。ネタバレありです。コメントは事前承認が必要です。

旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>パート9

2010-02-15 12:39:19 | 旅行
ー10.1.8~18 旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>ーパート9

<コプト地区>

最終日です。
今日で、カイロともお別れです。
でも、さらに私たちの見学は続きます。
水道橋に添ってバスは走り、コプト地区へ。


水道橋

「歴史」でも触れましたが、プトレマイオス朝が衰退した後に、ローマ帝国の属国になっていた時代がありました。


ローマ時代の塔

そのときに聖マルコがアレキサンドリアを訪れ、キリスト教を広ます。
紀元後60年くらい、とても早い時期に広まったことになります。


エル・ムアラッカ教会

コプトのクリスマスが1月7日なので、クリスマスの飾り付けがしてありました。


ノアの方舟をメージした天井


コプト教会の十字架

キリスト教を受け入れる土壌として、パレスチナで迫害を逃れるために幼いキリストを連れた聖家族が、エジプトに逃れてきたという伝説もあり、各地にその言い伝えが残っているそうです。


聖家族が隠れたといいう言い伝えが残る、聖セルギウス教会へ入る。

さらに遡って、モーセ所縁のユダヤ教会もありました
(ベ・エズラ・教会、暗くて写真がうまく撮れませんでした)。

<モーセ>

コーランにはモーセやキリストの話もたくさん出ているそうです。

モーセと言えば「出エジプト記」で有名です。
それによると、モーセはエジプトのヘブライ人の家に生まれましたが、ヘブライ人の増加を恐れたファラオが、新生児を殺害することを命じ、その命令を逃れるために、赤ちゃんだったモーセをナイル川に流されました。
そこへファラオの王女が通りがかって赤ちゃんのモーセを拾い、育てました。

成長したモーセは、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐げられているのを見て、エジプト人を殺害、アラビア半島に逃げました。
そこで、神の言葉を聞き、予言者としての活動を始めました。
神の言葉は、イスラエル人を約束の地カナンへ導くように、ということでした。
約束の地カナンは、地中海とヨルダン川・死海に囲まれた地域。
聖書で「乳と蜜の流れる場所」と呼ばれ、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地。

エジプトに戻ったモーセは、ファラオにイスラエル人のエジプト退去を願い出るが、拒否されました。
しかし、そのときにエジプトに10の災害が下り、イスラエル人はようやくエジプトから脱出することができました。
でも、そのときにエジプトの聖牛アピス像(ミイラ?)を持ち出したので、ファラオが起こって、軍を差し向けました。

目の前の海が割れ、イスラエル人は渡ることができたが、追いかけてきたエジプト軍は、閉じた海で溺れました。

このファラオはラムセス2世ということになっていますが、ラムセス2世の息子のメルエンプタハが溺死したのではないかと言われ、この時の王はメルエンプタハという説もあります。

シナイ山でモーセは神から「十戒」を受けました。
無事に約束の地カナンにたどり着いたが、民が神とモーセに不平を言ったため、神はさらに40年の放浪をイスラエル人に課したそうです。

モーセもまた、神の命令に従わなかったので、カナンに入ることを許されず、山の上からカナンを見ながら世を去ったそうです。
没年120歳だそうです。

コーランではモーセは過去の予言者、偉大な予言者として尊敬されているそうです。
ノア、アブラハム、モーセ、イエス、ムハマンドがイスラム教の5代予言者ということです。

だけど、モーセについていったイスラエルの人々は、神の言いつけに従わず、偶像崇拝を認めたところが、神とモーセの教えに逆らっているというユダヤ教の批判になっているようです。

ユダヤ教とイスラム教、ここまで近いのになあ、という気がします。
この溝が深いのでしょうね。

<旅が終わって>

私がこの旅の途中からずうっと不思議に感じていたのは、古代エジプト人はどこへ行ったのだろう、ということでした。

歴史を調べて、エジプトは、長い間他民族の支配を受けてきたことがわかりました。
古代エジプト王朝がギリシャ人のプトレマイオス王朝に変わっても、彼らはエジプトの古代の神と同化しようと、涙ぐましい努力をして、エジプト人の尊敬を得ようとししました。
でも、その後は支配者が、ローマ帝国であったり、アラブ人のイスラム帝国であったり、奴隷軍人だった時もありました。
トルコのオスマン帝国であったり、イギリスであったり…。
彼らはエジプトの豊かな農産物を徴収することだけを考えた支配者でした。

その間に、エジプト人本来の言葉、宗教、文化をなくしてしまいました。
だけど、ピラミッドを造った人たちの技術や智恵が失われたわけではありませんでした。
いろんな技術者として、その時々の支配者の母国に連れて行かれて、そこからさらに素晴らしい美術品や造形物として発展していったということは想像に難くありません。
その痕跡は、今もエジプトの町のそこここに、有形無形のものとして残されていました。

モスクの建築や装飾に生かされる工芸技術、タイルなどの焼き物など、トルコへと受け継がれたもの、ガラス細工などベネチアングラスのようにヨーロッパで花開いたもの、いろんな原型のようなものが残されていました。
イスラムは偶像崇拝を禁止したせいで、字体が豊かに表現されて、アラブ文字が日本の書道のように、芸術として存在していることに驚きました。

失われた古代文字の解読に必要だったロゼッタストーンの解明に、コプト文字がヒントになったということは、すごいことだと思いました。
古代エジプト人を理解するヒントがこういう形で残っていたなんて!!
どんなサスペンスよりもスリリングだと思いました。

エジプトに足を踏み入れたときには、気候、風土、風景が全く違う。
文化、文明、歴史、民族、言語、何もかも日本とは違って、とらえどころのない、私には理解不可能な異文化のように思えました。

でも、この旅を終えて、人々は何千年も前から、この地で営々と暮らしを営んできたということがよくわかりました。
その時代時代に姿を変え、言語を変えても、エジプト人はエジプト人らしくナイルとともに生きてきたんだ、ということが実感できました。
ナイル川は、思っていたより細かったけれど、とても豊かで、砂漠を流れている川なのに水色で、すごくきれいな川でした。
食べ物も、野菜が豊富で本当に美味しかったです。

砂漠から上り、砂漠へと沈む太陽は、古代の人と同じ、神を感じる存在でとても感動しました。

そして、何より、ピラミッドはシンプルで、大きくて、美しい。
人類の英知の象徴じゃないかなあ!!
最高!!でした。

エジプトは今は貧しいかもしれない。
砂漠の暮らしは大変かもしれない。
でも、明るく素朴な人々が生きる国、可能性もいっぱい内在した国だと思いました。

エジプトの素晴らしい思い出に、もう少し浸っていたいです。

長々とした旅行記に付き合ってくださった読者の皆様、ありがとうございました。


最後に訪れた新市街にある大規模なショッピングセンター


ショッピングセンターの内部。クリスマスの飾り付け。


ショッピングセンターで食べた昼食。ケバブが美味しかったです。

旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>パート8

2010-02-15 11:54:16 | 旅行
ー10.1.8~18 旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>ーパート8

<カイロ市内ーイスラム地区>

今日も朝早く出発です。
今日は金曜日で、イスラム社会では休日だそうです。
エジプト人は、昨日の夜は遅くまで遊んで、今朝は寝坊をしているそうです。
そして、起きたら、地区のモスクに行って、礼拝に参加するので、モスクの礼拝の前に、見せていただこうということです。

まず、エル・アズハル・モスクに入れていただきました。


入り口


アズハルモスク

裸足にならないといけない、女性はスカーフをかぶらなくちゃいけないと、ちょっと緊張するのですが、モスクに入ってみると、とても清潔で静かで、とても広いことに驚かされます。
奥の方で、先生を囲んでコーランの勉強会が開かれていました。

ガイドの大政美奈子さんの周りに車座になって、エジプトの歴史やイスラム教のことを教えていただきました。


私の生活範疇からまったく外れているイスラム教とその歴史。
トルコに行ってもまだわからなかったことが、大政さんのお話で少しつながってきました。

ここエル・アズハル・モスクは、ファーテイマ朝時代の建立で、モスク内にイスラームを学ぶ学校が開校されました。
今では、学校は切り離されましたが、エル・アズハル大学として続いています。
「歴史」でも書きましたが、イスマーイール派の最高教育機関として、数々の卒業生を全世界に送り出しました。


内部

ここから出発して、バイナル=カスラインを歩きます。


「パイナル=カスライン」はファティーマ朝に建てられた二つのお城を結ぶ通りの名前です。今は、ムイッズ通りと名前も変えています。写真は今から向かうフトゥーフ門・ナズル門と反対側、ズワイラ門の方を写したものです。

いろんなお店が開店準備をしています。


ターメイヤという豆のコロッケを揚げているお惣菜屋さん


八百屋さん


乾燥モロヘイヤ



お肉屋さん



新聞売りと猫


古いモスクの外観や扉、馬も人もとまったという隊商宿、古い病院や、建物を見学しながら、町の中をゆっくり歩いていきました。


隊商宿


またまた八百屋さん



モモスク内部


モスクのランプ、装飾はアラビア文字です。


スカーフ売り場。女性のおしゃれは限られているから、スカーフは大切なのでしょう。


美しい水パイプ


糸屋さん


アラビアン・ナイトに出て来るような金物


スパイス屋


モスクの内部。とても清潔で静かな時間が流れていました。


祭壇の螺鈿細工


通りの様子。


町行く人のために、水の入った素焼きの壺が置いてあります。


モスクの壁の装飾もアラビア文字です。


モスクの門とミナレット。装飾が細かくて美しい。


アップにしてみました。


モスクの裏には廃墟になった学校と、その奥には生活感あふれるアパートが。


山盛りのライム


スパイス屋の店先。素敵なデザインの秤。


「バイナル=カスライン」の終点、フトゥーフ門。

見学の最後はハーキム・モスクでした。


ハーキム・モスクに入ったところ。

「歴史」でも触れましたが、ファティーマ朝のカリフ・ハーキムは暴君で名高いようですが、こういう立派なモスクもたくさん建てたそうです。

そろそろ信者の人が集まってきました。
もうすぐ朝の礼拝が始まるようです。

町の中に、モスクの拡声器から流される声が響いています。
「もうすぐ礼拝が始まりますよ」と市民にお知らせしているそうです。

私たちは来た道を戻って、修復がされて見学できる大商人の家へ。

大商人の家の玄関を入ったところ。前庭。


風と光をを通して、窓際に立っている人は表に見えない窓。



高い天井


居心地の良さそうな部屋。


風呂場の窓。いわゆる蒸し風呂です。


さっきの部屋を中庭から見る。


中庭にある井戸。


これは何でしょう? コーランを読むための椅子です。

大商人の家は、すごく大きいし、風通しなど、とてもよく考えられている、カイロの風土によくあったものでした。

よく、歩いたのでお腹が減りました。
お昼ご飯を食べにハン・ハーリのカフェへ。

モスクの近くなので、アルコールは置いていないそうです。

わずかな時間、商店街でお買い物。
私たちは、ストール、香水、パッチワークなど、思い思いの品物を交渉して買いました。
エジプトのお買い物は疲れます…。


私たちがお土産を買った香水屋さん。「シャネルの19番」と言ったら、小ビンに詰めてくれました。

またバスに乗って、イブン・トゥルーン・モスクへ向かいます。


バスの中からアズハル大学が見えました。


イブン・トゥールン・モスク

トゥルーン朝の開祖イブン・トゥルーンによって造られたモスクです。
エジプトで作られた最古のモスクです。
トゥルーンはイラク人だったので、イラクのモスクに似ているそうです。


ミナレットに人が上っています。
私たちも上ることにしました。


ムハマンド・アリー・モスク

ムハマンド・アリー・モスクが見えました。
こちらは、明らかにトルコ風です。


壁の影。
人が手をつないでいるように見えます。
世界平和は人類の悲願ー不意にそういう思いが胸を突きました。


閑話休題《エジプトの歴史》

2010-02-15 11:10:34 | 旅行
ようやく、エジプトの歴史を調べ終わりました。
全くと言っていいほど、知識がありませんでしたので、たいしたことをしていないのに、手間取ってしまいました。

ウィキペディアを駆使して調べたものに、ガイドの大政美奈子さんからの知識をお借りしたもので、私が理解した範囲の薄っぺらなものですが、よかったらどうぞお読みください。
興味のない方は、スルーしてください。

<ローマ支配の時代>

紀元前30年に、ギリシャ系のプトレマイオス王朝がローマによって滅ぼされてから、エジプトはローマ帝国の属国となっていました。
紀元前60年頃、マルコによってキリスト教が伝えられ、コプトと呼ばれるエジプト独特のキリスト教会が生まれます。
それ以来、数々の迫害に耐え、イスラム教徒が国教であり、国民のほとんどを占める今も、5%ではあるが残っています。

ローマ帝国の分裂後は東ローマ帝国に属し、豊かな農作物で東ローマ帝国を支えたが、639年にイスラム教が支配するウマイヤ朝に征服されました。
この、ウマイヤ朝の説明の前に、イスラム教の開祖・ムハマンドについて述べます。
エジプトでは、このとき以来、アラビア語を使い、イスラム教徒の国となったからです。

<ムハマンド>

イスラム教は、570年ごろにアラビア半島西中部メッカで生まれたムハマンドによって説かれた宗教です。
モーセ、イエス・キリストに続く最後にして最高の予言者とされています。
コーランには、モーセやキリストについての記述もたくさん見られるそうです。

ムハマンドは若い時から、商人として活躍していました。
25歳の頃、裕福な女性の商人ハディージャに認められ、事業を託されます。
その後、15歳年上で寡婦であったハディージャと結婚し、2男4女をもうけますが、男子は2人とも成人せずに亡くなってしまいました。

610年、悩みを抱いて、瞑想に耽っていたムハマンドはそこで神の声を聞いたと言います。
神は「読め」と言ったそうです。
その神の言葉を書いたものがコーラン(クルアーン)で、「読まれるもの」という意味だそうです。

コーランは神がムハマンドを通じてアラブ人にアラブ語で伝えた神の言葉そのものであるとされ、他の国の言葉に翻訳することが禁止されているそうです。
だから、イスラム教徒たちはどの国の人でも、一緒にコーランを唱えることができるそうです。

ガイドの大政さん自身もイスラム教徒だそうですが、コーランの内容の一部を紹介してくださり、現代になってようやく解明されたような科学的なことも書かれているのが不思議だ、とおっしゃっていました。
また、ムハマンドは詩人だという人もあり、文章もとても美しいのだそうです。

ムハマンドは、身近な人に神の言葉を伝え、また、自分の住んでいたメッカで布教活動を始めますが、迫害され、メディーナに逃れました。
そこでメッカからの軍隊と闘い、自らも負傷しています。
このころすでに、ムスリム(イスラム教徒)のカリフ(首長)として政治的な地位があったようです。

今回の旅行で、イスラム教が政教一体の国家としての性質が、このムハマンドの時代から形成されていたことがわかりました。
私は宗教家と言うと、つい、仏陀やキリストのように、苦行する姿か、静かに人々に教えを説く姿しか思い浮かびませんでした。
ムハマンドは闘う宗教家だったのです。
この認識に大きな誤りがあったので、私の頭の中でイスラム教がずっと謎だったのです。

ムハマンドは、ハディージャ亡き後、数人と結婚しますが、ほとんどが寡婦でした。
例外は、初代カリフとなるアブー・バルクの娘、アイーシャが9歳で嫁ぎ、最愛の妻と言われています。

<ウマイヤ朝>

ムハマンド亡き後、ムハマンドの側近たちは、血縁をたどってカリフを継承していきます。
第1代のカリフはアブー・バルク。
この人はムハマンドの友人(遠い親戚)で、ムハマンドの近親者を除くと一番最初に信者になった人。
娘のアイーシャが9歳でムハマンドに嫁いだので、義父にも当たります。
ムハマンド亡き後選挙で初代正統カリフに選ばれています。

アブー・バルクがカリフになって2年目で病死すると、2代目に選ばれたのがウマルです。
この人は、メッカでムハマンドを迫害している側だったのですが、自分の妹が唱えるコーランの美しさに魅せられて入信したそうです。
武勇の人で、メッカとの戦いすべてに参加し、功績を上げています。
また、夫に先立たれた娘がムハマンドに嫁いでいます。
この人の時代にシリア・イラク・エジプトなどに遠征軍を送り、アラブの大征服を指導しています。

征服しても、その土地の住民は残し、「イスラム法」や「イスラム暦」による支配とともに、役所や軍隊を置いて税を取り立てるという中央集権的な制度が確立していったようです。

ウマルは暗殺され、次にカリフになったのがウマーン。
この人も、メッカ時代からの信者で、ムハマンドの娘を嫁にし、その嫁が亡くなった後も、またムハマンドの娘を嫁に迎えています。
この人の時代に、サーサーン朝ペルシアを滅ぼしてイスラム帝国の領土をさらに拡大させています。
しかし、自分の出身のウマイヤ家の人を重用するなど不公平な政治を行ったとして、暗殺されます。

そして、正統カリフを争うことになったのが、ムハマンドの娘ファーテイマと結婚したアリーとウマイア家のムアーウィアです。
この両者が妥協し、アリーが第4代正統カリフとなるのですが、この妥協を潔しとはしないハワーリジュ派によってアリーは暗殺。
ムアーウィアも狙われますが、辛くも難を逃れ、自分の本拠地であるシリアのダマスカスを首都に定めてウマイヤ朝を開きました。

簡単にいうと、アリーが今のシーア派、ムアーウィアがスンナ派です。

ムアーウィアの後のヤズィードが、アリーの息子のフセインが反乱を起こすとの情報を得て、3000の兵を送り込み、先制攻撃に出たカルバラーの戦いで勝利します。
ただこのとき、フセインの勢力は72人で、ほぼ虐殺に等しかったことから、今もシーア派とスンニ派の感情的なしこりとして残っているそうです。

ウマイヤ朝は5代カリフ・アブドゥルマリクの時代(700年前後)に全盛期を迎え、東はパキスタン、西はモロッコまで勢力を拡大しました。
アラビア語を公用語にし、アラビア貨幣を普及させました。
イベリア半島に上陸し、ピレーネ山脈を超えたが、フランク王国と激しく闘い、結果破れてピレーネ山脈の南側まで戻りました。
この頃の地中海は、イスラムの海となったのです。

<アッバース朝>

しかし、ウマイヤ家が独裁する政権に不満が生まれ、ムハマンドの叔父アッバースを祖先とするアッバース一族が、不満分子を巻き込んでアッバース革命を起こしました。
アブー・アル=アッバースが初代カリフとなり、第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードのとき、全盛を迎えます。
このころのアッバース朝の首都はバグタードで、産業革命以前では最大の都市でだったということです。

9世紀後半になると、多くの地方政権が自立し、カリフの権限により緩やかに統合される時代となっていきました。
10世紀に、北アフリカにファティーマ朝が起こり、イベリア半島には後ウマイヤ朝が起こり、3人のカリフが存在することになってしまいました。
イスラム世界の政治統合は崩れ、地方の軍事政権が互いに争う戦乱の世となりました。

このことが、遊牧民系奴隷軍人マムルークを用いて、武力で地方を平定することとなり、1055年、セルジューク朝がバグダッドを占領し、カリフからスルタンの称号を許されて、イラン・イラクの支配権を握りました。

<トゥールーン朝>

エジプトでも、868年にアッバース朝から派遣されたマルムーク(奴隷軍人)のイブン・トゥルーンが総督代理に就任し、870年にはアレクサンドリアの支配権も認められて全エジプトを統治下に置きました。
イブン・トゥルーン・モスクを建設し、エジプトの独立主権を握った。

しかし、建設費を使いすぎたことと、後継者争いから、アッバス朝の介入を受け、トゥールーン長は滅び、ふたたびアッバース朝の支配を受けました。

<ファティーマ朝>

アッバス朝の衰えとともに、エジプトを治めたファーティマ朝のファーテイマは、ムハマンドの娘ファーティマに由来している。
ファーティマはアリーと結婚し、ハサンとフセインという息子を儲けた。
アリーが第4代正統カリフとなったのはファティーマの死後であった。

アリーの後、シーア派とスンニ派に分かれたことは前述した通りですが、シーア派多数のイマーム派第6代イスマール(シーア派の首長の呼び名)・ジァアファル・サーディクが亡くなってから(765年)、その長子イスマーイールの支持者が形成したグループがさらにイスマーイール派と呼ばれる。
イマーム派はこれと区別するためこれ以降12イマール派と呼ばれる。
今も、シーア派では最大の宗派だそうです。

10世紀の始め、ファティーマ朝の始祖ウバイドゥッラーは、自らがイスマーイールの子孫にして、隠れイスマール及び救世主(マフディー)だと宣言して、活動を先鋭化させました。
イスマール派の迫害の厳しいシリアを逃れて北アフリカで活動していた教宣員のアブ・アブドゥッラーはウバイドゥッラーを北アフリカに迎え、チュニジアでファティーマ朝が建国されました。

ファティーマ朝はしだいに勢力を拡大し、ほとんど抵抗されることもなくエジプトを支配下に置き、新しい首都カーヒラ(勝利の都)が今のカイロとなりました。

エジプトの征服に当たり、摩擦をさけるためスンニ派との融和もはかる一方、アズハル・モスクにイスマイール派の最高教育機関のアズハル学院が開講され、ここの卒業生たちは全イスラム世界に広まって、イスマーイール派を布教しました。
現在、シリア・イラン・パキスタン・インドや、アフガニスタン・タジキスタン・中国国境山岳地帯など信仰されているイスマーイール派は、このころの布教により広まったものです。

ファティーマ朝は第4代ムイッズとその子アズィーズの治世が最盛期となりました。
しかし、次のハーキム王は、冷酷な専制君主として名高く、残酷な刑罰を科したり、異教徒を激しく迫害したり、市民の娯楽を制限したり、飲酒を徹底的に禁じるため、ブドウ園を破壊したりしました。
犬を嫌って殺させたり、部下を残忍な手法で処刑したり、エジプト史上でも数々の奇行でその名を残しているそうです。

その反面、イスマーイール派の布教に尽力し、その名を残すむハーキム・モスクを始め数多くのモスクを建築しました。
ハーキムはみすぼらしい衣服を見にまとい、従者もつけずに砂漠や市中に散歩出かけることがありました。
ある夜、散歩に出かけたまま帰ることはなかったと伝えられています。

<アイユーブ朝>

このように弱体化していったファティーマ朝へ、ザンギー朝(イラク・シリアのあたり)の重臣サラディンが遠征し、3回のエジプト遠征でエジプトを倒し、自らファーティマ朝の宰相となり、エジプト全土を掌握しました。

1171年、ファーティマ朝のカリフが死去すると、ファーティマ朝を完全に滅ぼし、これをもってアイユーブ朝の成立と見る説もあります。

サラディンはエルサレム王国に侵攻、ハッティーンの戦いで十字軍に大勝し、エルサレム奪還を果たした人物です。

さらにイギリスのリチャード1世を中心とする第3回十字軍の派兵にも耐え、1192年、和睦を結ぶに至りのした。
これにより、アイユーブ朝は強大な支配権を持ちました。

サラディンは1193年ダマスカスで病死、その後アイユーブ朝は弱体化していきました。
リドリー・スコット監督の「キングダム・オブ・ヘブン」はちょうどこの頃のことを描いているのですね。

<マムルーク朝>

13世紀半ばにフランスのルイ9世が率いる第7回十字軍が侵攻してきたとき、アイユーブの最後のスルタン・サーリフ・アイユーブが死に、その未亡人のシャジル・アッドゥッルを指導者として推したて、マムルーク(遊牧民系の奴隷軍人)がクーデターを起こし、正統な世継ぎを倒しました。
女性スルタンとしてシャジル・アッドゥッルが新政権を樹立しましたが、女性スルタンにはムスリムの反対も根強かったので、マムルークのアイバクと結婚して、アイバクにスルタンの地位を委譲した。

ここから、マムルーク朝が始まりますが、軍人奴隷の政権なので、世襲という形にはなかなかならず、有力な軍人がスルタンを倒して王座に就くということが繰り返されます。
そして、スルタンはほとんど世襲ではなく、有力軍人の中から選ばれるということになりましたが、さらに軍閥の争いに拍車をかける結果となり、争いは絶えませんでした。

<オスマン帝国支配>

1509年にポルトガル軍との海戦破れ、陸上でも、セリム1世率いるオスマン軍に大敗をきっし、セリム1世に征服されました。

<ムハマンド・アリー朝>

1798年にナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍がエジプト遠征を開始した時、オスマン軍はバルカン半島から兵を派遣したが、その1部としてアルバニア人の非正規軍が組織され、そのときにムハマンド・アリーが副隊長に任命され、エジプトに派遣されました。

ムハマンド・アリーは軍人として頭角を現し、フランス軍が撤退した後、全アルバニア非正規軍の副司令官となりました。

エジプトではオスマン帝国の支配が緩んで、マムルークたちが政治の実権を握っていたが、フランス軍の去った後は、また権力闘争が起こりました。

ムハマンド・アリーは権力闘争に加わり、自らエジプト総督の地位を手に入れました。
オスマン帝国のセリム3世はムハマンド・アリーの実力を認め、総督就任を許しました。

彼は、国内でも対立するマムルークを力によって排斥し、300年ぶりにエジプト全域を支配する総督が誕生しました。

彼は産業や教育面で近代化を図り、領土も拡大しましたが、オスマン帝国からの独立には、国際社会の意向もあり、なかなか進みませんでした。
結局、トルコに総督の世襲を認めさせる代わりに、アラビア半島を手放すことになりましたが、これにより、エジプトの独立国家としての礎が開かれることになりました。

ムハマンド・アリー亡き後、世襲によって政権が維持されますが、列強の植民地としての性格が色濃くありました。

<イギリスの支配>

1870年代、南北戦争の後のアメリカから綿花が市場に流れ出し、綿花の価格が暴落し、エジプト経済は疲弊ます。
その見返りとして、スエズ運河の利権をイギリスに売ってしまい、ますますエジプト経済は打撃を受けました。

そんな中で「エジプト人のためのエジプト」という国家意識が生まれ、国民的な社会運動が起こりました。
しかし、イギリスが介入し、ムハマンド・アリー朝を温存する形で、実質的なイギリス人支配体制が取られました。

1914年第1次世界大戦が勃発すると、イギリスはエジプトの保護国化を宣言し、オスマン帝国から切り離されました。
1922年にはエジプト王国の独立を認め、エジプト王国を成立させました。

<現代>

1948年の第1次中東戦争で惨敗し、軍内部でもナーセルを中心とする青年将校たちが、戦争の敗因を王制に基づく政治の混乱と腐敗にあるとして、クーデターを起こし、無血革命に成功しました。
1953年、革命政府はムハマンド・アリー朝廃絶を宣言し、共和制に移行しました。

こうして、ナーセルが第一代大統領となり、心臓発作で急死した後、盟友であったサーダートが大統領に就任しました。
サーダートは、1977年にイスラエルのメナヘム・ベギン首相とイスラエル・エジプト間の和平交渉を開始し、アメリカのジミー・カーター大統領仲介の元、キンプデービッドで合意にこぎ着けました。
これにより、ノーベル平和賞を受賞しましたが、アラブ諸国及びイスラム教徒の反発を呼び、イスラム復興主義過激派によって暗殺されました。

その後、副大統領であったムバーラクが引き継ぎ、28年間も安定政権を維持しています。


旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>パート7

2010-02-01 14:55:31 | 旅行
ー旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>ーパート7

<カイロ博物館>



夕方からすいているということで、私たちは空港から直接、4時半頃に入館しました。
カイロの町は、すごい渋滞です。
信号がないそうです。びっくり。
信号をつけても政府がメンテナンスをしないから、結局は役に立たないそうです。
日本では考えられないね。

さて、カイロ博物館もカメラは持ち込みも禁止。
警備も厳重です。

ワッハブさんは、今までにも増して早口で説明していきます。
7時まで開館していると書いてあるけど、6時半には閉館したがるんですって。
パート1でも書きましたが、結局6時20分に追い出されてしまいました。
警察官みたいな人が、見ている私たちのそばまでやってきて、何かわめきながら手で出るように指示してきます。
めちゃ、感じ悪い。

それでも、私たちはおおかた、見るべきものは見たと思います。
ツタンカーメンの部屋ではたっぷり時間を取りました。

ツタンカーメンの父のアクエンアテン(アメンホテプ4世)のコーナー、ハトシェプスト女王の頭部、紀元前2300年頃の働く人々の像、紀元前2400年ごろの書記像や村長カーアペル像(カイロ博物館図録の表紙になっています)、すごくリアルなラーホテプとノフレトの座像、カフラー王、クフ王、ロゼッタストーンなどなど。
そのあと、動物のミイラを見ているところで、追い出されてしまいました。

ラムセス2世のミイラも見たかったのですが、結局時間切れとなりました。

<ギザのピラミッド>

翌朝、渋滞をさけるため、少し早く出発しましたが、もうすでにたくさんの人が見学に訪れていました。
まず、クフ王のピラミッド、中に入って見学します。
カメラは禁止。



ピラミッドは謎として語られることが多いですが、私はやはりパワーのある建造物だと感じました。
エジプトで数々の遺跡に感動してきましたが、やはりピラミッドが一番だと思いました。
これを見るために、ここへ来たんだと、このとき実感しました。
これは、自分の目で見ないとわからない感覚だと思います。

それほどまでに圧倒的な存在感でした。


ワッハブさんからクフ王のピラミッドについて説明を受ける。

クフ王のピラミッド。
エジプト第4王朝のファラオ、クフ王のために、紀元前2540年頃から40年かけて建築された。
完成時の高さは146.6メートル。
現在は、138.74メートル、底辺230.37メートル、平均2.5トンの石材を約270万個から280万個積み上げられたと計算されている。
長さと高さの比は黄金比である。



入り口は盗掘された穴だそうです。(人が立っているところ)
本当の入り口は、その穴の上にあるところ。



その進路が幸いなことに正規の通路に当たって、王の間まで上っていくことができます。
中に入れるのは1日300人。
確かに、ピラミッドは死んだ王のために建てられたのですが、死体を入れたのかミイラを入れたのか、宗教儀式だったのかはわからないけど、閉じられたら終わり、今日こんなにたくさんの人が内部に入ることは想定外だったでしょう。
たくさんの人が入ると、人いきれで内部が湿気るそうです。
なるほど!!

長くて細い急な坂をガーって上がっていって、ようやく王の間について「はあーっ」て声を上げたら、いきなり「シーッ」て注意されてしまいました。
狭い部屋に人がたくさんいて、しかも部屋の縁にぺたんと座って瞑想している人もいました。
ピラミッドパワーを感じて、宗教的瞑想に浸っている人もいるようでした。

なんだか息苦しい感じで、見学もそこそこに引き上げることにしました。

外に出て「バンザーイ」。


そこから太陽の船博物館へ。
太陽の船は2体発掘されていて、1つが博物館で復元展示されています。



ワッハブさんによると、この船はメンフィス(当時の首都)から、西岸のギザへ王の亡がらを運ぶために使われたと言うことです。
近くに船着き場後があり、当時のナイルはここまで水があったと言うことです。


船着き場跡

そして、葬祭殿でミイラにしてから、お葬式をして、ピラミッドに安置されたと説明してくれました。

日本のテレビ番組では、ピラミッドの謎というテーマで、謎めいていろんな仮説を繰り広げているのに、ワッハブさんの説明はとてもシンプルで、説得力がありました。
彼は、カイロ大学で古代エジプト史を専攻していたということです。

でも、本当のところはどうなんでしょうね。
研究が進んだら、謎が解ける時も来るのでしょうか?


船のフォルムはとても美しいです。



カフラー王のピラミッドの頂上に残っているのが化粧石で、ピラミッド完成当時はこのピカピカに磨かれた化粧石で全体が装飾されて、美しく輝いていたことでしょう。


客待ちのらくだたち

ラクダに乗って、ピラミッドの周りを歩きました。
怖かったけど、とても楽しい体験でした。
それにしても、ラクダに乗って何日間も砂漠の商人たちが旅をしたなんて、想像もできないと思いました。



カフラー王の参道にはスフィンクスがピラミッドを守護するように建っていました。
ここでびっくりするのは、スフィンクスが立っている位置が、すごく町に近いと言うことです。
最近では「ウフィンクスはファストフード店があくのを待っている」なんて言われているそう。
古代ロマンも、これではがっかりです。



さて、スフィンクスもお腹がすいているようですが、私たちも昼食の時間となりました。

午後はバスで、古都メンフィス、サッカラを回ります。

<メンフィス>

メンフィスはカイロの南方27キロ、ナイル川西岸にある。
エジプト古王国の最初の都。


プタハ神殿前に建てたラムセス2世の巨像が、足が損壊したため、建物の中に横たわるように保存されていました。
このラムセス2世は、間近に見られるせいか、とてもりりしい若者の姿で、かなり心が動かされました。



外にあるスフィンクスも立派だったし、


高さ7メートルのラムセス2世の立像も立派なものでした。


棺も展示されてあり、棺のふたには有翼女神がくっきりと刻まれていました。


<サッカラ>

次に向かったのは、サッカラ。
まず、イムホテプ博物館へ。
私は見ていないんですが、映画「ハムナプトラ」では、王妃と企んで王を殺す悪者なんですってね。
この映画見ていないのが悔やまれますが、私はイムホテプさんのミイラも見てしまいました。
実在の人物。

今から見に行くジョセル王に仕えた宰相で、ジョセル王の階段ピラミッドを設計した人物です。
内科医としても優れていたそうです。

そして、メレルカのマスタバ墳。
マスタバ墳というのは、長方形の大きなお墓のこと。
ジョセル王の階段ピラミッドはこのマスタバを重ねた形。

メレルカはティティ王時代の宰相で裁判官。
偽扉と呼ばれる来世への扉に向かって、壁一面たくさんの捧げものの絵で覆われていました。

その前にティティ王のピラミッドの入り口がありました。
ピラミッドはほとんど崩れかけていましたが、中はしっかりしていて、たくさんのヒエログリフが刻まれていました。
ここの番人の太った男の人が「ティティ、ティティ」と言って、ティティ王の名前が書かれていることを教えてくれました。


入り口

いよいよ、ジョセル王のピラミッドを見学に。
このピラミッドがピラミッドの始まり、最古のものです。
まず、門をくぐって柱廊を抜けると広い中庭があって、ピラミッドが全容を現しました。


柱廊を抜けたところ。



ピラミッド・コンプレックス(複合体)と呼ばれていて、葬祭殿や神殿などが併設されています。
ここでは、この造りが明確にわかるように復元も進んでいるようでした。

この日は本当に天気がよくて、午前中見学したギザのピラミッドまで見えました。
砂漠ってすごいなあ!!



バスの中から、建物の間からピラミッドが見えました。
町とピラミッドと夕日、不思議な景色でした。

これで、ワッハブさんとはお別れ。
カルチャースクールの講師のようなワッハブさん、お疲れさまでした。
ありがとうございました。
お礼に、小松さんがジャズのスタンダードを歌ってくれました。

ワッハブさんは、「自分は歌を歌えない」と言っていました。
エジプトでは音楽教育がないそう。
教育熱が高く、ムダな勉強はいらないということみたいです。
でも、音楽のない世界なんて考えられません。
早くエジプトのみなさんにも、音楽を演奏したり、歌ったりして過ごす時代がくればいいですね。

この夜のみなさんは、きっと月の砂漠のお姫様と王子様がピラミッドを旅する夢を見たことでしょう。




旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>パート6

2010-01-31 13:19:40 | 旅行
ー10.1.8~18 旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>ーパート6

<アスワンからアブシンベルへ>

朝目覚めたら、もう船はアスワンの町に着いていました。
船で朝食を食べたら、荷物を出してお別れです。


船のフロント。チェックアウトの様子

チェックアウトのときに冷蔵庫を申告しました。
54.5ポンド(1ポンドは約18円)。
私は100ポンド出しておつりを待っていました。
そうしたら、小銭がないらしいのです。
で、私の100ポンドを持ってボーイさんが船の中をうろうろし始めました。
でも、両替できなかったようです。
しかたがないから、私は100ポンド返してもらって、20ポンド札3枚を出しました。
おつりは5.5ポンド、ですよね?

レジの奥からしわくちゃなお札をなんとか2ポンド出してきたけど、それ以上はないようです。
どうするのかなあ、と思っていたら、フロントのホテルマンが自分の財布を取り出して1ポンドくれました。
でも、まだ足りないよねー。
そこへ、ツアコンの小松さんが「どうしたの?」と入ってくれて、「おつりがない」話をしたら、小松さんが1ポンド出してくれて、私が1ポンド泣いて、三方1損で丸く治まる、かあ?????
ホテルマンは小松さんに「さんきゅ」ですって。
これがエジプト式かと、呆れてしまいました。
小松さん、全然関係ないのに、迷惑をおかけしましたね。

さて、バスに乗って、オベリスクの採掘現場へ向かいます。
ここは、赤御影石の山です。
アスワンの特産ですって。
素敵ですねえ。



無事切り出していたら世界最大のオベリスクになるはずだったけれど、ひびが入ってそのまま放置されたオベリスクを見ることができました。
このオベリスクにたどり着くまでの、石段も坂道もみんな赤御影石です。
うちの玄関にもって帰れませんか?



アスワンハイダムの記念碑も大きな赤御影石でできていたし、歩道も赤御影石が敷き詰めてありました。

エジプトにとって、アスワンハイダムはとても大切な施設です。
ナイル川は毎年夏に氾濫し、洪水を起こしていました。

アスワンにはロウダムとハイダムがあって、ロウダムはイギリスの援助で1901年に建設されました。
これだけでは不十分だと考えたエジプト政府は、1952年にハイダムの建設計画を始めるが、エジプト革命が起こり、イギリスが撤退して計画は中止となった。
革命政府は、ダムの建設にむけて資金調達を始め、そのためにナセル大統領はスエズ運河の国有化を決める。
それが第2次中東戦争の発端となった。
1958年、ソ連が建設資金と資材の提供を申し出た。
1960年に建設が始まるが、水没地域の約9万人の住人の移転や、アブシンベル神殿などの遺跡が水没してしまうというたくさんの問題があった。
アブシンベル神殿の水没については、国際社会の反対の声が強く、ユネスコの援助で巨額な費用をかけて、移転された。

アスワンハイダムは総コスト10億米ドルをかけて1970年に完成。
完成を記念した塔が湖畔に建てられていました。



現地の住民の人たちも見学に来ていました。



 アスワンハイダムから上流を見る

 下流を見る。水量の差が一目瞭然です。

このダムを破壊されては、エジプトの主要都市に洪水が起こるので、警戒は厳重です。
これを守るために、イスラエルとも共存しようと努力するし、守るべきものがあるというのが、平和に通じるんだなあと思いました。


バスから降りて、砂漠体験。細かいさらさらの砂です。

飛行機に乗って、アブシンベルを目指します。
約1時間。
その間、眼下に広がるのはナセル湖と砂漠ばかり。
すごい国ですねえ。



アブシンベル神殿がちらりと見えました。
期待に胸が膨らみます。

すいている時の見学がいいだろうということで、ホテルで昼食の後、すぐに出発。
観光客はほとんどいなくて、アブシンベルが貸し切り状態でした。


砂漠を歩いて神殿へ


アブシンベルの全容が私たちの目の前に。

外は撮影していいんですが、中は禁止。


まず、外の4体、1体は首が下に転げ落ちています。


全部ラムセス2世です。
内側のラムセス像に寄り添っているのがネフェルタリ。


子供たちも描かれています。
 

この4体のラムセスは、90まで生きたラムセスなので、微妙に年が違っていると言います。

一番奥にある4体の像は、右端がラムセス2世、左が冥界の王オシリス、真ん中はラー神ともう1体は忘れました。汗!
年に2回、1回はラムセスの誕生日だそうですが、朝日が神殿の奥まで深く差し込み、ラムセス及び3体の像を照らすそうです。
オシリスは冥界の王なので日は射さないんですって。
不思議です。

そこに至るまでの壁画は、最初の部屋にはカディシュの戦いなどラムセスの功績を表し、次の部屋ではいかにラムセスが神に祝福されているかということが描かれ、最後はこうして神となったということが描かれています。

大神殿の隣には、小神殿があり、妃ネフェルタリが祀られています。
立像が6体あって、そのうち4体はラムセス2世、王の姿や神の姿で描かれています。
ネフェルタリはハトホル女神の形で描かれています。

たっぷり時間をかけて見学した後、いったんホテルに戻って休憩。
 私たちのお部屋

友達は、プールに飛び出していきました。



私は水着を忘れてしまいました。
でも、すぐに戻ってきて、とても水が冷たかったと言っていました。

夕方、アブシンベルに戻って「音と光のショー」を見ました。


始まりを待つ観客たち

あちこちで行われているけど、「ここのが一番!」と小松さんが太鼓判を押してくれました。
ここにはホテルが2つしかなくて、その泊まり客を調べてツーリストの多い国の言葉で行われるんだそうです。
なんと、ラッキーなことにこの日は日本語でした!!
暗くなって、大音響とともに、大神殿、小神殿をスクリーンに、巨大な映像が浮かび上がりました。

まず、砂に埋もれていたアブシンベルが、1800年代にヨーロッパの学者によってまたこの世に姿を現したことから語り始め、国際社会やユネスコの努力で、水没の危機から救われた様子を次々と映し出していきました。
この巨大な岩の芸術を、運べる大きさにカットしてまた組み立てるという、気の遠くなるような緻密で複雑な作業。
奇跡のようです。

そして語られるラムセス王の勇壮な生涯。
壮大な叙事詩となって私たちを包み込みました。
3000年の時を超えて、いまだ私たちに、生き生きとその生涯を語るラムセスという英雄。
アブシンベル神殿という揺るぎない建造物。
ただただ、圧倒されて見終わって、そこにはライトアップされたラムセスの姿がありました。



言葉も少なく、観客たちは暗い夜道をホテルへと帰っていきます。
空には、満天の星がきらめいていました。

アブシンベルはこれだけでは終わりません。
次の日、早起きして、夜明けを見に行きました。
そのために、飛行機の時間もずらしてもらえたそうです。
「日本人には外せない」なんて冗談を言いながら日の出を見守りましたが、これは本当に見てよかったです。



茜に染まった雲が太陽が出て来るのを待つようにたなびいて、とても神秘的でロマンティックな風景でした。
このシチュエーションで何も感じない人がいたら変でしょう?



やがて、まぶしくて目も開けていられないような太陽が昇り、当たりは一変するのです。
神殿の巨像を朝日が真っ赤に照らし、巨像は命を吹き込まれたようです。
昔の人が、ここに神を感じたのは本当に理解できると思いました。



私たちは、古代の住人となり、アスワンに戻っても、空き時間を利用して、これもまた水没を免れたイシス神殿を訪ねました。

もともと、フィラエ島にあったのですが、水没したために、神殿だけこの島にうつされ、この島の名前もフィラエ島となりました。

ボートに乗っていきました。



半ば水没していたのを救われたそうですが、とてもきれいな神殿で、古代遺跡とは思えません。
プトレマイオス王朝時代の神殿です。
女神を祀る、のちの聖母マリア信仰にもつながる感じが伝わってきました。



カフェでお茶を飲みました。
湖の青と、神殿の白、緑の木陰と赤い花。
心に刻みました。



さて、いよいよ空路カイロへ向かいます。


旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>パート5

2010-01-27 11:37:44 | 旅行
ー10.1.8~18 旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>ーパート5

<ナイルクルーズ2日目>
<ホルス神殿>
次の朝目覚めたら、エドナの岸壁についていました。
それも、他の船のすぐ横。
カーテンを開けたら、隣の船の食堂で、たくさんの人が食事をしていたのでびっくりしました。

隣の船やまたその隣の船の中を通って、上陸します。


こんな馬車に乗ります。

エドナのホルス神殿に行きます。
馬車に乗っていくのですが、地元の馬車なので言葉もわからないし、大変です。
ワッハブさんが1台1台往復の値段を交渉して、私たちを馬車に乗せてくれました。
御者の人たちは油断をするとお金をねだって来るそうなので、要注意です。



だけども、とっても愉快な馬車からの景色。
エドナの町も1日を始める準備に余念がないようです。

神殿の入り口には警察官の姿があり、ここも警備は厳重そうです。
たくさんのお店の後ろにホルス神殿の塔門が見えました。



このホルス神殿は、エジプト国内でも最も保存状態のいい遺跡として知られています。
この場所には、先史時代からホルスを祀る至聖所がありましたが、時代ごとに建造が繰り返され、現在のものはプトレマイオス王朝時代の立派なものです。


塔門


塔門の描かれた壁画ー王が敵を束ねてホルス神に捧げている様子


塔門に描かれている有翼日輪。ラー(太陽)とウジャアト(蛇)とホルス(ハヤブサ)が一体となったもの。

プトレマイオス王朝はアレキサンダー大王の部下だったプトレマイオスが創始しまた。
つまり、ギリシア人の作った王朝ですが、エジプト文化に同化しようとして神殿の建造に力を入れたようです。
神殿の壁画には、エジプトの神に認められたプトレマイオス王ということを示すたくさんのレリーフで飾られています。
着工から2世紀もかかって完成したものだそうです。


第1の塔門前のホルス


第2の塔門前のホルス

ホルスというのは、エジプト神話の神の名前で、ハヤブサの頭をした男性として表現されています。
オシリスとその妹イシスが結婚して生まれた神で、天空を司り、現世の王はホルスの化身だと考えられていました。


ホルスに祝福される王

《エジプト神話》
カイロの近郊に実在したヘリオポリスの神話をもとにまとめてみました。

広い海原ヌンからラー(アトゥム)が誕生し、独力で神々と世界を形作っていった。
ラーは太陽神なので、日の昇り沈みにあわせて、ラー自身も変形すると考えられた。
日の出の時はケプリ(フンコロガシ)として現れ、日中はハヤブサの姿をして天を舞い、夜は牡羊の姿で夜の船に乗り、死の世界を旅するとされている。

天はヌトという女神でも地はゲブという男神であった。
二人は夫婦で、最初は隙間なくくっついていたが、父シュウ(湿気)と母(空気)に引き離され、ゲブは少しでも近づこうと山々を創りだした。
ヌトとゲブの間にオシリス、イシス、セト、ネフティスをもうける。

オシリスは、体をミイラとして包帯を巻かれ、王座に座る男性の姿で描かれる。
オシリスはエジプトの王として人々の絶大な指示を得ていたが、それを妬んだ弟のセトに謀殺された。
遺体はバラバラにされてナイル川に投げ込まれたが、妻でもあり、妹でもあるイシスが拾い集め、ミイラとして復活させた。
自分の息子のホルスの後見として、セトから奪われた王座を奪還した。
これより、現世はホルスが、冥界はオシリスが統治・君臨することとなった。
ホルスはセトと争ったときに、左目を失い、これを「ウジャトの目」といって、魔除けになっている。

ハトホルは、ホルスの母、ときには妻ともされる。
世界を生み出した天の雄牛、子供を守る女神など多様な性格を持ち、イシスに次いでひろく崇拝された。
人の姿で表現される時も頭に牛の角がはえている。

その他、セベクはワニの頭を持った男の姿で表される。
プトレマイオス時代には、ギリシア神話のヘリオス(太陽神)と同一視されている。

アテンは人間や動物の姿で表されるエジプトの神々とは異なり、先端が太陽光線を何本も放ち、光線の一つに生命の象徴アンクを握った太陽円盤の形で表現される。
ツタンカーメンの父、アメンホテブ4世が特に崇拝した。

アヌビスは、ジャッカルの頭部を持つ男性か、ジャッカルそのものの姿で描かれた。
アヌビスはセトの妻にして妹である、ネフティスが兄のオシリスとの不倫によって身ごもった子供で、セトが敵視していたオシリスの子であることから、生まれてすぐにネフティスによって葦のしげみに隠された。
オシリスが冥界アアルの王となる以前の冥界を支配、管理しており、オシリスが冥界の王となった後も彼を補佐してラーの天秤を用いて死者の罪を量る役目を担い、その様子はピラミッドの壁面などに描かれている。

ケプリは、人間の体にフンコロガシの頭とする姿で表現される。
ラーの形態のひとつで、日の出を表す。

ウアジェトはコブラの姿またはコブラをつけた女性の姿で描かれる。


ここホルス神殿は、現世の王と同一視されるホルス神をご神体として祀っています。
至聖所にはホルスのご神体が安置されていました。



プトレマイオス王朝が一番現代に近いエジプトの王朝、といっても、紀元前300年から30年くらいのことですから、修復されているとはいえ、これだけのものが残っているのは驚きでした。
至聖所には屋根もあって、ご神体もあって、かつての姿が忍ばれます。

この至聖所をぐるりと囲む壁には、絶世の美所として名高いクレオパトラ7世の壁画もありました。



<船の中>
船に帰って、昼食まで、船のなかの見学がさせてもらえることになりました。
まず、厨房。



右がマネージャーさん、左が厨房の責任者の方です。
食材は全部本社から送られて来るそうです。
とても清潔な厨房で、船の食事はおいしいし、安全面でもとても信頼できると思いました。




サラダ係のコックさん

次に案内されたのが、操舵室です。



座ったいたのが民族衣装のエジプト人だったので、少しびっくりしました。
しかも、この人は見習いだそうです。
本当の船長さんは休憩中でそばにいました。

彼は、父親が持っていた船で操縦を覚えて、いまの職場まで来たそうです。
エジプトでは、専門学校や資格というものはなく、見習いから技術を習得していくようです。



緩やかなナイルの流れを、私たちは遡っています。


水辺の水牛


汽車も走っていました。

見学会の後は船の屋上でバーベキュウ。


このケバブがおいしかった!!

船には、プールもついています。
食後はデッキチェアでお昼寝。
バーから特製チャイを届けてもらいました。
美味しかった~!!



<コモンボ神殿>


コモンボが見えてきました。

夕方にコモンボに上陸。




この神殿もトトメス3世が作った場所に、プトレマイオス王朝時代に建造されたもの。
ホルス神殿にもすごく似ていましたが、この神殿の特徴は、2つの神を祭ってあるところです。





左からはいるとホルスの神殿、右側はワニの頭を持つセベクの神殿です。
神殿部も屋根が崩れていますが、珍しい壁画がたくさん残されていました。


古代のカレンダー


神々だけではなく、こんな蜂の絵もあります。


出産シーン(?)


授乳している女性。聖母像の元になったとも言われている。

また、有翼日輪の色鮮やかなレリーフも見られました。




美しい夕日も見られました。神々が見たのと同じ夕日でしょう。

<ガラベイヤパーティ>
夕食の後は、お待ちかねガラベイヤパーティ。


ワッハブさんがみんなを乗せてくれます。
英語の司会に日本語の司会に、彼が大活躍をしてくださいました。

一緒の船に乗り合わせた、国も言葉も違う人々が、一緒になって踊ったり、ゲームをしたりして過ごしました。


これも、クルーズの楽しみですね。

旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>パート4

2010-01-23 15:52:20 | 旅行
ー10.1.8~18 旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>ーパート4

<カルナック神殿>

やはり、旅の興奮があるのでしょうか?
私と同室のKは朝早くから目が覚めて、船の屋上にあるテラスから朝日を見ることにしました。



東の空はすっかり明るくなっていて、昨日見学した西岸には気球が上がっていました。
行き交う船が朝日を浴びてとてもきれいです。

朝食はバイキング。

私の食べたもの。

では、カルナック神殿に出発です。
出で立ちは、タオルやスカーフですっぽり顔を覆って、帽子を深くかぶります。


振り向くと、ハトシェプスト葬祭殿(があるはずなんですが…)。


羊の顔をしたスフィンクスがお出迎え。



顔はこんな顔。

塔門の裏側。
こんなふうに日干しレンガで坂道を作って巨石を積み上げたということです。


生け贄を殺したという祭壇。


セティ2世の神殿



第2塔門、直立しているラムセス2世像と左足を出している像があります。
立っている方は、生きている姿を表し、直立している方はミイラのポーズで死んでいることを表します。
ミイラポーズの足下にいるのは、娘さんです。





ここで、何度も名前が出てきているラムセス2世について、少し説明しておきます。
この人が、今回の旅行のヒーローになりました。(私にとっては、ですよ)

ラムセス2世は紀元前1314年から紀元前1224年(1説ですが)、古代エジプト第19王朝のファラオで、ラムセスはギリシャ語ですが、「ラー(太陽神)によって生まれた」という意味の名前だそうです。

セティ1世の息子で、セティ1世がなくなった後、24歳で即位し、90歳で没するまで、66年間統治し、何人ものお妃や側室との間に、後継者となるメルエンプタハをはじめ、息子111人、娘69人を儲けたと伝えられています。

彼を一躍有名にしたのが、あちらこちらの壁画に描かれている「カディシュの戦い」。
これは、紀元1286年、ヒッタイトとの間で行われた戦争で、自ら軍を率いて闘いました。
苦戦しつつも彼の大活躍で勝利し、これを機にヒッタイトと休戦(世界史初の平和条約)に成功、ヒッタイトの王女を王妃に迎えたそうです。

ヒッタイト!!トルコへの旅行で、ハットゥシャにあるヒッタイトの遺跡に行きました。
あのときは、何にもわからず、ガイドさんの説明がとても眠かったのを覚えていますが、ここで、つながりました。
すごい城壁が修復されて残っていたし、ライオンの門もありました。
なんだか、うれしいなあ!
古代がぐっと近く思えます。

さらにラムセス2世は、ナイルの南の地ヌビアを勢力に加え、ここにスーダンからの侵略者を威嚇するためにアブシンベル神殿を建立したということです。

旧約聖書の「出エジプト記」、モーセのお話ですが、このときのファラオがラムセス2世ではないかと言われています。
最近では、ラムセス2世の息子メルエンプタハという説が有力のようですが。
というのも、メルエンプタハは水死したようで、それはモーセの話と合うということらしいです。

ちなみに赤ちゃんだったモーセを拾って育てたのは、ハトシェプスト女王との説もあるそうです。

このように、新王国に富と栄華をもたらし、大王と呼ばれるラムセス2世ですが、ネフェルタリという王妃をこよなく愛したようです。
王家の谷のネフェルタリの墓(現在は見学禁止)には、ラムセスがネフェルタリを思って読んだ詩がたくさん残されているそうですが、中でも、
「余の愛する者はたゞひとりのみ。何者も余が妃に匹敵する者はなし。生きてあるとき、かの人は至高の美を持つ女人であつた。去りて、しかして余の魂を遙か遠くに奪ひ去りしが故 」という情熱的なものがあるそうです。


ネフェルタリのお墓の壁画に描かれているネフェルタリ(ウィキペディァより)
この輪っかで囲まれているのがカルトゥーシュです。
中にネフェルタリを表すヒエログラフが書かれています。

アブシンベル神殿には、大神殿の隣にネフェルタリのために小神殿さえ作られていました。
亡くなってからも大切にされていたことが、ひしひしと伝わります。

ネフェルタリはラムセス2世との間に3人の息子と2人の娘を儲けましたが、誰も王位を継いでいません。



そして、話を戻しますが、ラムセス2世のミイラポーズの足下にいる女性は、ネフェルタリそっくりの自分の娘で、この娘と結婚しようとしたようです。
さすがに、このころの法律も親子の婚姻は禁じていたし、神官たちも大反対したそうですが、彼は「自分は神から生まれ、神のような存在なのだから、いいのだ」ということを言ったようです。

それはやりすぎでしょう、と思うけど、それほどまでに愛されたネフェルタリという女性。
どんなに素晴らしい人だったんでしょう。
ラムセスって、「英雄色を好む」だけではない、初恋を貫くようなロマンチストな一面があったのかも。
文武両道の愛妻家だったのかなあ。
二人の間には、どんな愛情物語があったのでしょう。
自己顕示欲の強いファラオというイメージが、愛妻家ラムセスさんに変わってきました。


さあ、お待ちかねの大列柱室。
アガサ・クリスティの「ナイル殺人事件」の殺人未遂の舞台となったところです。
映画「ナイル殺人事件」では、こんな柱の間から巨石が落ちてきましたよね!!


柱の裏側には彩色の色がまだ鮮やかに残っています。
カルトゥーシュで描かれているのが、ファラオの名前です。
見えるかなあ?
ファラオの名前は2つ以上はあるようです。


トトメス1世のオベリスク。向こうにハトシェプスト女王のオベリスクが見えます。


これがハトシェプスト女王のオベリスク。

第5・第6の塔門を抜けて、神殿の中に入ると観光客でごったがえしています。
もう何が何かわからない状態です。
とうとう、ワッハブさんともはぐれてしまいました。

神殿の中には至聖殿と呼ばれるいわゆるご神体を祀っている部屋の周りに、部屋がたくさんあって、これはそのひとつのお部屋の天井です。


星が描かれていて、あかり取りの隙間もあいています。



これは、アメン神(太陽神だと思うけど…)。
色が残っています。



やっとワッハブさんを見つけました。



聖なる池。
ここで身を清めるそうです。



みんながぐるぐる回っています。
その正体はスカラベ(糞転がし)。



太陽を運んでいる姿をイメージして、神として祀られています。
私たちもぐるぐる回ってお願いごとを。

修復作業もきりがなく、大変そうです。



スフィンクスの後ろ姿は、なんだかユーモアがあります。



<ナイルクルーズのはじまり>

船に戻ったら、いよいよクルージングの始まりです。
合図も何にもない、静かな出航。

夕暮れが近くなって、エスナの水門にさしかかりました。



水門で船のスピードが緩むのを待って、物売りの人たちがボートでやってきました。



甲板にものを投げ入れて、お金を払わなかったら船の中にも乗り込んで来るというので、みんな必死に投げ返していました。
明日の晩のガラベーヤパーティのための衣装を売りにきているようです。
うまく買えた人もいました。
私は船の中のショップで調達しました。

その際に仲良くなった(ショップの店員さん)。



結局、彼のお勧めに負けて(?!)金製のカルトゥーシュを買ってしまいました。
カルトューシュの中に私の名前をヒエログリフで入れてくれて、裏にはアンク(命の鍵)を貼付けてくれるそうです。
この買い物の値段交渉には、東京から参加の結婚したばかりの若奥様とワッハブさんが通訳で頑張ってくださいました。

甲板に来たカラス。


トルコにもいたなあ。

水門は、先日近江八幡で通った水門と原理は同じ。
エスナダムの上流と下流では水位が違うので、船をいったんドックのようなところに入れて水門を閉じ、上流の水門を開けて水位を上げて、上流の水門を開けてまた進む、というもの。
みんなで、船の先端に集まって、ナイルの流れを眺めていました。

この夜はさすがにみんな疲れてしまって、夕食の後は早く静かに休みました。


旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>パート3

2010-01-22 11:36:05 | 旅行
ー10.1.8~18 旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>ーパート3

<王家の谷とハトシェプスト女王の葬祭殿>


メムノン巨像です。
アメンホテプ3世の像だそうです。
もともとはこの後ろに葬祭殿があったのですが、メルエンプタハが自分の葬祭殿の石材を調達するために壊してしまったということです。

ここの駐車場でホテルが作ってくれたお弁当をバスの中で食べました。


メムノン像の側面に彫られたヒエログリフ。
古代エジプトの文字です。
これから巡る遺跡は、この文字で溢れているそうです。
飛行機の中で、友達が持ってきた本を少し読みましたが、簡単そうに書かれていたのに、すぐに眠くなってしまいました。
でも、読む方向くらいはわかったし、王様の名前の特徴もわかったので、興味津々です。

ヒエログリフの解読は、19世紀のフランス人の言語学者シャンポリオンが成功したそうです。
1799年にエジプトのロゼッタで発見されたロゼッタストーンには、3つの言語で書かれた文章があり、最初がヒエログリフ、次がデモティック、最後にギリシャ語でした。
ギリシャ語は読めて、後の文章も同じだと考えられていましたが、すでに読める人はいなかったのでした。
シャンポリオンはコプト文字の研究もしていて、コプト文字に近いデモティックを読むことに成功し、ヒエログラフも読めたそうです。
ロゼッタストーンの解読にはコプト文字がが役に立ったんだと、ガイドの大政さんが教えてくれました。


ロゼッタストーン(ウィキペデアより)カイロ博物館でもレプリカを見ました。

エジプトで初めて見る巨像なので、その大きさにびっくりしましたが、奈良の大仏より、少し大きいくらいです。
メムノン巨像18メートル、奈良の大仏は14.5メートル。
しかも、こちらは椅子に座っているし、大仏はあぐらをかいているし、どっちが背が高い?なんて考えるのも面白かったです。

続いて王家の谷へ。
ここはカメラが禁止です。
エジプトの観光施設全部に言えることですが、セキュリティチェックがとても厳しい。
かならず空港みたいなセンサーがあるし、受付にカメラを預けなければならないところもありました。
そこには自動小銃をかかえた警察官もいて、ものものしい感じもします。

クルーズ船にも自動小銃を持った警察官が乗り込んでいたし、船を乗り降りするときにも見張っていました。

日本人にとって忘れられない事件。
ルクソール事件と呼ばれています。
「1997年、1997年11月17日午前9時(現地時間)ごろ、ルクソールの王家の谷近くにある、ハトシェプスト女王葬祭殿の前にて、外国人観光客ら200名に向けて待ち伏せていた少なくとも6名(もっと多かったという証言もある)のテロリストが、守衛を襲撃した後、無差別に火器を乱射し銃弾がなくなると短剣で襲ったという。この襲撃でスイス人、ドイツ人、日本人(観光客9名、添乗員1名)ら観光客61名が殺害された。」(ウィキペディアより)

私と友達は、1997年以前からエジプトに憧れ、行ける機会を待っていましたが、この事件から後の中東の不安定な情勢を考えて、なかなか踏み切れないでいたのでした。

やはり、この事件のことを考えると、暗い気持ちになり、厳しいセキュリティチェックも仕方がないという気持ちでした。

さて、まだ10時過ぎだというのに、気温はどんどん上がっていきました。
砂漠の中の王家の谷。

(ウィキペディアより)

飛行機の中で少し勉強したヒエログリフなので、王様の名前がどこにあるかくらいわかって(カルトゥーシュと呼ばれる輪っかで囲んであるのが王様の名前です)、自分が歴史ハンターになった気分です。

ラムセス9世、ラムセス1世と見たところで、ワッハブさんが「今日はツタンカーメンのお墓が見学できますよ」と言いました。
決まった時間しか公開していないそうです。
しかも、見られない日もあると言います。
ここの入り口を見張っている人はとても怖い顔で「入るなら早く入りなさい」と言っているようでした。


ツタンカーメンのお墓の入り口(ウィキペデアより)

中へ入ると、今まで見てきた王の墓より、だいぶ規模が小さいけれど、あまりにも有名です。
理由は盗掘を免れたからです。
玄室には一番外側の人型棺が展示されていました。
壁には一面の壁画。

入り口近くの小さな部屋に、ツタンカーメンのミイラが眠っていました。
3300年以上の時を超えて残る肉体って、あり得なーい!!
でも、彼はただ、静かに眠っているだけでした。
カイロ博物館で彼の遺品を見るのが、ますます楽しみになりました。

もうへとへとでしたが、ラムセス3世のお墓を見ました。
このお墓は、とても豪華でした。
ツタンカーメンは亡くなったのが18歳くらいらしいので、あまりお墓の準備ができなかったらしいのです。
このラムセス3世の墓は、準備する時間がたくさんあったのでしょうね、ほんとうに立派でした。

見られるお墓は1グループ3個だそうです。
入り口でチケットにはさみを入れてくれます。
ツタンカーメンは別チケット。

次は、ルクソール事件の惨事があったハトシェプスト女王葬祭殿へ。


ハトシェプスト女王は、トトメス1世の娘で、夫はトトメス2世。
不幸なことに世継ぎに恵まれなかったので、トトメス2世は妾の子トトメス3世を世継ぎに指定しましたが、この子が幼かったため、王に変わって22年間も統治した女王です。
テレビで予習したところによると、彼女は幼いトトメス3世を継子いじめして、みずから髭を付けて男装していたそうです。


神殿の壁画


天井には星も

この葬祭殿にも、「自分は神から約束された命なので、女ではない、神聖な存在だ」と言う物語が描かれてあるそうです。

カイロ博物館にも男装して顔色も浅黒いハトシェプスト女王の顔の像がありました。

葬祭殿というくらいですから、ここで彼女のお葬式が行われたのでしょう。
とても巨大な遺跡、その影響力が忍ばれます。


第3テラス


一番奥にある岩をくりぬいて作られた至聖室

彼女の死後、王になったトトメス3世は、彼女を嫌って、壁画の中の彼女の神格化された部分を削ってしまったそうです。
いつの世も、人間の感情的な部分は変わらないようです。
(女性の王を認めない神官がやったという説もあります)


葬祭殿から東岸ルクソール市内を臨む


クルーズ船にチェックイン


クルーズ船のロビーから吹き抜けの天井を見上げる。

クルーズ船にチェックインして、お昼ご飯!!
バイキング形式で、たくさんの食べ物で溢れていました。


食堂


初めてのエジプト料理。なかなか薄味でピクルスなんて、すごく美味しいです。
後ろにあるのがエジプトのビールサッカラ。
イスラム教はアルコールが禁止ということで、飛行機にも置いてありませんでしたが、船は観光用なのでビールもワインもエジプト製のものがありました。
ちなみに、サッカラビールはキリスト教徒が経営しているそうです。

<ルクソール神殿>

4時過ぎに再集合してルクソール神殿へ。



この神殿は東岸、ルクソールの町の中心にあります。
エジプトの神殿は、その地の豪族が既に建てていたところに新築したり増築したりしたものが多いようです。
この神殿も、もともとあったところに新王国の第18王朝のアメンヘテブ3世によって建立されたそうです。

この神殿は、次の日に行くカルナック神殿の付属神殿として作られたもので、本来は約3キロも続くスフィンクスの参道で結ばれていました。
その参道を復元しようと、町の真ん中で、家の立ち退きや修復作業を進めている最中のようでした。



入り口には塔門があって、その前にはラムセス2世の座像が入り口に2体あります。
オベリスクも2つあったはずですが、今は1つしかありません。
切り取られた台座だけが残されていました。
ここにあったオベリスクはパリのコンゴルド広場にあります。
壁面には、ラムセス2世の「カディシュの戦い」が描かれてありました。



入り口を入ると、遺跡に不似合いな建物がありました。
現在もイスラム教会として使われているそうです。


ここはラムセス2世の中庭と呼ばれている空間です。


再び現れるラムセス2世の座像


台座には征服した捕虜が描かれています。これは、東方系の敵。


これはアフリカ系の敵。

ラムセスの2体の座像の間を通って、アメンヘテブやツタンカーメンが作った神殿に入っていきます。


これはツタンカーメンとその妻アンケセナーメンの仲睦まじい像ですが、なんと、この像に書いてあるのはラムセス2世の名前!!
このように、ラムセスは過去の王様の偉業に自分の名前を書き換えているものが多数見られるそうです。
ラムセス2世って、どんな人だったんだろう。
私の頭の中に、自己顕示欲の強い暴君のイメージができあがっていきました。

神殿の一番奥にはギリシア風の花が開いたような形のの柱があって、ここはアレキサンダー大王の所縁の神殿となっています。

この神殿に、長い時間が流れていることを感じます。

いよいよ夕暮れが迫り、ライトアップされました。
振り返れば大列柱室の巨大な柱の林が浮かび上がりました。



では、ルクソール宮殿のライトアップを楽しんでください。





塔門の前のラムセス2世の顔


カルナック神殿まで続いていたというスフィンクスの参道


こんな顔をしています。

今日は停泊中の船で宿泊です。

エジプトには神殿やお墓はあっても宮殿は残っていません。
このファラオたちがどんな暮らしをしていたのか、もはや謎ですが、お墓にこれほどまでの執念を燃やす人々ですから、その住まいはもっときらびやかだったに違いありません。

大氾濫を起こして、人々に災いと豊かさを同時にもたらしたナイル川。
その川とともに行きた古代のエジプト人たち。

古代人への憧れに、私の心はますます膨らんでいくのでした。

旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>パート2

2010-01-22 10:35:24 | 旅行
ー10.1.8~18 旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>ーパート2

<気球編>

今回の旅行は、関空出発が14時10分。
約14時間の旅。
あまり眠れなかったけど、ルクソールに直行して着いたのが現地時間の21時30分頃で、すぐにメルキュールホテルにチェックインして就寝できたので、疲れたという感じはありませんでした。
 
メルキュールホテルの客室

次の日は6時にロビーに集合して、出発です。


メルキュールホテルのロビーに飾ってあったラムセス2世の「カディシュの戦い」。
これがこれから行くあちこちの壁画に見られます。

気球会社のバスとボートで気球の場所へ。

気球は西岸広場から飛び立つようでした。
王家の谷やハトシェプスと女王の葬祭殿などの遺跡がある方です。


ボートには温かいお茶が用意されていました。
救命胴衣もあって、全員それを付けるように言われました。
なんだか、ますますわくわくしました。


救命胴衣(オレンジ色)をつけて、わくわくしながら西岸に渡る。

ナイルの西岸はしらじらと明け始めていました。
気球も2・3個飛んでいるのが見えました。


現場に着くと、私たちの乗る緑色のバルーンがバーナーで空気を温めて膨らませているところでした。


キャプテンが私たちに安全指導をします。
ゴンドラには20人くらいが乗り込みます。
みんなの顔が引き締まり、ランディングポジションの練習もしました。

あとでわかったことですが、これは、キャプテンのジョークで、緊張している私たちをからかっていたようです。
だって、スタートもランディングもスムーズで、なんの問題もなかったのですから。


あっ!太陽が顔を出しました!!

この日は風もなく、気温もちょうど良くて、30分ほどの空の旅は実に快適なものでした。
すーっとと空の高みに上がっていって、しばらく気球はじっとしていました。
朝日が気球を茜色に染めていきます。

 他の気球に続いて飛び立つ。

家の中から(天井がない!?)手を振る農家の人たちに手を振り返したり、緑豊かな農園を見下ろしたり、朝日に輝くナイルの優雅な流れをうっとりと眺めたり、これから見学する砂漠の中の遺跡を想像したり…。


私たちの気球の影です。


あっ!!メムノン巨像だ!!


ゴンドラの中。この人がこの船のキャプテンです。

ナイル川って、意外に狭い川です。
もっと大河を想像していました。
流れはとても緩やかです。
その両側に植物のある緑の土地があり、そのあとは広い砂漠、遠くには砂に覆われた山々が連なっています。
砂漠の中には細い道が何本も見えました。
とても不思議な景色でした。


朝日に輝くナイル川

気球は、緩やかに上がったり下がったりしながらやがてランディングポイントへ。
スタッフのトラックが手を振りながら追いかけてきます。
ランディングは実に静かで、大成功。
たくさんの人たちが手際よくバルーンの空気を抜いて、あっという間に畳んでしまいました。

ひとりひとり丁寧に下ろしてくれた後で、太鼓が鳴り始め、スタッフの人たちが歌いながら踊り始めました。
私たちの手を取って、輪になって踊ります。
私たちも楽しくなって、みんな踊りに加わりました。
キャプテンにお礼をいって、別れを告げました。


頼もしいキャプテン。
かっこいい人でした。


旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>パート1

2010-01-20 12:27:24 | 旅行
ー10.1.8~18 旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>ー

エジプト10日の旅。
ようやく帰ってきました。

とても盛りだくさんの旅でしたが、ナイルクルーズで船に3泊、カイロにも3連泊したお陰で、体調は良好です。
写真を整理しながら振り返ると、ルクソールに着いて次の日、わくわくしながら気球に乗ったことなんて、もう遠い日の出来事のようです。

<第1日目>
この旅は、トルコに行った時もお世話になった「こま通信」の小松さんの手造り旅の企画です。
私の高校からの同級生が6人とそのご主人2人が大阪から参加し、関東の方々は朝、羽田から関空まで飛んできてくださっていました。
小松さんも含め、総勢17人のツアーになりました。
14時10分発のエジプト航空の飛行機は、関空からルクソールまでの直行便です。

ルクソールには現地時間の夜9時過ぎに着きました。

 
ホテルの部屋からナイル川が見えました。

空港ではこれからカイロまでお世話になるガイドのモハメッド・ワッハブさんが出迎えてくれました。
 
小松さん(左)とガイドのモハメッド・ワッハブさん

<第2日目>


早朝、気球に乗ってルクソールのこれから見学する遺跡などを空から眺めました。
トルコのカッパドキアでも乗る予定でしたが、悪天候のため乗れずにいました。
乗るまではどきどきしたけど、いざ乗ってみるととても安定していて、まったく怖くなく、むしろとても快適な空の旅でした。



ルクソールのメムノン巨像の近くの駐車場でお弁当の昼ご飯。
そのあと、王家の谷で3つのお墓を巡りました。
ラムセス9世、ラムセス1世、ラムセス3世。
その他、新王国のファラオやその子供たちのたくさんのお墓がありました。
幸運なことにツタンカーメンのお墓も入れて、そこには彼のミイラもありました。


それから、ハトシェプスト女王の葬祭殿(1997年に襲撃事件があり、日本人にも犠牲者が出たところ)。

 
これがこれから3泊お世話になる船「ソネスタ・ムーンゴッデス号」。
チェックインした後しばし休憩、また元気を出して、ルクソール神殿に出かけ、見学と神秘的なライトアップを楽しみました。

 
夕暮れが迫るルクソール神殿

<第3日目・第4日目>
停泊中の船で1泊、次の朝は、カルナック神殿へ。

 
塔門に向かう私たちのグループ

昨日のお墓に眠っていた王たちの栄華を忍びながら、ツタンカーメンやラムセス2世の息づかいを感じました。
このように2日間みっちりと新王国時代の遺跡を回り、船はルクソールを出航、エスナ水門を通り、アスワンまでの船旅の2日間、プトレマイオスの作ったエドナのホルス神殿、コムオンボ神殿を巡りました。

 
エスナの水門
 
ホルス神殿へは馬車で行きました。

 
コムオンボ神殿

<第5日目>
アスワンに上陸し、切り出し損ねた巨大なオベリスクを見学。
 
この石切り場は全部が赤御影石でできていました。
アスワンは赤御影石の宝庫。石碑はもちろん、歩道も階段も赤御影石でできていました。

アスワンダム、アスワンハイダムを見学して、ロシアとエジプトの友情を示す美しいモニュメントも見学。
 
遠くからでもよく見えるアスワンダム竣工記念のモニュメント。

それから、飛行機でアブシンベルへ。
 
アスワンハイダムでできた巨大なナセル湖が続きます。その他は見える限りの砂漠。

 
セティ・アブシンベルホテルの内部

まず、セティ・アブシンベルホテルのレストランで昼食をとり、いざ、アブシンベル神殿へ。

いままでにも、新王国の遺跡にたくさんその名前を刻んでいたラムセス2世ですが、やっとその本来の姿を見られるので、とてもわくわくしました。

このアブシンベル神殿は、アスワンハイダムが作られたときに、水没する運命にあったものを、ユネスコの努力で、運べる大きさに切断され、この土地に移築されたのは有名な話です。
これがユネスコの世界遺産の考え方の源とも言われています。



この神殿を作ったのは新王国のラムセス2世。
隣国スーダンの侵略を防ぐため、国力を誇示するためにこの巨像を建造したそうです。
大神殿には、ラムセス2世が4体と最愛の王妃ネフェルタリや、彼の子供たちも誇らしげに立っていました。
小神殿にはネフェルタリが2体とそれを守るようにラムセス2世が4体立っています。

 
ラムセス2世の愛妃ネフェルタリを祀った小神殿

時間帯がよかったのか、わりとすいていて、神殿の中もゆっくり見ることができました。

一度ホテルに帰り、夕暮れ時に再びここ戻ってきます。
「音と光のショー」が行われるからです。
その夜一番お客さんの多い国の言葉で演じられるということで、なんと、この日はラッキーなことに、日本語で上演されました。

 
ライトアップされた大神殿

<第6日目>
次の朝、早起きしてまたまたアブシンベル神殿へ。
朝日を見るためです。
特に日本人観光客に人気のあるスポットだそうです。
 
朝日に照らされる大神殿

そのまま、空港へ行き、再びアスワンへ。
カイロ行きの飛行機の時間まで少し時間があるので、ボートに乗ってイシス神殿へ出かけました。
 
ボートに乗って島に渡ります。
このイシス神殿も水没するところを、この島に移された神殿だそうです。
保存状態がよく、いかにも女神の神殿らしい美しさでした。

そして、空路カイロへ。
旅の3分の2が終わろうとしています。
いよいよ、本命、クライマックスです。

まず、空港からバスでカイロ博物館へ。


いままで見てきた遺跡の復習の場となりました。
圧巻は、ツタンカーメンの財宝。
あの黄金のマスクも、黄金の棺も、華奢な装飾品や豪華な調度など、たくさんの遺物を見ることができました。

閉館は7時と書いてあるのに、警備の人たち(警官?)は「急げー」とせかせます。
とうとう6時20分には退出させられてしまいました。
こういうところは、悪い官僚主義の表れだと思いました。
ショップまで閉まってしまって、残念。
ガイドのワッハブさんが頑張ってくださって、図録だけはなんとか手に入りました。

ここでしか手に入らない日本語版の図録

夜の食事は自由でした。
日本から持ち込んだ食料を食べたり、それぞれが自分の体調に合わせた食事をとることができました。

<第7日目>


次の朝はいよいよお待ちかね、ギザのピラミッド。
渋滞をさけるため、7時半出発でした。
それでも、ピラミッドの周りは見学の人でいっぱい。
1日に7千人の観光客が訪れるそうです。
ピラミッドの中に入れるのは毎日300人限定ということでした。
 
このピラミッドからこの像が出てきたそうです。この人がピラミッドの主クフ王。高さ7.5センチの小さな像です。(ウィキペディアより転載しました)

このあと、太陽の船博物館、ラクダに乗る体験の後、カフラー王のピラミッドコンプレックス(スフィンクスと葬祭殿)を見学。
 
ラクダに乗る。
 
スフィンクスとピラミッド、いい写真だなあ!!

近くのレストランで昼食の後、メンフィス・プタハ神殿跡へ。
ここでは、足が壊れて横たわっているラムセス2世の巨像が出迎えてくれました。
 
このラムセスさんは、ちょっと惚れちゃうかっこよさです。

次に訪れたのはサッカラ。

ジョセル王の階段ピラミッド

まず、イムホテブ博物館を見学して、いよいよジョセル王の階段ピラミッドへ。
その前に、貴族の墓や、ティティ王のピラミッドも見学しました。

 
ホテルへ帰るバスの中で、お世話になったワッハブさんとお別れです。


夜は、チャイニーズレストランへ。
イスラム社会では金曜日が休息日ということで、木曜日はみんな遊びに繰り出すそうですが、ナイル川に浮かんだ船の中にあるこの「ナイル北京」では、私たちだけがお客さんでした。
味も、イマイチ。
どの国でも中華は美味しいと聞いていたけど、やはり宗教上で禁止されているブタを使えないのは致命的なのでしょうか?

<第8日目>
次の朝も早い。
この日は金曜日で、イスラム教の礼拝の日なので、礼拝が始まる前にイスラム教会を見学させてもらおうということです。
この日から、ガイドは日本人でカイロ在住の大政美奈子さんに変わりました。
雑誌るるぶにも載っているガイドさんでした。

 
大政さん

 
まず、エル・アズハル・モスク。
ここで大政さんが用意してくださった資料でエジプトの歴史とイスラム教のレクチャーを受けました。
私は、トルコに行っている分、友達よりはわかりがよかったかも…。
(ソレデモ カナリムズカシイ…)

そこから、5つくらいモスクを回りました。
いちいち靴を脱いだので、ひも靴の友達がばっちり覚えていました。

お昼は、にぎやかな商店街みたいなハン・ハーリのレストランで。

 
このお店で香水を買いました。時間がなかったから、「シャネルナンバー19」って言ったら、出来上がりがすぐに出てきました。

おみやげものをたくさん買い込んだ後、眠い体にむち打って、最後のモスク、イブン・トゥールーン・モスクへ。



世界的にも珍しい、上れるミナレットの上まで上って、カイロの街をゆっくり眺めました。

夜は、ホテルのレストランでゆっくりお食事。

<第9日目>
 
ホテルの部屋からナイル川を臨む
次の朝はゆっくり起きて、荷物を出して、既に日本へ帰る心でいっぱいでした。



でも、最後に残ったカイロにあるキリスト教社会を見学に行きました。
コプトと呼ばれる人たちが住んでいる地区です。
イスラム教徒がほとんどのエジプトですが、歴史の狭間でローマに支配されていた時代に、キリスト教が入ってきて、それがイスラム社会になっても深く根付いて、中世にはキリスト教会からの迫害があったけれど負けずに、今も人口の10パーセントくらいが信者で、頑張っているそうです。



夕方の出発まで少し間があるので、新市街ナセルシティーにあるショッピングセンター「シティスターズ」へ。
ここではシリア料理のケバブを食べて、とても満足しました。

さて、長いようで短い、充実したエジプト旅行でした。

ここまでお付き合い、ありがとうございました。
ページを変えて、写真を中心に、もう少しエジプトのお話をしようと思います。