ー10.1.8~18 旅倶楽部「こま通信」手造りの旅<ナイルクルーズ>ーパート9
<コプト地区>
最終日です。
今日で、カイロともお別れです。
でも、さらに私たちの見学は続きます。
水道橋に添ってバスは走り、コプト地区へ。
水道橋
「歴史」でも触れましたが、プトレマイオス朝が衰退した後に、ローマ帝国の属国になっていた時代がありました。
ローマ時代の塔
そのときに聖マルコがアレキサンドリアを訪れ、キリスト教を広ます。
紀元後60年くらい、とても早い時期に広まったことになります。
エル・ムアラッカ教会
コプトのクリスマスが1月7日なので、クリスマスの飾り付けがしてありました。
ノアの方舟をメージした天井
コプト教会の十字架
キリスト教を受け入れる土壌として、パレスチナで迫害を逃れるために幼いキリストを連れた聖家族が、エジプトに逃れてきたという伝説もあり、各地にその言い伝えが残っているそうです。
聖家族が隠れたといいう言い伝えが残る、聖セルギウス教会へ入る。
さらに遡って、モーセ所縁のユダヤ教会もありました
(ベ・エズラ・教会、暗くて写真がうまく撮れませんでした)。
<モーセ>
コーランにはモーセやキリストの話もたくさん出ているそうです。
モーセと言えば「出エジプト記」で有名です。
それによると、モーセはエジプトのヘブライ人の家に生まれましたが、ヘブライ人の増加を恐れたファラオが、新生児を殺害することを命じ、その命令を逃れるために、赤ちゃんだったモーセをナイル川に流されました。
そこへファラオの王女が通りがかって赤ちゃんのモーセを拾い、育てました。
成長したモーセは、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐げられているのを見て、エジプト人を殺害、アラビア半島に逃げました。
そこで、神の言葉を聞き、予言者としての活動を始めました。
神の言葉は、イスラエル人を約束の地カナンへ導くように、ということでした。
約束の地カナンは、地中海とヨルダン川・死海に囲まれた地域。
聖書で「乳と蜜の流れる場所」と呼ばれ、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地。
エジプトに戻ったモーセは、ファラオにイスラエル人のエジプト退去を願い出るが、拒否されました。
しかし、そのときにエジプトに10の災害が下り、イスラエル人はようやくエジプトから脱出することができました。
でも、そのときにエジプトの聖牛アピス像(ミイラ?)を持ち出したので、ファラオが起こって、軍を差し向けました。
目の前の海が割れ、イスラエル人は渡ることができたが、追いかけてきたエジプト軍は、閉じた海で溺れました。
このファラオはラムセス2世ということになっていますが、ラムセス2世の息子のメルエンプタハが溺死したのではないかと言われ、この時の王はメルエンプタハという説もあります。
シナイ山でモーセは神から「十戒」を受けました。
無事に約束の地カナンにたどり着いたが、民が神とモーセに不平を言ったため、神はさらに40年の放浪をイスラエル人に課したそうです。
モーセもまた、神の命令に従わなかったので、カナンに入ることを許されず、山の上からカナンを見ながら世を去ったそうです。
没年120歳だそうです。
コーランではモーセは過去の予言者、偉大な予言者として尊敬されているそうです。
ノア、アブラハム、モーセ、イエス、ムハマンドがイスラム教の5代予言者ということです。
だけど、モーセについていったイスラエルの人々は、神の言いつけに従わず、偶像崇拝を認めたところが、神とモーセの教えに逆らっているというユダヤ教の批判になっているようです。
ユダヤ教とイスラム教、ここまで近いのになあ、という気がします。
この溝が深いのでしょうね。
<旅が終わって>
私がこの旅の途中からずうっと不思議に感じていたのは、古代エジプト人はどこへ行ったのだろう、ということでした。
歴史を調べて、エジプトは、長い間他民族の支配を受けてきたことがわかりました。
古代エジプト王朝がギリシャ人のプトレマイオス王朝に変わっても、彼らはエジプトの古代の神と同化しようと、涙ぐましい努力をして、エジプト人の尊敬を得ようとししました。
でも、その後は支配者が、ローマ帝国であったり、アラブ人のイスラム帝国であったり、奴隷軍人だった時もありました。
トルコのオスマン帝国であったり、イギリスであったり…。
彼らはエジプトの豊かな農産物を徴収することだけを考えた支配者でした。
その間に、エジプト人本来の言葉、宗教、文化をなくしてしまいました。
だけど、ピラミッドを造った人たちの技術や智恵が失われたわけではありませんでした。
いろんな技術者として、その時々の支配者の母国に連れて行かれて、そこからさらに素晴らしい美術品や造形物として発展していったということは想像に難くありません。
その痕跡は、今もエジプトの町のそこここに、有形無形のものとして残されていました。
モスクの建築や装飾に生かされる工芸技術、タイルなどの焼き物など、トルコへと受け継がれたもの、ガラス細工などベネチアングラスのようにヨーロッパで花開いたもの、いろんな原型のようなものが残されていました。
イスラムは偶像崇拝を禁止したせいで、字体が豊かに表現されて、アラブ文字が日本の書道のように、芸術として存在していることに驚きました。
失われた古代文字の解読に必要だったロゼッタストーンの解明に、コプト文字がヒントになったということは、すごいことだと思いました。
古代エジプト人を理解するヒントがこういう形で残っていたなんて!!
どんなサスペンスよりもスリリングだと思いました。
エジプトに足を踏み入れたときには、気候、風土、風景が全く違う。
文化、文明、歴史、民族、言語、何もかも日本とは違って、とらえどころのない、私には理解不可能な異文化のように思えました。
でも、この旅を終えて、人々は何千年も前から、この地で営々と暮らしを営んできたということがよくわかりました。
その時代時代に姿を変え、言語を変えても、エジプト人はエジプト人らしくナイルとともに生きてきたんだ、ということが実感できました。
ナイル川は、思っていたより細かったけれど、とても豊かで、砂漠を流れている川なのに水色で、すごくきれいな川でした。
食べ物も、野菜が豊富で本当に美味しかったです。
砂漠から上り、砂漠へと沈む太陽は、古代の人と同じ、神を感じる存在でとても感動しました。
そして、何より、ピラミッドはシンプルで、大きくて、美しい。
人類の英知の象徴じゃないかなあ!!
最高!!でした。
エジプトは今は貧しいかもしれない。
砂漠の暮らしは大変かもしれない。
でも、明るく素朴な人々が生きる国、可能性もいっぱい内在した国だと思いました。
エジプトの素晴らしい思い出に、もう少し浸っていたいです。
長々とした旅行記に付き合ってくださった読者の皆様、ありがとうございました。
最後に訪れた新市街にある大規模なショッピングセンター
ショッピングセンターの内部。クリスマスの飾り付け。
ショッピングセンターで食べた昼食。ケバブが美味しかったです。
<コプト地区>
最終日です。
今日で、カイロともお別れです。
でも、さらに私たちの見学は続きます。
水道橋に添ってバスは走り、コプト地区へ。
水道橋
「歴史」でも触れましたが、プトレマイオス朝が衰退した後に、ローマ帝国の属国になっていた時代がありました。
ローマ時代の塔
そのときに聖マルコがアレキサンドリアを訪れ、キリスト教を広ます。
紀元後60年くらい、とても早い時期に広まったことになります。
エル・ムアラッカ教会
コプトのクリスマスが1月7日なので、クリスマスの飾り付けがしてありました。
ノアの方舟をメージした天井
コプト教会の十字架
キリスト教を受け入れる土壌として、パレスチナで迫害を逃れるために幼いキリストを連れた聖家族が、エジプトに逃れてきたという伝説もあり、各地にその言い伝えが残っているそうです。
聖家族が隠れたといいう言い伝えが残る、聖セルギウス教会へ入る。
さらに遡って、モーセ所縁のユダヤ教会もありました
(ベ・エズラ・教会、暗くて写真がうまく撮れませんでした)。
<モーセ>
コーランにはモーセやキリストの話もたくさん出ているそうです。
モーセと言えば「出エジプト記」で有名です。
それによると、モーセはエジプトのヘブライ人の家に生まれましたが、ヘブライ人の増加を恐れたファラオが、新生児を殺害することを命じ、その命令を逃れるために、赤ちゃんだったモーセをナイル川に流されました。
そこへファラオの王女が通りがかって赤ちゃんのモーセを拾い、育てました。
成長したモーセは、同胞のイスラエル人がエジプト人に虐げられているのを見て、エジプト人を殺害、アラビア半島に逃げました。
そこで、神の言葉を聞き、予言者としての活動を始めました。
神の言葉は、イスラエル人を約束の地カナンへ導くように、ということでした。
約束の地カナンは、地中海とヨルダン川・死海に囲まれた地域。
聖書で「乳と蜜の流れる場所」と呼ばれ、神がアブラハムの子孫に与えると約束した土地。
エジプトに戻ったモーセは、ファラオにイスラエル人のエジプト退去を願い出るが、拒否されました。
しかし、そのときにエジプトに10の災害が下り、イスラエル人はようやくエジプトから脱出することができました。
でも、そのときにエジプトの聖牛アピス像(ミイラ?)を持ち出したので、ファラオが起こって、軍を差し向けました。
目の前の海が割れ、イスラエル人は渡ることができたが、追いかけてきたエジプト軍は、閉じた海で溺れました。
このファラオはラムセス2世ということになっていますが、ラムセス2世の息子のメルエンプタハが溺死したのではないかと言われ、この時の王はメルエンプタハという説もあります。
シナイ山でモーセは神から「十戒」を受けました。
無事に約束の地カナンにたどり着いたが、民が神とモーセに不平を言ったため、神はさらに40年の放浪をイスラエル人に課したそうです。
モーセもまた、神の命令に従わなかったので、カナンに入ることを許されず、山の上からカナンを見ながら世を去ったそうです。
没年120歳だそうです。
コーランではモーセは過去の予言者、偉大な予言者として尊敬されているそうです。
ノア、アブラハム、モーセ、イエス、ムハマンドがイスラム教の5代予言者ということです。
だけど、モーセについていったイスラエルの人々は、神の言いつけに従わず、偶像崇拝を認めたところが、神とモーセの教えに逆らっているというユダヤ教の批判になっているようです。
ユダヤ教とイスラム教、ここまで近いのになあ、という気がします。
この溝が深いのでしょうね。
<旅が終わって>
私がこの旅の途中からずうっと不思議に感じていたのは、古代エジプト人はどこへ行ったのだろう、ということでした。
歴史を調べて、エジプトは、長い間他民族の支配を受けてきたことがわかりました。
古代エジプト王朝がギリシャ人のプトレマイオス王朝に変わっても、彼らはエジプトの古代の神と同化しようと、涙ぐましい努力をして、エジプト人の尊敬を得ようとししました。
でも、その後は支配者が、ローマ帝国であったり、アラブ人のイスラム帝国であったり、奴隷軍人だった時もありました。
トルコのオスマン帝国であったり、イギリスであったり…。
彼らはエジプトの豊かな農産物を徴収することだけを考えた支配者でした。
その間に、エジプト人本来の言葉、宗教、文化をなくしてしまいました。
だけど、ピラミッドを造った人たちの技術や智恵が失われたわけではありませんでした。
いろんな技術者として、その時々の支配者の母国に連れて行かれて、そこからさらに素晴らしい美術品や造形物として発展していったということは想像に難くありません。
その痕跡は、今もエジプトの町のそこここに、有形無形のものとして残されていました。
モスクの建築や装飾に生かされる工芸技術、タイルなどの焼き物など、トルコへと受け継がれたもの、ガラス細工などベネチアングラスのようにヨーロッパで花開いたもの、いろんな原型のようなものが残されていました。
イスラムは偶像崇拝を禁止したせいで、字体が豊かに表現されて、アラブ文字が日本の書道のように、芸術として存在していることに驚きました。
失われた古代文字の解読に必要だったロゼッタストーンの解明に、コプト文字がヒントになったということは、すごいことだと思いました。
古代エジプト人を理解するヒントがこういう形で残っていたなんて!!
どんなサスペンスよりもスリリングだと思いました。
エジプトに足を踏み入れたときには、気候、風土、風景が全く違う。
文化、文明、歴史、民族、言語、何もかも日本とは違って、とらえどころのない、私には理解不可能な異文化のように思えました。
でも、この旅を終えて、人々は何千年も前から、この地で営々と暮らしを営んできたということがよくわかりました。
その時代時代に姿を変え、言語を変えても、エジプト人はエジプト人らしくナイルとともに生きてきたんだ、ということが実感できました。
ナイル川は、思っていたより細かったけれど、とても豊かで、砂漠を流れている川なのに水色で、すごくきれいな川でした。
食べ物も、野菜が豊富で本当に美味しかったです。
砂漠から上り、砂漠へと沈む太陽は、古代の人と同じ、神を感じる存在でとても感動しました。
そして、何より、ピラミッドはシンプルで、大きくて、美しい。
人類の英知の象徴じゃないかなあ!!
最高!!でした。
エジプトは今は貧しいかもしれない。
砂漠の暮らしは大変かもしれない。
でも、明るく素朴な人々が生きる国、可能性もいっぱい内在した国だと思いました。
エジプトの素晴らしい思い出に、もう少し浸っていたいです。
長々とした旅行記に付き合ってくださった読者の皆様、ありがとうございました。
最後に訪れた新市街にある大規模なショッピングセンター
ショッピングセンターの内部。クリスマスの飾り付け。
ショッピングセンターで食べた昼食。ケバブが美味しかったです。
(1冊にまとめてもらいたいわ!)
いくら読んでも イスラム教 ユダヤ教・・・と理解できていませんが 色んな事を教えていただけて 勉強になりました。
私も エジプト 行ってみたいです・・・
長いことかかりましたが、書いてよかったです。
世界は広いし、知らないことだらけなので、本当に面白いわ。