マダムようの映画日記

毎日せっせと映画を見ているので、日記形式で記録していきたいと思います。ネタバレありです。コメントは事前承認が必要です。

ジョン・レノン・ミュージアムへ

2009-09-28 13:28:38 | 展覧会
ージョン・レノン・ミュージアムへー

ジョン・レノンファンの夫の念願だった、ジョン・レノンミュージアムを見学してきました。公式ホームページ

2000年にジョンの生誕60年を記念して、妻のオノヨーコさんの許諾を受けて作られたミュージアムです。

ジョンの生涯を紹介する短いフィルムを見た後、年代順に充実した展示があり、最後の真っ白なファイナルルームまで常設展示がありました。

12月28日までは「ジョンとヨーコが創りだした〝LOVE〟の世界」という特別展があり、カップルで行くと割引サービスがありました。

私にもなかなか興味深い内容でしたが、夫はさらに熱心で、なんと、ショップやラウンジも含めて4時間近くも遊んでいました。

お習字の展覧会

2008-12-12 15:47:31 | 展覧会
今秋の出来事です。

11月初めに1週間、天満橋の「エル大阪」で、私が所属している「園村書道院」の書作展があり、私も出品させていただきました。

この展覧会のために、この夏、高野山普賢院で行われた練成会に参加して、作品を仕上げました。

この大きな作品は「聯落ち」といって、53cm×228cmあります。
字体は楷書。
唐詩選におさめられてある李白の詩を書きました。



「天門中断楚江開 碧水東流至北廻 両岸青山相対出 孤帆一片日辺来」
意味ー天門山は真ん中から二つに断ち切られ、その間に長江が開けている。みどりの水は東に流れてきたが、ここで北に流れを変える。両岸には青い山が向き合って突きでており、その間を1点の白帆が、遥か彼方西の方、沈む太陽の方から流れ下ってきた。

立ったまま、腰を屈めて書きます。
1枚書くのに、30分以上かかります。
特に楷書は、すごく集中しないと書けないので、1枚書くごとに全エネルギーが出てしまう感じ。
また、エネルギーを貯めなおしてもう1枚、という感じで仕上げていきます。
最初のうちは、内股が筋肉痛で辛いです。
でも、練成に行くとみなさんすごい集中力で、2泊3日、ほとんど寝ないで書いておられるので、私も頑張らなくちゃと思います。
私は、必ず寝ますけど。
根性なしですから。



小作品は「飛羽觴而酔月」。半紙の大きさです。
中国の詩の一節ですが、おめでたい詩のようです。
羽觴とはサカズキのことで、「サカズキを飛ばして月に酔う」という意味です。
「(たいてい毎晩酔っぱらっている)あなたのことでしょう」とよく言われました。
私は、還暦のパーティの準備で頭がいっぱいだったので、この言葉がふさわしいと思ったのですが。

今25歳の次男と一緒に習い始めたので、長くお習字を続けている勘定になりますが、生来怠け者の生徒で、先生には迷惑ばかりかけています。
どちらかというと私は、宴会係です。
真面目な主婦の生徒さんが多いので、すこしは役に立っているのではないかな?
つい先日も、アンコウ鍋を囲んで忘年会をやりました。

展覧会に足を運んでくださったみなさま、遅くなりましたが、ありがとうございました。

ジブリの森美術館

2008-07-16 12:39:38 | 展覧会
映画大好き友達が、吉祥寺で集合。
駅前のイタリアレストランでランチしながらたっぷりおしゃべりした後、駅前の「いせや」へ。
「いせや」はフォークシンガーの故・高田渡氏がこよなく愛したお店。
噂には聞いていたけど、一度行ってみたかったんです。

 吉祥寺駅前の「いせや」

1時半で、もう立ち飲みはお客さんで一杯。
なかなか雰囲気のある、店構えでした。


井の頭公園近くの「いせや」へ。
ここでは、店の前で炭火で焼き鳥を焼いてくれました。
1串80円。
安い!!
つくねとひなどりを焼いてもらって、それをかじりながら公園のなかを散策。
そこで、子供が学校から帰るという若いお母さんたちとお別れ。
残ったメンバーは公園を抜けて、ジブリの森美術館へ。

お腹ごなしにはちょうどいい距離。
まずトトロがお出迎えしてくれていました。



 これは閉館後にとった写真です。

館内は、平日というのにすごい人。
外国からの観光客もたくさん来ていました。
外国でも人気があるんですね。

ここで素朴な疑問、「ジブリって、何の意味?」
ウィキペディアによると「「スタジオジブリ」の名称は、サハラ砂漠に吹く熱風(ghibli)に由来しており、第二次世界大戦中のイタリアの飛行機の名前でもある。宮崎駿の思い込みから「ジブリ」となったが、「ギブリ」の方が原語に近い発音である」だそうです。


この建物全体が迷路のようになっていて、あちこち移動するだけでも楽しい。
パンフレットにも「迷子になろう、いっしょに」と書いてありました。

企画展示は「小さなルーブル展」映画は「水グモもんもん」。


大人も童心に戻れるいい美術館でした。

 この地図を参考にして、帰りも吉祥寺駅まで歩きました。

 夕暮れの「いせや」、なにやら名残惜しくて。

特別展覧会 狩野永徳

2007-11-05 09:38:40 | 展覧会
 唐獅子図屏風

ー特別展覧会 狩野永徳ー
2007年10月16日(火)~11月18日(日)
京都国立博物館[東山七条] KYOTO NATIONAL MUSEUM
〒605-0931 京都市東山区茶屋町527
【見どころ】
 絵画の黄金期・桃山時代の覇者として日本美術史に輝かしい足跡を残した狩野永徳(1543-1590)は、信長・秀吉ら、時の権力者に重用された絵師です。彼の創造した豪壮華麗な金碧障屏画は、戦国武将の覇気を余すところなく体現するものとして、安土城、大坂城、聚楽第{じゅらくだい}をはじめ数々の館を彩りました。しかし、天下一と評された彼の作品の多くは戦火の中で灰燼に帰し、これまで代表作を一カ所に集めた展覧会は開かれていません。
 本展は史上初の大回顧展として旧御物3件、国宝5件を含む国内外の名品をはじめ、新発見、初公開の作品を網羅し、真の天才とうたわれた永徳芸術の神髄に迫ります。さらに父・松栄、弟・宗秀らの代表作も加え、桃山時代の狩野派の全貌を紹介します。

【狩野永徳について】
 狩野永徳は天文12年(1543)、後に狩野派の棟梁となる松栄直信の長男として山城国(京都)に生まれました。はじめ、源四郎と称し、諱{いみな}は州信{くにのぶ}、重信など諸説あります。永徳は法号。天下画工の長と称えられた偉大な祖父元信の指導のもと、幼くして才能を開花させ、聚光院{じゅこういん}、安土城、大坂城、聚楽第{じゅらくだい}、御所など数々の寺社仏閣・公武の邸宅に筆を揮い、他の追随を許さない、圧倒的な才能で画壇の頂点に君臨しました。豪壮華麗、絢爛豪華なその画風は、まるで鶴が舞い、蛇がのたうつような激しい勢いを持ち、後世の画伝書には「怪々奇々{かいかいきき}」(『本朝画史{ほんちょうがし}』狩野永納著)と評され、その活躍ぶりはまさに怪物絵師そのものでした。対象物を近接拡大して描くダイナミックな“永徳スタイル”は時代を席巻し、天下人はもとより寺社仏閣・有力大名からひっきりなしの作画要請を受け、一説には過労のあまり若死にしたとも考えられています。事実、永徳自筆の書簡には、あまりに膨大な量の仕事をこなさねばならず、とても期日には間に合いそうもないので制作延期を願いたいという文面が残されており、その繁忙ぶりが伺われますし、没する直前まで東福寺法堂の天井画(蟠龍図{ばんりゅうず})を制作していたことが知られています。日本美術史上、最も爛熟した絵画の黄金期桃山時代に生を受け「時代を表現するために生まれ、時代は彼のために用意された」とまで評された永徳は、その卓越した才能ゆえに命を縮めてしまったのかもしれません。天正18年(1590)9月14日没。享年48歳。法名は実相院日竟法院永徳重信大居士。その遺骸は寺之内の妙覚寺(京都市上京区)に葬られました。
(特別展覧会 狩野永徳HPより)

【感想】
私はたぶん、絵画にはあまり興味のない方です。
一番好きな画家は葛飾北斎。
展覧会だってあまり数多く行っているわけでもなく、いままでで一番感動した展覧会は「フェルメール」。

こんな私ですが、今回、最初の展示、国宝「花鳥図襖」で、その筆のタッチにやられてしまいました。
肉筆のすごさ。筆致の強さ。緊張感溢れる線で描かれたその絵。
鳥肌が立ちました。

あとの鑑賞は、ずっとその筆のタッチばかりを見ていました。
お父さんの松栄の絵でも、弟の絵でも見られない力強い筆の跡。
創始者であるおじいさんの元信の洗練されたタッチとも違う。
すごいエネルギーに溢れている気がしました。

 「檜図屏風」

この「檜図屏風」もすごいけど、伝がついているけど「老松桜図屏風」もすごかった。
思わず感動で涙が出そうになって、必死でこらえました。
これは、絶対永徳が描いた!!と確信したのですが、どうでしょうか?

狩野派は永徳亡き後も、江戸幕府の御用絵師集団として隆盛を得ていくわけですが、永徳はそういう一族の流れとは別の、芸術家としての魂との葛藤で、数々の名画を書き上げたのではないかという思いが心を満たしました。
時の権力者から、豪華絢爛の大作ばかり数多くの依頼を受け、48歳という若さで過労死したのではないかと囁かれている永徳。
でも、その晩年の作品は「奇々怪々」とも言われているようですが、私は絵が叫んでいるように思いました。
この大木にも納まりきれない永徳の生命エネルギー。
私の頭の中は、永徳という偉大な芸術家のことでいっぱいになってしまいました。

こういう鑑賞の仕方がいいか悪いかわからないけど、墨筆の力強さに魂を揺すぶられるような思いをしたのは初めての経験でした。

松井良浩写真展

2007-04-17 11:51:03 | 展覧会
世界遺産を行くー大峯祈りの道ー
昔から知り合い、奈良で活躍している写真家の松井良浩さんの写真展のご案内をいただいたので、行ってきました。
大阪・本町の富士フィルムフォトサロンにて。am10:00~pm7:00まで、但し、最終日は午後3時まで。
19日(木)まで。

詳しいことは、こちらで。

園村書道院展

2006-10-25 10:02:16 | 展覧会
映画や美味しい物ばかりでもないよーというところを。

末っ子が幼稚園のときに一緒に習い始めたお習字です。
続けることは大切だなあ、と思う今日この頃。
2年に一度の書作展に、始めて大作を出品しました。
8月の終わりに高野山で2泊3日で仕上げました。
もっといい出来だと思ったけど…
でも、まあよく頑張ったからなあ。
ますます精進したいと思います、けど……

上の写真は図録から。
聯落長尺作品と細字の小作品を出品しました。

会場風景
左から3っ目が私の作品です。


会場に足を運んでくださった方々、ありがとうございました。

旧朝香邸のアール・デコ

2006-07-14 14:31:49 | 展覧会
東京見物をしている途中で立ち寄りました。
東京都庭園美術館の中にある旧皇族の朝香家の邸宅の内部を公開していました。
朝香家も知らなかった私ですが、アール・デコ風のモダンな邸宅はとても気に入りました。
特に、ルネ・ラリックのガラス工芸は素晴らしかったです。

浴室まで公開してあったので、すごく生活が感じられて、こういう公開も珍しいと思いました。
居間やウィンターガーデンでは、朝香家の人々がくつろいで談笑されていた頃のことを想いました。
大都会東京の真ん中にあって、その庭園だけは時間が止まっているようでした。

藤田嗣治展~生誕120年パリを魅了した異邦人~

2006-06-17 16:48:48 | 展覧会
7月23日まで 京都国立近代美術館

 藤田嗣治(レオナール・フジタ)は、東京美術学校を卒業後、フランスに渡り、モディリアニらとともにエコール・ド・パリの代表的画家として活躍しました。とりわけ、裸婦に代表される“乳白色の肌”の美しさは、多くの人々の心をとらえてきました。その後中南米を旅行して日本に帰国しますが、第二次大戦後はフランスに戻り、やがて帰化して、再び日本の土を踏むことはありませんでした。

 これまで何度か開催されてきた藤田嗣治展は、その画業の全体像を示すには、必ずしも十分とはいえませんでした。また、その波乱に満ちた生涯ゆえに、数々の逸話による伝説としての藤田像が、画家としての評価をおいて、一人歩きしてしまった感もあります。

 この展覧会は、パリ時代から晩年にいたるまでの代表作約100点を、フランスやベルギーを加えた国内外から集めて展示します。日本初公開作品約20点を含めた作品を通して、あくまで一人の芸術家としての藤田嗣治の全貌を探り、伝説ではない、あらたな藤田像を見出そうとするものです。
(HPより)

個人の作品をこんなに集めた展覧会も珍しいのではないでしょうか。
すごく充実していました。
時代ごとに変わる画風。
でも、人物の目の力強さは共通していました。
動物を扱った作品の面白さ。
裸婦も西洋人が描いたのとは、どこか違っていました。
油絵も、さらっとしていて水彩画のようだし、バックに金箔を貼ったりして、やはり、日本の手法にこだわっているように見えました。
自画像とともにある猫ちゃんのかわいらしさ。
裸婦の足下にいる犬の愛らしさ。

圧巻だったのは戦争を描いた絵でした。
兵士の群像を描いた「アッツ島玉砕」。
一般の人たちの嘆きを描いた「サイパン島同胞臣節を全うす」。
これが、戦後批判されたのは不思議に思いました。
反戦の思いがあふれているように感じました。
ただ、戦争の絵だけ画風が違っていて、こういう絵を描きたいんだという野心も感じました。
藤田という画家はとてもエネルギーに溢れた人だったのだと思いました。

戦後、逃れるようにしてフランスに渡り、カソリックの洗礼を受け、日本国籍も捨てたそうです。
アメリカ経由でパリへ発つ時の写真も展示してありましたが、すごくおしゃれでかっこいいと思いました。

お部屋や、小物にもこだわりを示して、絵皿やボトルにも彩色していました。
壁一面に子供の絵も描いていたようです。
81歳で亡くなっていますが、最後まで、子供の心を忘れない人だったんだろうな、と思いました。