マダムようの映画日記

毎日せっせと映画を見ているので、日記形式で記録していきたいと思います。ネタバレありです。コメントは事前承認が必要です。

閑話休題《エジプトの歴史》

2010-02-15 11:10:34 | 旅行
ようやく、エジプトの歴史を調べ終わりました。
全くと言っていいほど、知識がありませんでしたので、たいしたことをしていないのに、手間取ってしまいました。

ウィキペディアを駆使して調べたものに、ガイドの大政美奈子さんからの知識をお借りしたもので、私が理解した範囲の薄っぺらなものですが、よかったらどうぞお読みください。
興味のない方は、スルーしてください。

<ローマ支配の時代>

紀元前30年に、ギリシャ系のプトレマイオス王朝がローマによって滅ぼされてから、エジプトはローマ帝国の属国となっていました。
紀元前60年頃、マルコによってキリスト教が伝えられ、コプトと呼ばれるエジプト独特のキリスト教会が生まれます。
それ以来、数々の迫害に耐え、イスラム教徒が国教であり、国民のほとんどを占める今も、5%ではあるが残っています。

ローマ帝国の分裂後は東ローマ帝国に属し、豊かな農作物で東ローマ帝国を支えたが、639年にイスラム教が支配するウマイヤ朝に征服されました。
この、ウマイヤ朝の説明の前に、イスラム教の開祖・ムハマンドについて述べます。
エジプトでは、このとき以来、アラビア語を使い、イスラム教徒の国となったからです。

<ムハマンド>

イスラム教は、570年ごろにアラビア半島西中部メッカで生まれたムハマンドによって説かれた宗教です。
モーセ、イエス・キリストに続く最後にして最高の予言者とされています。
コーランには、モーセやキリストについての記述もたくさん見られるそうです。

ムハマンドは若い時から、商人として活躍していました。
25歳の頃、裕福な女性の商人ハディージャに認められ、事業を託されます。
その後、15歳年上で寡婦であったハディージャと結婚し、2男4女をもうけますが、男子は2人とも成人せずに亡くなってしまいました。

610年、悩みを抱いて、瞑想に耽っていたムハマンドはそこで神の声を聞いたと言います。
神は「読め」と言ったそうです。
その神の言葉を書いたものがコーラン(クルアーン)で、「読まれるもの」という意味だそうです。

コーランは神がムハマンドを通じてアラブ人にアラブ語で伝えた神の言葉そのものであるとされ、他の国の言葉に翻訳することが禁止されているそうです。
だから、イスラム教徒たちはどの国の人でも、一緒にコーランを唱えることができるそうです。

ガイドの大政さん自身もイスラム教徒だそうですが、コーランの内容の一部を紹介してくださり、現代になってようやく解明されたような科学的なことも書かれているのが不思議だ、とおっしゃっていました。
また、ムハマンドは詩人だという人もあり、文章もとても美しいのだそうです。

ムハマンドは、身近な人に神の言葉を伝え、また、自分の住んでいたメッカで布教活動を始めますが、迫害され、メディーナに逃れました。
そこでメッカからの軍隊と闘い、自らも負傷しています。
このころすでに、ムスリム(イスラム教徒)のカリフ(首長)として政治的な地位があったようです。

今回の旅行で、イスラム教が政教一体の国家としての性質が、このムハマンドの時代から形成されていたことがわかりました。
私は宗教家と言うと、つい、仏陀やキリストのように、苦行する姿か、静かに人々に教えを説く姿しか思い浮かびませんでした。
ムハマンドは闘う宗教家だったのです。
この認識に大きな誤りがあったので、私の頭の中でイスラム教がずっと謎だったのです。

ムハマンドは、ハディージャ亡き後、数人と結婚しますが、ほとんどが寡婦でした。
例外は、初代カリフとなるアブー・バルクの娘、アイーシャが9歳で嫁ぎ、最愛の妻と言われています。

<ウマイヤ朝>

ムハマンド亡き後、ムハマンドの側近たちは、血縁をたどってカリフを継承していきます。
第1代のカリフはアブー・バルク。
この人はムハマンドの友人(遠い親戚)で、ムハマンドの近親者を除くと一番最初に信者になった人。
娘のアイーシャが9歳でムハマンドに嫁いだので、義父にも当たります。
ムハマンド亡き後選挙で初代正統カリフに選ばれています。

アブー・バルクがカリフになって2年目で病死すると、2代目に選ばれたのがウマルです。
この人は、メッカでムハマンドを迫害している側だったのですが、自分の妹が唱えるコーランの美しさに魅せられて入信したそうです。
武勇の人で、メッカとの戦いすべてに参加し、功績を上げています。
また、夫に先立たれた娘がムハマンドに嫁いでいます。
この人の時代にシリア・イラク・エジプトなどに遠征軍を送り、アラブの大征服を指導しています。

征服しても、その土地の住民は残し、「イスラム法」や「イスラム暦」による支配とともに、役所や軍隊を置いて税を取り立てるという中央集権的な制度が確立していったようです。

ウマルは暗殺され、次にカリフになったのがウマーン。
この人も、メッカ時代からの信者で、ムハマンドの娘を嫁にし、その嫁が亡くなった後も、またムハマンドの娘を嫁に迎えています。
この人の時代に、サーサーン朝ペルシアを滅ぼしてイスラム帝国の領土をさらに拡大させています。
しかし、自分の出身のウマイヤ家の人を重用するなど不公平な政治を行ったとして、暗殺されます。

そして、正統カリフを争うことになったのが、ムハマンドの娘ファーテイマと結婚したアリーとウマイア家のムアーウィアです。
この両者が妥協し、アリーが第4代正統カリフとなるのですが、この妥協を潔しとはしないハワーリジュ派によってアリーは暗殺。
ムアーウィアも狙われますが、辛くも難を逃れ、自分の本拠地であるシリアのダマスカスを首都に定めてウマイヤ朝を開きました。

簡単にいうと、アリーが今のシーア派、ムアーウィアがスンナ派です。

ムアーウィアの後のヤズィードが、アリーの息子のフセインが反乱を起こすとの情報を得て、3000の兵を送り込み、先制攻撃に出たカルバラーの戦いで勝利します。
ただこのとき、フセインの勢力は72人で、ほぼ虐殺に等しかったことから、今もシーア派とスンニ派の感情的なしこりとして残っているそうです。

ウマイヤ朝は5代カリフ・アブドゥルマリクの時代(700年前後)に全盛期を迎え、東はパキスタン、西はモロッコまで勢力を拡大しました。
アラビア語を公用語にし、アラビア貨幣を普及させました。
イベリア半島に上陸し、ピレーネ山脈を超えたが、フランク王国と激しく闘い、結果破れてピレーネ山脈の南側まで戻りました。
この頃の地中海は、イスラムの海となったのです。

<アッバース朝>

しかし、ウマイヤ家が独裁する政権に不満が生まれ、ムハマンドの叔父アッバースを祖先とするアッバース一族が、不満分子を巻き込んでアッバース革命を起こしました。
アブー・アル=アッバースが初代カリフとなり、第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードのとき、全盛を迎えます。
このころのアッバース朝の首都はバグタードで、産業革命以前では最大の都市でだったということです。

9世紀後半になると、多くの地方政権が自立し、カリフの権限により緩やかに統合される時代となっていきました。
10世紀に、北アフリカにファティーマ朝が起こり、イベリア半島には後ウマイヤ朝が起こり、3人のカリフが存在することになってしまいました。
イスラム世界の政治統合は崩れ、地方の軍事政権が互いに争う戦乱の世となりました。

このことが、遊牧民系奴隷軍人マムルークを用いて、武力で地方を平定することとなり、1055年、セルジューク朝がバグダッドを占領し、カリフからスルタンの称号を許されて、イラン・イラクの支配権を握りました。

<トゥールーン朝>

エジプトでも、868年にアッバース朝から派遣されたマルムーク(奴隷軍人)のイブン・トゥルーンが総督代理に就任し、870年にはアレクサンドリアの支配権も認められて全エジプトを統治下に置きました。
イブン・トゥルーン・モスクを建設し、エジプトの独立主権を握った。

しかし、建設費を使いすぎたことと、後継者争いから、アッバス朝の介入を受け、トゥールーン長は滅び、ふたたびアッバース朝の支配を受けました。

<ファティーマ朝>

アッバス朝の衰えとともに、エジプトを治めたファーティマ朝のファーテイマは、ムハマンドの娘ファーティマに由来している。
ファーティマはアリーと結婚し、ハサンとフセインという息子を儲けた。
アリーが第4代正統カリフとなったのはファティーマの死後であった。

アリーの後、シーア派とスンニ派に分かれたことは前述した通りですが、シーア派多数のイマーム派第6代イスマール(シーア派の首長の呼び名)・ジァアファル・サーディクが亡くなってから(765年)、その長子イスマーイールの支持者が形成したグループがさらにイスマーイール派と呼ばれる。
イマーム派はこれと区別するためこれ以降12イマール派と呼ばれる。
今も、シーア派では最大の宗派だそうです。

10世紀の始め、ファティーマ朝の始祖ウバイドゥッラーは、自らがイスマーイールの子孫にして、隠れイスマール及び救世主(マフディー)だと宣言して、活動を先鋭化させました。
イスマール派の迫害の厳しいシリアを逃れて北アフリカで活動していた教宣員のアブ・アブドゥッラーはウバイドゥッラーを北アフリカに迎え、チュニジアでファティーマ朝が建国されました。

ファティーマ朝はしだいに勢力を拡大し、ほとんど抵抗されることもなくエジプトを支配下に置き、新しい首都カーヒラ(勝利の都)が今のカイロとなりました。

エジプトの征服に当たり、摩擦をさけるためスンニ派との融和もはかる一方、アズハル・モスクにイスマイール派の最高教育機関のアズハル学院が開講され、ここの卒業生たちは全イスラム世界に広まって、イスマーイール派を布教しました。
現在、シリア・イラン・パキスタン・インドや、アフガニスタン・タジキスタン・中国国境山岳地帯など信仰されているイスマーイール派は、このころの布教により広まったものです。

ファティーマ朝は第4代ムイッズとその子アズィーズの治世が最盛期となりました。
しかし、次のハーキム王は、冷酷な専制君主として名高く、残酷な刑罰を科したり、異教徒を激しく迫害したり、市民の娯楽を制限したり、飲酒を徹底的に禁じるため、ブドウ園を破壊したりしました。
犬を嫌って殺させたり、部下を残忍な手法で処刑したり、エジプト史上でも数々の奇行でその名を残しているそうです。

その反面、イスマーイール派の布教に尽力し、その名を残すむハーキム・モスクを始め数多くのモスクを建築しました。
ハーキムはみすぼらしい衣服を見にまとい、従者もつけずに砂漠や市中に散歩出かけることがありました。
ある夜、散歩に出かけたまま帰ることはなかったと伝えられています。

<アイユーブ朝>

このように弱体化していったファティーマ朝へ、ザンギー朝(イラク・シリアのあたり)の重臣サラディンが遠征し、3回のエジプト遠征でエジプトを倒し、自らファーティマ朝の宰相となり、エジプト全土を掌握しました。

1171年、ファーティマ朝のカリフが死去すると、ファーティマ朝を完全に滅ぼし、これをもってアイユーブ朝の成立と見る説もあります。

サラディンはエルサレム王国に侵攻、ハッティーンの戦いで十字軍に大勝し、エルサレム奪還を果たした人物です。

さらにイギリスのリチャード1世を中心とする第3回十字軍の派兵にも耐え、1192年、和睦を結ぶに至りのした。
これにより、アイユーブ朝は強大な支配権を持ちました。

サラディンは1193年ダマスカスで病死、その後アイユーブ朝は弱体化していきました。
リドリー・スコット監督の「キングダム・オブ・ヘブン」はちょうどこの頃のことを描いているのですね。

<マムルーク朝>

13世紀半ばにフランスのルイ9世が率いる第7回十字軍が侵攻してきたとき、アイユーブの最後のスルタン・サーリフ・アイユーブが死に、その未亡人のシャジル・アッドゥッルを指導者として推したて、マムルーク(遊牧民系の奴隷軍人)がクーデターを起こし、正統な世継ぎを倒しました。
女性スルタンとしてシャジル・アッドゥッルが新政権を樹立しましたが、女性スルタンにはムスリムの反対も根強かったので、マムルークのアイバクと結婚して、アイバクにスルタンの地位を委譲した。

ここから、マムルーク朝が始まりますが、軍人奴隷の政権なので、世襲という形にはなかなかならず、有力な軍人がスルタンを倒して王座に就くということが繰り返されます。
そして、スルタンはほとんど世襲ではなく、有力軍人の中から選ばれるということになりましたが、さらに軍閥の争いに拍車をかける結果となり、争いは絶えませんでした。

<オスマン帝国支配>

1509年にポルトガル軍との海戦破れ、陸上でも、セリム1世率いるオスマン軍に大敗をきっし、セリム1世に征服されました。

<ムハマンド・アリー朝>

1798年にナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍がエジプト遠征を開始した時、オスマン軍はバルカン半島から兵を派遣したが、その1部としてアルバニア人の非正規軍が組織され、そのときにムハマンド・アリーが副隊長に任命され、エジプトに派遣されました。

ムハマンド・アリーは軍人として頭角を現し、フランス軍が撤退した後、全アルバニア非正規軍の副司令官となりました。

エジプトではオスマン帝国の支配が緩んで、マムルークたちが政治の実権を握っていたが、フランス軍の去った後は、また権力闘争が起こりました。

ムハマンド・アリーは権力闘争に加わり、自らエジプト総督の地位を手に入れました。
オスマン帝国のセリム3世はムハマンド・アリーの実力を認め、総督就任を許しました。

彼は、国内でも対立するマムルークを力によって排斥し、300年ぶりにエジプト全域を支配する総督が誕生しました。

彼は産業や教育面で近代化を図り、領土も拡大しましたが、オスマン帝国からの独立には、国際社会の意向もあり、なかなか進みませんでした。
結局、トルコに総督の世襲を認めさせる代わりに、アラビア半島を手放すことになりましたが、これにより、エジプトの独立国家としての礎が開かれることになりました。

ムハマンド・アリー亡き後、世襲によって政権が維持されますが、列強の植民地としての性格が色濃くありました。

<イギリスの支配>

1870年代、南北戦争の後のアメリカから綿花が市場に流れ出し、綿花の価格が暴落し、エジプト経済は疲弊ます。
その見返りとして、スエズ運河の利権をイギリスに売ってしまい、ますますエジプト経済は打撃を受けました。

そんな中で「エジプト人のためのエジプト」という国家意識が生まれ、国民的な社会運動が起こりました。
しかし、イギリスが介入し、ムハマンド・アリー朝を温存する形で、実質的なイギリス人支配体制が取られました。

1914年第1次世界大戦が勃発すると、イギリスはエジプトの保護国化を宣言し、オスマン帝国から切り離されました。
1922年にはエジプト王国の独立を認め、エジプト王国を成立させました。

<現代>

1948年の第1次中東戦争で惨敗し、軍内部でもナーセルを中心とする青年将校たちが、戦争の敗因を王制に基づく政治の混乱と腐敗にあるとして、クーデターを起こし、無血革命に成功しました。
1953年、革命政府はムハマンド・アリー朝廃絶を宣言し、共和制に移行しました。

こうして、ナーセルが第一代大統領となり、心臓発作で急死した後、盟友であったサーダートが大統領に就任しました。
サーダートは、1977年にイスラエルのメナヘム・ベギン首相とイスラエル・エジプト間の和平交渉を開始し、アメリカのジミー・カーター大統領仲介の元、キンプデービッドで合意にこぎ着けました。
これにより、ノーベル平和賞を受賞しましたが、アラブ諸国及びイスラム教徒の反発を呼び、イスラム復興主義過激派によって暗殺されました。

その後、副大統領であったムバーラクが引き継ぎ、28年間も安定政権を維持しています。



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