マダムようの映画日記

毎日せっせと映画を見ているので、日記形式で記録していきたいと思います。ネタバレありです。コメントは事前承認が必要です。

イタリア・ローマ「天使と悪魔」ツアー

2014-05-25 07:45:12 | 旅行

ーイタリア・ローマ「天使と悪魔」ツアーー

ダン・ブラウンの「天使と悪魔」を読んで以来、熱望していたローマへの旅が実現しました。

趣旨に賛同してくれた友人たちが付き合ってくれ、これ以上ない、満足度の高い旅になりました。

 

旅行前に「天使と悪魔」はDVDでチェック。

飛行機の中でも原作を読みながら、期待に胸は高鳴ります。

 

イタリアは、ヴェニス、フィレンツェと回り、ローマに着いたのは5日目。

ラングドン教授が事件解決したようにとは行きませんが、私たちなりの「天使と悪魔」ツアーが完成しました。

 

まず、ラングドン教授とビットリアが殺人のキーワードとして見つけたのがガリレオが生きていた時代に4大元素と考えられていた「土、空気、火、水」。

そして、ガリレオが考えたイルミナティへの道を示す彫刻を作成した、ベルニーニの作品をたどる道ともなっています。

 

第一の殺人現場としてラングドンが考えたのがパンテオン。

イルミナティのシンボルであるピラミッドに見立てたオベリスク、そして、サンティの眠る土の墓。

サンティというのはラファエロの名字、確かにラファエロの墓がパンテオンにありました!!

これです。

このときは、まだベルニーニの彫刻がキーワードだとはわかっていなかったのですね。

 

でも、ここは殺人現場ではなかったんです。

ラファエロの墓がここに移されたのは、ガリレオ時代よりずっとあとだったからです。

では、どこだ!!

と謎が解けて向かったところが、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会の中のキージ礼拝堂。

右側の教会がサンタ・マリア・デル・ポポロ。

この地下で、第一の殺人が起こったのでした。

あいにく工事中で、よく見えなかったのですが、丸天井や、赤い大理石で作られたピラミッド、ベルニーニ作の「ハバククの天使」の彫刻もなんとか確認できました。

 

写真がボケていて残念です。

とても暗かったものですから。

最後の写真「ハバククの天使」の指が指している方向にあるのがサンピエトロ広場。

ここには次の殺人現場のキーワードとなる「空気」=西風のレリーフがあるはずです。

でも、この前日に法王様の礼拝がこの広場で行われ、椅子がびっしりと並べられ、オベリスクの周りには近寄ることもできませんでした。

ここでは第二の殺人が起こり、肺に穴をあけて殺すという残忍な方法がとられました。

大聖堂に入るために長蛇の列に並んだお陰で、サンピエトロ広場をゆっくり見学することができました。

中心にオベリスクがあり、楕円形の広場の周りは、大きな4列の柱で取り囲まれ、その屋根の上には聖人や天使の彫像ずらっと並んでいて、広場にいるちっぽけな人々を見下ろしていました。

 

コンクラーベに使われる煙突が見えます。

 

小説では、西風のレリーフが吹き示していたのが東。

ラングドンは「サンタ・マリア・デッラ・ビットリア教会」だと考えます。

ここが実際と小説と違うところでした。

ガリレオ時代にはオベリスクがあり、今は「トリトーネの噴水」となっているハルベリーニ広場とサンタ・マリア・デラ・ビットリア教会とは少し距離がありました。

この教会では、キーワードは火。

三番目の殺人が火あぶりという残虐な方法で行われてしまいました。

そして、次の殺人現場を示す彫刻「聖女テレサの法悦」。

とてもすばらしかったです。

 

そして、最後の殺人が行われたのが「ナヴォーナ広場」。

すごく広い!!

「四大河の噴水」が広場の真ん中にあって、南に「ムーア人の噴水」北に「ネプチューンの噴水」があります。

 この中央の噴水に最後の枢機卿が犯人によって投げ入れられ、映画ではラングドンが助け出し、その方が法王に選ばれると言う筋書きでした。

 イルミナティの本部として書かれてあったサンタンジェロ城。

城の上から大天使が剣を地上に向かって構えていました。

お城の地下からサンピエトロ寺院に向かって秘密の地下道があるそうです。

 

最後にこの小説の舞台となったサンピエトロ大聖堂。

カメルレンゴが自分に火をかけて自殺する舞台となったところ。

横から地下に下りる階段があって、歴代法王様が眠る墓所も見学してきました。

 

下の写真が、ラングドンが殺されそうになる記録保管庫の入り口だそうです。

バチカン美術館から撮影しました。

 

 

わかる範囲で、もう少し詳しい説明を。

パンテオンが建設されたのが紀元前25年。

その後火事で喪失したが、ローマ皇帝ハドリアヌス帝によって再建されたのが128年。

鉄筋を入れないコンクリート建造物の中で、今でも世界一だそうです。

 

サンピエトロ大聖堂では、ボーイスカウト、ガールスカウトの子供たちのためのミサが開かれていました。

ミサが終わって、司教様が退席して行かれましたが、フランシスコ法王だったかどうかわかりませんでしたが、もし、ご本人だったとしたら、すごい遭遇ですよね!!

どうしたら確かめられるのかしら?

 

フランシスコ法王はとても人気があり、前日の日曜日のミサにもたくさんの信者さんが集まったそうです。

私たちも一目見に行こうと試みましたが、バスも満員、地下鉄は事故が起こりそうなくらい人で溢れていたので諦めました。

この日も、広場にはその熱狂が残っているようでした。

 

ローマはとても古い町です。

ふと細い路地を曲がると、そこに古い遺跡がにゅーっと現れたりします。

バスでヴァチカンに行く途中に「ここがシーザーが暗殺された場所です」と案内があった遺跡がありました。

歴史の有名な一場面ですね。「ブルータス、おまえもか」って。

サンタンジェロ城の屋上から町を眺めると、町の中を川が悠々と流れ、教会のドームや塔が立ち並び、装飾された宮殿も見えます。

建物の一つ一つがとても大きい。

下の写真は、サンタンジェロ城からサンピエトロ大聖堂を見たものです。

本当にすばらしい眺めです。

 

太古の昔から栄え、今も人々の憧れとなっている町、ローマ。

果てしなく広がる歴史のロマン。

でも、旅人の時間は限られていますからね。

1冊の本を持ってローマの町歩きを楽しめたことに感謝して、私の「天使と悪魔」ツアーは終わりました。

スイス人衛兵の勇姿。かっこいい!!

 


淡路島旅行

2013-01-07 11:49:51 | 旅行

風邪が治らないのに、淡路島へフグを食べに行ってきました。

美味しかったので、ご紹介します。

エクシブ淡路島「淡路島の三年とら河豚」のコースです。

前菜

白子の茶碗蒸し

てっさ

焼きフグ

てっちり

フグの甘酢あん掛け

このあとおぞうすいで、デザート

次の日の朝ご飯

お腹に優しいおかゆを選びました。

 

帰りに寄り道したのは「千年一酒蔵」

お正月のお休み中でしたが、たまたま蔵の人がいて案内してくださいました。

内部

試飲させていただいたお酒。

しぼっている途中のお酒も試飲させていただきました。

これがしゅわしゅわという発泡の飲み心地で、素晴らしい体験でした。

日本酒は今が新酒の季節。

生酒やしぼりたては今しか飲めません。

風邪を引いているのを忘れて楽しませていただきました。

 

 


ホーチミン市とアンコールワットの旅ーその7ー

2012-10-19 09:06:36 | 旅行

午後の見学 タ・プロムとバンテアイ・クデイ

昼食ー写真はないのです。というのも中華料理だったからです。

ここで、チャイニーズというのも、なんかねえ。

 

午後は、タ・プロムへ。

ここは、アンジェリーナ・ジョリー主演の「トゥームレーダー」(2001年)が撮影されたところとして有名だそうです。

実際に、アンジェリーナは2002年にカンボジア人の男の子を養子として引き取って育てています。

 

ここも12世紀末にジャヤーヴァルマン7世によって建てられた仏教寺院でしたが、後にヒンドゥー教寺院に改修されています。

城壁の内側は、ガジュマルの浸食が激しく、今にも崩れてしまいそうです。

しかし、この状態からガジュマルを取ってしまうと、なにもかも崩れてしまうのは目に見えています。

どのように保存していくか、ユネスコでも議論されているところだそうです。

 

ここは、ジャヤーヴァルマン7世の母の姿に似せた般若波羅密仏を安置されていたところです。

そのお部屋には、ありとあらゆる宝石がちりばめられてあり、天井から射す陽光に映えてきらきらと輝いていたそうです。

 

穴のあいているところにしっくいで宝石が埋め込まれていたということです。

ここに安置されていた仏様はプノンペンの博物館にあるそうです。

 

塀を飲み込んでいるガジュマル。ジャッキで支えている石の柱とガジュマルの太い根っこ。 

裏側に回るとひっそりとして、廃墟の風情を感じました。

強者どもが夢のあと…。

苔むしたブロックが痛々しいと言うか、ロマンを感じると言うか、とても複雑な気持ちになりました。

 

次にバンテアイ・クデイを訪ねました。

上智大学の発掘が進み、いろんな成果を上げている遺跡だそうです。

 

ここは舞台です。

アプサラの舞などが演じられたのでしょう。

 

廃墟そのものですよね。

廃墟と巨木、いい取り合わせです。

 

ホーチミンとシェムリアップ、ある意味、とても対照的な二つの町でした。

ホーチミンは、都会で、若い人の熱気が溢れ、これからまだまだ発展して行くエネルギーを感じました。

シェムリアップは古い遺跡の町で、戦争の爪痕もここそこに残り、人々の顔にも疲れが残っているように思えました。

でも、カンボジアも立ち上がらなければなりません。

まずは、各国の支援を受けて、観光にも力を入れてというところでしょう。

 

アンコールワット遺跡は、人類の残した業績としても素晴らしい遺跡です。

修復することも、このままの形で残すことにも意義があると思いました。

人間の持つ、あらゆる面が残されているともいえると思いました。

栄光も、愚かさも、そしてはかなさも。

 

駆け足ですごく忙しい旅行でしたが、とてもいろんなことを感じました。

また、訪れたい場所となりました。

 

 


ホーチミン市とアンコールワットの旅ーその6ー

2012-10-18 19:21:35 | 旅行

シェムリアップ2日目

私は疲れていたし、前日が大雨だったので、日の出ツアーはパスしました。

でもグループの中でふたりの人が、前の晩バルコニーから空を見たら星が一つ出ていたので、ホーさんにお願いして日の出ツアーを決行したら、見事な朝日が見えたそうです。

よかったですねー。

 

朝食をすませてアンコール・トムへ。

台風はどこに行ったんだろう。

いいお天気になりました。

アンコールトムは、12世紀後半にジャヤーヴァルマン7世によって建設された城郭都市遺跡。

世界遺産。 

1辺3キロメートルの堀と、ラテライトで作られた8メートルの高さの壁で作られています。

南大門、北大門、西大門と、東には勝利の門と死者の門があるということです。

これは南大門。

堀に架けられた橋の欄干は、乳海撹拌伝説がモチーフになっています。

手前は大蛇の頭です。

仏像の頭は切られていて、修復された仏塔が置かれているものもあります。

アスラ像越しに見た堀。

 

アンコール・トムはバイヨンと呼ばれる塔がありますが、南大門にも仏が彫られていました。4面全部顔や表情が違います。

   

参道にも猿がいました。

お城の入り口。

警官が不正なガイドがいないか確認していました。

 

お城の塀には、戦争の様子が彫刻されていました。

兵隊さんや、中国兵、少数民族、音楽隊なども描き分けられていて、最後には家族連れの民衆とその生活の様子もユーモラスに描かれていました。

ゆっくり見たら、楽しいでしょうね。

   

上へ上へと登って行きます。

階段の手すりにも装飾されています。

  

アプサラの像。

きれいですね。

アンコールトムの中央のバイヨンと呼ばれる塔、どの塔も4面とも仏像の顔が形作られていて、どの顔も違っています。

  

塔に装飾された4面の仏像。いろんな表情があります。

出口。

ここにもアプサラが。

  

広大な敷地には菩提樹の大木が。

葉はハート形です。

  

これはバイヨンの北側にあるパフーオンという建物。

子供を隠すという意味を持つ建物。

敵に襲われたときに子供を隠したのでしょうか?

池に移ってきれいですね。

空中の橋を渡って行きます。

  

急な階段を上って塔のてっぺんへ。

塔の上からみた景色。

ホーさんが言っていた涅槃てどこかなあ?

回廊を歩き回ります。

「なかったよー」と降りて行ったら、ここですよって。

自分たちが歩き回っていた下に、お釈迦様がいらっしゃいました。

 

わかるかな?

 

広いところに出てきました。

象のテラスです。

 

ここで、戦争の前に戦士たちの士気を高めたそうです。

玉座の下に描かれているのはガルーダです。

ガルーダは人間の胴体と鷲の頭部、嘴、翼、爪を持つ、神の乗り物です。

 

王様はここから、小屋から小屋へとつなげた綱を美女たちが綱渡りをする姿を眺めたそうです。

この小屋、「ハルクの動く城」みたいと誰かが言っていました。

本当にその通り!!

  

塀にも細かい彫刻がありました。

ここは、ライ王のテラスと言われている場所。

壁の裏は迷路になっていて、ここにも細かい彫刻があります。

これは蛇。

これはえんま様です。

そして、これがライ王と呼ばれている像。

この手がないのは、始めからなのか、何かの事象でなくなったのかはわからないそうです。

三島由紀夫がこの象に着想を得て、戯曲「癩王のテラス」を書いているそうですが、知りませんでした。

 

ホーチミン市とアンコールワットの旅ーその5ー

2012-10-18 19:10:29 | 旅行

【閑話休題2】乳海撹拌(ヒンドゥー今日の天地創造神話)

アンコールワットの回廊には、いろんな神話が描かれていました。

その一つをご紹介。

インドの天地創造の物語です。

ショーで見た舞に登場したアプサラ(天女)が、誕生したわけも描かれています。

 

ヒンドゥーの最高神ヴィシュヌ神の化身である巨大亀に大マンダラ山を乗せ、大蛇を絡ませて、神々(インドラ)は大蛇の尾を、アスラたち(悪神)は大蛇の頭を持ち、互いに引っ張りあうことで山を回転させると、海がかき混ぜられた。

 アスラが蛇の頭を持って引っ張っています。

海に棲む生物が細かく裁断されて、やがて乳の海になった。

 下の方に描かれているのが亀

 上の方にアプサラが描かれています。

大蛇が苦しんで口から毒を吐くと、シヴァ(破壊の神)がその毒を飲み干したため事なきを得たが、彼の喉は毒によって青く変色した。

さらに1000年間攪拌が続き、乳海から白い象や、馬、牛、宝石、願いを叶える樹、聖樹、アプサラたち、ヴィシュヌの神妃である女神ラクシュミーらが次々と生まれた。

 蛇を引っ張っているところ

最後にようやく天界の医神ダヌヴァンタリが妙薬アムリタの入った壺を持って現れた。

しかしアムリタをめぐって神々とアスラが争い、一度はアムリタを奪われかけたが、ヴィシュヌ神は機転を利かせて美女に変身し、アスラたちを誘惑した。

アスラたちは美女に心を奪われ、アムリタを手渡した。

その結果、アムリタは神々のものとなったが、神々がアムリタを飲むさいにラーフというアスラがこっそり口にした。

それを太陽神と月神がヴィシュヌ神に伝えたので、ヴィシュヌは円盤(チャクラム)でラーフの首を切断した。

ラーフは首から上だけが不死となり、頭は告げ口した太陽神と月神を恨み、追いかけて食べようと飲み込むが体がないためすぐに外に出てしまう(日食・月食)。

 

 

ホーチミン市とアンコールワットの旅ーその4ー

2012-10-18 19:00:33 | 旅行

アンコールワット内部

同じ民俗が殺し合う内戦の悲劇をようやく乗り越えたカンボジアです。

ホーさんのガイドする言葉の端々にも、深い傷跡を感じました。

フランス、インド、日本など、たくさんの国の協力で、遺跡の復原の努力もなされていました。

 

この記念写真のポイントまできたら、雨は上がりました。

きれいな姿が撮れました。

 

芝生には野生の猿が。

十字回廊の内部。

ここは、雨を貯めておくところ。

排水機能もあります。

これだけの雨量ですから、雨との付き合い方も大切ですね。

 

 サンスクリット語で書かれた柱。

 森本一房が書いたと言われる柱。

いまは、読めません。

 

塔の下。

急な階段を上って塔の上へ。 

塔の柱に刻まれた天女(アプサラ)

 塔の上から見たところ。

(?)の置物。

 蛇の上で座禅を組んでいる仏像。

塔の中庭。 

 塔の内部は空洞で、仏様が安置されていた。

違う塔には涅槃が。

 

塔から降りてまた回廊の見学。

昔はこんなふうに天井には木のパネルがはまっていた。

これは、フランスによる修復。

 

本当はここで夕日を見る予定でした。

雲が厚くても、ロマンチックな気持ちになりました。

アマゾンアンコールレストランで、ショーを見ながらビッフェスタイルの食事。

はっきり言って美味しくありませんでした。

舞台ではあでやかなアプサラ(天女)の舞が。

 

ホーチミン市・アンコールワット旅行ーその3ー

2012-10-18 18:46:03 | 旅行

ホーチミン市から空路シェムリアップ(カンボジア)へ

さて、ホテルでゆっくり朝ご飯を食べて、空港へ出発。

シェムリアップまでは、約1時間の旅です。

  シェムリアップ空港

 ガイドのホーさん。

日本で勉強したわけではないそうですが、とてもきれいな日本語を話されます。

 カフェモイモイでいただいたワンプレートランチ。

空港に着いたときには、降っていなかった雨が、ランチをいただいていると次第に強くなってきました。

台風が来ているそうです。

そして、アンコールワットに着くとこんな雨。

子供たちは元気にお堀に飛び込んでいました。 

 

 

【閑話休題1】アンコールワットについて

サンスクリット語でアンコールは王都、ワットは寺院。

12世紀、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によってヒンドゥー教の寺院として30年を越える歳月をかけて建設されたが、未完成で終わっている。

世界遺産。

 

1431年にアンコールは放棄され、王都はプノンペンに移った。

16世紀半ばにアンチェン1世に再発見され、未完成部分に彫刻を行い、その孫ソター王が仏教寺院へと改修した。

 

1632年には、日本人の武士・森本一房が、父母の菩提を弔うため、インドに向け出発するが、たどり着けず、アンコールワットを訪れ、柱に墨書を残し、仏像を安置したと伝えられている。

 

1887年、カンボジアが仏領インドシナとなり、フランスが保全修復を行った。

1949年にフランスから独立。

ベトナム戦争が始まると、アメリカや南北ベトナムが介入して内戦状態になった。

 

1972年、カンボジア内戦により、フランスがアンコールワット修復から退去、寺院はポル・ポトが率いるクメール・ルージュによって破壊された。

このときに、多くの奉納仏は首をはねられ、砕かれて敷石にされたと言う。

197916日までの38か月20日間に、旱魃、飢餓、虐殺などで100万~200万人以上ともいわれる死者が出た。

この死者数は、1970年代前半の総人口は700800万人だったとの推計されているので、1329%にあたる。 

思想改革という名の元で、虐殺が行われた。教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、良識ある国民のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られたが、生きてそこから出られたのはほんのわずかな人数である。

それ故に明確な犠牲者数は得られず、今でも、国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘される。(内戦前の最後の国勢調査が1962年であり、それ以後の正確な人口動態がつかめておらず、死者の諸推計に大きく開きが出ている)。

1979年にベトナム軍が侵攻しポル・ポト政権を打倒。

その後ポル・ポト派含む三派とベトナム、ヘン・サムリン派との間で内戦が続いた。

 

政権を追われたポル・ポト派は、旧都アンコールに落ち延び、アンコール・ワットの守りの堅さを利用して立てこもった。

カンボジア軍にとっても、アンコールワットは大切な遺跡であり、攻めあぐねる結果となった。

これらの要因が災いして、アンコールワットはさらに破壊された。

ポルポト派は共産主義であり、仏像は無用の物だったからだ。

 

その後も内戦は続き、中国軍のベトナム介入に対する報復や、ベトナム軍による介入などが続き、カンボジアは国を二分して闘う悲劇に見舞われた。

 

1986年に政権に着いたチュオン・チン書記長は、ソ連のペレストロイカを倣い、「ドイモイ」路線に舵を切った。

1990年に東京で「カンボジア和平東京会議」、1991年にパリで「カンボジア和平パリ国際会議」が開かれ、20年に及ぶ内戦がようやく終結した。

 

1998年にポル・ポトは、部下のタ・モクに逮捕されたのち、心臓マヒで死んだ。

2009年からカンボジア特別法廷は、この大虐殺についての検証を行っている。

 

カンボジアでは、この大量虐殺により、ほとんどの法律家が殺害されていて、法律やその資料も廃棄された。

カンボジアが近代国家として再生するには、なにもかもがゼロからの出発となった。

カンボジア憲法には、内政不干渉、紛争の平和解決、永世中立が明記されているそうだ。

 

心痛む歴史です。

 

ホーチミン市とアンコールワットの旅ーその2ー

2012-10-18 18:25:43 | 旅行

第2日目午前中 ボンバン大学

ホンバン大学へ。

着付けのモデルをしてくれた学生。

この人は、去年まで大阪の大学に留学していたそうです。

 

会場の様子。

着付けが終わると、みんながカメラを持ってモデルさんを囲みました。

 

午後は市内観光

出前授業を終え、学生さんたちに案内されて、レストランへ。

ここのお料理がおいしかった。

写真は肉団子入りのフォー。

 

午後は、市内の見学。

統一会堂。

ベンタイン市場。

お花屋さんと果物屋さん。

市場の中はたくさんのお客さんでいっぱいです。

私も学生さんに手伝ってもらって、たくさんお買い物をしました。

かわいいバッグやサンダル、ぬいぐるみなど、かわいい物ばかりで選ぶのが大変。

 

夜は、フォンちゃんにスロバキアビールのレストランに案内してもらいました。

店内は若い人でいっぱい。

お店の中にピカピカ光るビールのタンクがあって、作り立ての美味しいビールをいただきました。

 

次の朝

お部屋から見たホーチミンの町。

遠くにサイゴン川が見えます。

今回はあわただしくて、川のそばまでいけませんでした。

今回の出前授業、なかなか好評だったということなので、また行く機会があるかもしれません。

次回はサイゴン川クルーズもしたい!!


ホーチミン市とアンコールワットの旅ーその1ー

2012-10-16 11:25:06 | 旅行

第1日目 ホーチミン市

35(飛行機1)でホーチミン市とシェムリアップに行ってきました。

 

ホーチミンには、社会人で大学院に通ったときの同級生、フォンさんがいます。

こちらはおばさん中心の10人の団体旅行。

どんな旅行になることやら。

 

ひとつの目的は、ホーチミン市にあるホンバン大学との交流。

フォンさんが中を取り持ってくれて、主に奈良の季節や行事を紹介したり、着物の着付けの実演、華道の実演、お祭りの紹介、お習字の紹介が盛り込まれています。

 

ホーチミンに着くと、フォンさんと大学職員のヌーさん、アイさんが迎えてくれました。

タクシーでホテルへ。

 

荷物を置いてすぐに買い物に出発。

ホテルはメインストリートにあるので、賑やかです。

すぐ近くに教会、マリア様もいます。

  

ホーチミン市のメインストリート、ドンコイ通りを歩いて行きます。

もうすぐオープンのデパート。

コンチネンタルホテル。

町の様子。すごい数のオートバイが飛ばして行きます。

 

通称、蓮ビル。

あとで、学生のニュウさんに教えてもらいました。

Bitexco Financialビルと言って、蓮をイメージして作られたホーチミンで一番高いピルだそうです。

 

オペラ座(市民劇場)

夕食は、私たちのリクエストで、ベトナム料理のレストラン、クック ガック クアンで。

ベトナムのビール、サイゴン。美味しかったです。

豪華な鍋料理。

 
 

万葉の阿騎野にかぎろひを観る会 (30周年記念・夜明けツアー)に参加して

2011-12-20 09:03:23 | 旅行

 

ー万葉の阿騎野にかぎろひを観る会 30周年記念・夜明けツアー)ー

 

何年か前に、奈良県大宇陀町で行われている「かぎろひを観る会」の存在を知って、一度は見てみたいものだと思っていました。

 

私の大学の先輩が主催している「万葉の大和路を歩く会」が、その発足30周年を記念して、40周年を迎えるなら県大宇陀市主催の「かぎろひを観る会」に参加するというので、私も前日泊の付いた「万葉の阿騎野にかぎろひを観るツアー」に申し込みました。

 

「かぎろひ」とはー

万葉集の巻1-48に柿本人麻呂が作った歌があります。

東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて

かへり見すれば 月傾(かたぶ)きぬ   

 

これは、壬申の乱という大きな内乱の後で、ようやく世の中が落ち着いた頃に、軽皇子(かるのみこ・後の文武天皇)一行が阿騎野(大宇陀地区)に猟りに行かれたときに詠んだ歌だと言うことです。

実際に詠まれた場所は、かぎろいの丘を見上げる位置にある、今は阿騎野・人麻呂公園になっているところだと考えられているそうです。

人麻呂の歌では野宿したように表現されていますが、この公園からはこの時代の掘建柱建物跡が発掘されて、狩り場用の施設があったことがわかっています。

この公園には、りっぱな柿本人麻呂像がありました。

かなりなハンサムさんでした。

 

人麻呂を含む軽皇子一行は、この地で夜明けを迎えて、白々空ける東の空を見ていたら、凍るような闇の中にかぎろひ(陽炎)が立ち、振り返ったら月が沈んで行ったという情景です。

 

古代人が見たのと同じ景色を、私も見られるかもしれない。

期待に胸はわくわくします。

 

午前5時前に、大宇陀のかぎろいの丘万葉公園に到着すると、大きなかがり火が焚かれ、葛湯の振る舞いもあり、たくさんの人がその瞬間を待っていました。

気温は3度。

西には雲もなく、大きな月がこうこうと輝き、西山に傾きかかっていました。

折しも、前日は皆既月食。

残念ながら、私が泊まった橿原神宮駅前は雨で天体ショーは見られませんでした。

 

さて、東の山脈に目を向けると、分厚い雲に覆われていました。

 

それから1時間半ほどの間、雲の切れ間から見えるオレンジ色の光を見つめていました。

いつのまにか、月も姿を消し、瞬いていた星も見えなくなって、急に夜明けがやってきました。

「夜明け前が一番暗い」と言ったのは誰だったかな?

私の感想は「夜明け前が一番寒い」でした。

 

地元の方がおっしゃるには、この日の「かぎろひ」のできは、50パーセントとのこと。

でも、「かぎろひ」の解説をしてくださっていた人は、「私は39年間このかぎろひを観る会に参加していますが、完全に見えたのが3回、ほぼ見えたというのを合わせても7回くらいです」とおっしゃっていたので、初めての体験で50パーセントのものが見られたら上出来だと、とても満足しました。

 

かぎろひもとても神秘的な体験でしたが、その時間を待つまでの期待に満ちたわくわく感は、あまり味わえないものだと思いました。

 

エジプト旅行で、アブシンベル神殿で見た夜明けも圧巻でしたが、やはり、奈良で見る万葉の夜明けも郷愁を誘うステキな時間となりました。

 

それから公園の丘を下り、阿紀神社に参拝。

大宇陀温泉あきのの湯で朝食と温泉をいただきました。

 

そのあとは、宇陀松山地区の散策をして、道の駅で昼食を食べて解散になりました。

 

松山地区は古い町並みが残る町で、しかも人々の生活のあるステキな町でした。

吉野葛が名産で、日本でも最古と見られている薬草園がありました。

標高が高いので、本州の北から南までの植物があるそうです。

古代から薬草の宝庫で、ここから創業者が出ている製薬会社も数多くあるそうです。

 

奈良は、奥が深い場所です。

もっとみんなが興味を持っていもいいのになあ。

今回のツアー、とても楽しかったです。