マスコミと人生について 1

マスコミと人生について 1                   金森正臣

 マスコミは基本的に、人に目立つことを報道する。だれでも知っている当たり前のことは、報道の材料にはならない。現代社会に生きていると、マスコミの影響を沢山受けているが、このマスコミの特性に気がつかないでいると、大きな誤りを起こすことがある。

 人生は基本的に、普通のことを普通の通りに行えることが最も重要であると、私は考えている。人生には近道も王道もないし、人から評価されることで変わるものではない。自分の行ったことは、自分の責任であって、他のだれの責任でもない。人から褒められても、やった内容が良くなるわけではないし、けなされたからと言って、やったことが悪くなるわけでもない。しかし、マスコミにさらされていると、あたかも報道されていることが尊いかのような錯覚を起こす。このような現象は、人と話をしているときにしばしば気が付く。

 人に目立つことを報道する場合に、物差しが幾つもあるとどれが特別なことか混乱する。価値を単純化することによって、物差しが一つになり、分かりやすくなる。あたかも非常に価値があるように思われる。負け組とか勝ち組とかよく聞くが、人生には勝ち負けはない。一面について成功したからと言って、人生全体が成功したことにはならない。

 しかしこの価値の単純化が、前回も書いたように人生の豊かさについて問題になる。人生は単純ではなく、一つの事柄が、いくつもの価値を持っている。また見方によって、様々な異なった価値が存在するのが普通である。あまりにマスコミの価値に依存していると、複雑で多様な価値を見落とし、単純な価値観に陥る。豊かな感性を持てなくなり、人生も貧弱にならざるを得ない。

 マスコミの影響は、知らない間に浸透しているところが怖い。だれも自分の人生については責任を持ってくれない。自分の人生のために、常に歩くべき道を見つめて行かなければならない。
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クメール美人

クメール美人
    金森正臣

 最初にカンボジアに事前調査に来た折に(1999年)、ある先生が鼻から口の辺りを片手で覆い、この辺に問題があって「クメールには美人がいない」と言った。確かに、鼻周辺から口にかけての感じは、日本人と異なる。

 よく観察すると、両目の線が鼻と交差する点の鼻筋が低い、鼻の先端の高さはあまり変わらないから、鼻の末端がやや上向きになり、正面から鼻の穴が良く見える。小鼻が大きく両側に張っている。日本流に言えば、鼻がアグラをかいた状態である。従ってやや大きめな鼻の穴が、正面から見える。口は大きめで厚いタラコ唇である。ほほの発達が良く、ますます鼻が低く感じられる。頬骨が張っているわけではなさそうであるが、よく笑うから筋肉が発達するのであろうか。
鼻の穴が正面から見えるのは、日本では鬼瓦や不動明王、鬼子母神の憤怒の形相に近い。日本人の美人意識からは、かなり遠い。

 この様な相は、馴染みが無いだけであって、特に不美人であると言う証拠にはならない。以前にアフリカで調査を始めた頃には、アフリカ人の年齢も特徴もつかめず、なかなか個人が見分けられなかった。しかし馴染んでくるとそれぞれの個性も分かり、特徴も理解できる。同じ様なことは、ニホンザルやチンパンジーの観察でも経験しており、最初は個体の識別はなかなか難しい。しかし、馴染んでくると見間違えることも無く、声だけ聞いても後姿だけでも、誰(だいたい名前を付けている)か識別ができる。見慣れてくるとサルでも結構美人(チンパンジーのアイの先生である京都大学霊長類研究所の松沢さんは、チンパン人だと言っている)もいれば、あまりそうでもないのもいる。

 カンボジア人に慣れるのには、相当に時間を要したが、最近では、結構美人もいると思っている。確かに化粧が上手になったこともあるが、日本の若い人よりも、表情が豊かで明るい。知識には誤りが多いかもしれないが、人格的には歪んでいない人が多い。にこやかな笑顔、屈託の無い笑いは、現在の日本では見かけることが少なくなった。普段の表情も生き生きとしており、いかにも生きが良い。日本の朝夕の通勤電車で見かける疲れきった表情の人々に比べると、遥かに親しみやすい。特に自分自身が年齢を重ね、顔やスタイルの美酷よりも、人格のほうが遥かに重要であると感じるようになって見ると、カンボジアには性格美人が多い。振り返って日本を見ると、人格がかなり歪んで来ていることが心配になる。

 美人観点とは異なるが、カンボジアの女性は、ガニマタ(蟹股)で歩く人が多い。観察していると、歩行の線を直線にしようと言うような意識は、働いていないと思われる。日本人の内股で歩く様な美意識はなさそうだ。若い女性でもだいたい足が、45度ぐらい前方に出る。左右では90度くらい違うから、なかなか直線には歩けない。腰が大きく、太短い体系は、安産多産形を示しており、少子化の深刻などこかの国は、見習いたいものである。後方から見ると、ヒザ関節も太くしっかりしており、立ち座りの運動量が多いことを示している。当然骨盤にも影響しており、出産での負荷が少ない。家畜でも運動不足は、難産が多く、動物である人間も、同じことが想定される。

 社会体制や子育て環境は、少子化問題の枝葉末節である。基本問題は人生に対する意欲や気力の問題である。日本では、子どもの育ちが悪く、意欲や気力・集中力が育っていない。運動量も少なく、体形も弱い。遺伝的には同じものを持っているが(一万年二万年の単位では、遺伝子の情報は変わらない)、育つ過程で親が干渉しすぎるので発達しない。未発達のままの世代が、親の世代になってきている。生きることに意欲が無ければ、子育ては非常な負担に感じる。この点を改善しないと、基本問題の解決にはならない。学力の問題も同じ問題に根ざしている。学習は楽なことでは無く、好奇心と意欲と気力が無ければ苦痛でしかない。教育再生会議などの議論を散見しても、根本問題からずれている感がする。カンボジアは、途上国と言われ、援助を必要としといる。しかし、滞在して見ていると先進国の、負の部分が浮き彫りになって来る。先進国も進んでいるようであるが、人間としてはほとんど差が無いか退化して歪んで来ている。効率と楽な生活を選択してきた結果、歪みが増大していることは明らかである。


 この文章は、カンボジアの日本人会の会報に今年6月頃に載せたものである。その時のものとは写真は異なっている。写真の子はまだ中学生と小学生か?勤め先の近くのお寺の入り口で、小さなキヨスクの番をしている看板娘。何時も何も買わないが、前を通るとニコニコと愛想が良く明るい。学校には行っているのかさぼっておるのか不明。
 日本に戻ると、多くの人が日常の生活の中にストレスを抱えていることが、感じられる。以前関わっていた子どもたちの問題などから想像されることは、多分考え方が狭く単純になり、一度ストレスに陥るとなかなか抜け出せないのどだと思われる。ここにはマスコミとの関係などもあると思われるので、それはまた後ほど。
カンボジアでは、足をけがしていると、時々見知らぬバイクの人にどこまで行くのだ、送ろうかなどと声をかけてもらうことがある。以前の日本がそうであったことをお思い出しながら、不自由な生活も楽しんでいる。
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