金森正臣先生のカンボジアの文化・教育・食べ歩き体験記
金森先生のカンボジア日記
お寺の縁日 1 門前のバナナ売り
カンボジアから 金森正臣(2005.12.23.)
お寺の縁日 1 門前のバナナ売り
写真:お寺の門前に暗い早朝から並ぶバナナ売り。モトの座席にバナナ吊るし用の枠を作り、房が茎に付いたまま運んでくる。茎ごと買う人もいるし、房を切り離して貰って買う人もいる。この他にも房を並べて売っている人もいて、とにかくバナナの山。花売りも多い。
カンボジアでは、仏教行事が多い。仏様の縁日には、多くの人がお寺にお参りする。このときには門前に、お供えする花やバナナの市が立つ。
毎月、8日と23日が小さな縁日で、15日と30日が大きな縁日である。15日は満月、30日は新しい月を意味する。お寺に行く日には朝早くに、白い上着で出かける。白い上着でない場合には、幅広の白い布をたたんで肩から掛けている人もいる。様々なお供えを持った上に、門前でお花やバナナを買って仏前に供え、僧の読経を聞いて帰宅する。お参りに行った午後は食事を取らないとか、食事に肉は取らないとか、水と塩或いは砂糖だけしか取らないとかいろいろの流儀がある様だ。小さい縁日と大きな縁日でも、午後の食事の取り方は違っている様だ。何を意味しているかは、私にはまだ分からないが、安易な日常生活を正す意味はあるのだろう。
若い人達は、あまり熱心ではないが、年配の婦人達が特に熱心だ。勿論若い人もチラホラは見かける。
この様にして仏教を信じることにより、精神的安定を得ていることは確かだろう。年配の方を見ていると、その笑顔に精神的安定を読み取れる。多くの年配者達は、現在の日本では考えられないほど過酷な世界を生き抜いてきている。何時誰に殺されるか分からない、不安定の時代を20年以上もくぐり抜けてきている。初めての人に出会った時に感じる鋭い視線は、生死の境を歩いてきた人の透徹したものである。しかしそれは一瞬のことで、一旦相手の認可を得ると、後は全く鋭い視線を感じさせない。その切り替えは見事なものだ。1999年に最初に来た時よりも、はるかに皆穏やかになっている。人を信じる様になり、人と楽しむことを喜びとする様になっている。
この様な精神的安定は、仏教を深く信じているからであろう。仏教の教えによって、死後の世界を信じ、現世での行いを律することによって、無意識の中の不安が消えて行くのであろう。日本の様に、目の前の現象だけに頼り、価値判断の物差しが一つしかない考え方とは異なる世界である。価値判断の基準が一つしかないと、良いか悪いかしか存在しない。常に良いものだけを追い求めて、一喜一憂してストレスが溜まっているが、実際には良いことにも悪いことが含まれているし、悪いことにも良いものが含まれている。価値判断の物差しが幾つもあるとその事は明らかである。人生の目の前に起こっている現象は、いろいろな側面を含んでおり、一つの物差しで計れる様なものではない。
かなり以前にある小学で教生の、4年生体育の授業を見学した時に、授業で子ども達に喧嘩が起こってしまった。チーム対向のゲームで、勝つために夢中になってしまったのだ。同じチームメイトが、戦略で衝突した。
校長室で話している時に、校長先生は、「普段の学級経営が悪いからとか、教員が左翼思想にかぶれているからとか、子ども達を良く掌握していないとか」話していた。この校長先生には喧嘩は悪いと言った価値判断しかなかった様に感じられた。また普段からこの教員を良く思っていないために、左翼思想にかぶれていると、この教員を単純批判するための結果でもあったろう。そこには価値の基準が、良い悪しの一つしかない。
私はこの授業では全く異なったことを感じていて、返答に困って黙っていた。授業を観察していて、担任の指導教官は、喧嘩が始まる前にその事を察知していて、止めようと思えば止められた。子ども達は、喧嘩をしている2人を引き分けて、落ち着かせ、一方を他のチームを変えて、次のゲームに進んだ。教生はやや動揺していたが、それでも授業は遅れながらも全てを終了した。
私がこの時に考えていたことは、児童が喧嘩をして何を得たかである。きっと4年生であっても、1週間ぐらいの間には仲直りをするであろう(実際に教生が帰ってきた時の話では、運動に優れた2人は、喧嘩以前よりも仲良くなっていた)。即ち、喧嘩した2人は仲直りの方法を練習することになる。またこの過程で、自分の悔しさを見ると共に、それをどうコントロールするかに、考えを巡らせるであろう。他方、子どもが夢中になって喧嘩するほどに熱中出来ることも、素晴らしいことである。そもそも現代っ子達は、熱中することが少ない。真剣になることがどの様なことであるかは、なかなか体験できていない。この授業はその意味において、大成功であったと思われた。授業で第一に重要なことは、子ども達が何を得るかである。一生使えるものを伝えることこそが、授業の使命である。
むろんその他にも多くのことを考えたが、校長先生と大分違うことは、この説明で明らかであろう。価値基準が単純だと、見ているものが正しく認識できない。
仏教では、様々な価値基準を持っている。私は仏教で修行する様になってから、様々な価値基準が増えていることを感じている。この辺が多神教の教えの良いところであろう。仏教は当然、協調性に優れている。ポルポトの引き起こした根本問題は、この宗教を破壊しようとしたことにある。
門前に早朝から立つ市は、花とバナナが主体である。売り手は貧しい人達の様に感じられる。値切っているところは見たことがない。多分お布施の意味もあるのだろう。
こんなにバナナを貰ったらどうするのだろう。食べる前に傷んでしまわないであろうかなどと考えるのは、ケチな下司の勘ぐりであろうか。
お寺の縁日 1 門前のバナナ売り
写真:お寺の門前に暗い早朝から並ぶバナナ売り。モトの座席にバナナ吊るし用の枠を作り、房が茎に付いたまま運んでくる。茎ごと買う人もいるし、房を切り離して貰って買う人もいる。この他にも房を並べて売っている人もいて、とにかくバナナの山。花売りも多い。
カンボジアでは、仏教行事が多い。仏様の縁日には、多くの人がお寺にお参りする。このときには門前に、お供えする花やバナナの市が立つ。
毎月、8日と23日が小さな縁日で、15日と30日が大きな縁日である。15日は満月、30日は新しい月を意味する。お寺に行く日には朝早くに、白い上着で出かける。白い上着でない場合には、幅広の白い布をたたんで肩から掛けている人もいる。様々なお供えを持った上に、門前でお花やバナナを買って仏前に供え、僧の読経を聞いて帰宅する。お参りに行った午後は食事を取らないとか、食事に肉は取らないとか、水と塩或いは砂糖だけしか取らないとかいろいろの流儀がある様だ。小さい縁日と大きな縁日でも、午後の食事の取り方は違っている様だ。何を意味しているかは、私にはまだ分からないが、安易な日常生活を正す意味はあるのだろう。
若い人達は、あまり熱心ではないが、年配の婦人達が特に熱心だ。勿論若い人もチラホラは見かける。
この様にして仏教を信じることにより、精神的安定を得ていることは確かだろう。年配の方を見ていると、その笑顔に精神的安定を読み取れる。多くの年配者達は、現在の日本では考えられないほど過酷な世界を生き抜いてきている。何時誰に殺されるか分からない、不安定の時代を20年以上もくぐり抜けてきている。初めての人に出会った時に感じる鋭い視線は、生死の境を歩いてきた人の透徹したものである。しかしそれは一瞬のことで、一旦相手の認可を得ると、後は全く鋭い視線を感じさせない。その切り替えは見事なものだ。1999年に最初に来た時よりも、はるかに皆穏やかになっている。人を信じる様になり、人と楽しむことを喜びとする様になっている。
この様な精神的安定は、仏教を深く信じているからであろう。仏教の教えによって、死後の世界を信じ、現世での行いを律することによって、無意識の中の不安が消えて行くのであろう。日本の様に、目の前の現象だけに頼り、価値判断の物差しが一つしかない考え方とは異なる世界である。価値判断の基準が一つしかないと、良いか悪いかしか存在しない。常に良いものだけを追い求めて、一喜一憂してストレスが溜まっているが、実際には良いことにも悪いことが含まれているし、悪いことにも良いものが含まれている。価値判断の物差しが幾つもあるとその事は明らかである。人生の目の前に起こっている現象は、いろいろな側面を含んでおり、一つの物差しで計れる様なものではない。
かなり以前にある小学で教生の、4年生体育の授業を見学した時に、授業で子ども達に喧嘩が起こってしまった。チーム対向のゲームで、勝つために夢中になってしまったのだ。同じチームメイトが、戦略で衝突した。
校長室で話している時に、校長先生は、「普段の学級経営が悪いからとか、教員が左翼思想にかぶれているからとか、子ども達を良く掌握していないとか」話していた。この校長先生には喧嘩は悪いと言った価値判断しかなかった様に感じられた。また普段からこの教員を良く思っていないために、左翼思想にかぶれていると、この教員を単純批判するための結果でもあったろう。そこには価値の基準が、良い悪しの一つしかない。
私はこの授業では全く異なったことを感じていて、返答に困って黙っていた。授業を観察していて、担任の指導教官は、喧嘩が始まる前にその事を察知していて、止めようと思えば止められた。子ども達は、喧嘩をしている2人を引き分けて、落ち着かせ、一方を他のチームを変えて、次のゲームに進んだ。教生はやや動揺していたが、それでも授業は遅れながらも全てを終了した。
私がこの時に考えていたことは、児童が喧嘩をして何を得たかである。きっと4年生であっても、1週間ぐらいの間には仲直りをするであろう(実際に教生が帰ってきた時の話では、運動に優れた2人は、喧嘩以前よりも仲良くなっていた)。即ち、喧嘩した2人は仲直りの方法を練習することになる。またこの過程で、自分の悔しさを見ると共に、それをどうコントロールするかに、考えを巡らせるであろう。他方、子どもが夢中になって喧嘩するほどに熱中出来ることも、素晴らしいことである。そもそも現代っ子達は、熱中することが少ない。真剣になることがどの様なことであるかは、なかなか体験できていない。この授業はその意味において、大成功であったと思われた。授業で第一に重要なことは、子ども達が何を得るかである。一生使えるものを伝えることこそが、授業の使命である。
むろんその他にも多くのことを考えたが、校長先生と大分違うことは、この説明で明らかであろう。価値基準が単純だと、見ているものが正しく認識できない。
仏教では、様々な価値基準を持っている。私は仏教で修行する様になってから、様々な価値基準が増えていることを感じている。この辺が多神教の教えの良いところであろう。仏教は当然、協調性に優れている。ポルポトの引き起こした根本問題は、この宗教を破壊しようとしたことにある。
門前に早朝から立つ市は、花とバナナが主体である。売り手は貧しい人達の様に感じられる。値切っているところは見たことがない。多分お布施の意味もあるのだろう。
こんなにバナナを貰ったらどうするのだろう。食べる前に傷んでしまわないであろうかなどと考えるのは、ケチな下司の勘ぐりであろうか。
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