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金森先生のカンボジア日記

金森正臣先生のカンボジアの文化・教育・食べ歩き体験記

近況報告

2008年10月21日 | 文化
近況報告                   2008.10.21. 金森正臣

 皆様ご無沙汰しております。
 先日、9月19日から10月19日までの予定で帰国いたしました。しかしいろいろ用事があり、ほとんどどこにも顔を出さずに10月12日にカンボジアに再び戻りました。今回は杖を使わずに歩くことができるようになり、不安でしたが大きな事故もなく無事に済みました。

 帰国後、毎朝・夕散歩をし、リハビリに励みました。やはり左足はまだ筋肉が少なく、弾力が無いので右足に負担がかかり、歩き過ぎると右ひざが痛くなるので、一休みしなければならない状態でした。右ひざは、10年ほど前にアフリカで痛めており、古傷が出た感じもあります。カンボジアに帰って1週間になりますが、毎朝散歩をしてリハビリを続けています。日曜日に1回休みましたら、驚くほど快調になり、バランスも良くなって速さもかなり回復しました。今月中には、ほとんど以前の状態に戻るのではないかと楽しみにしています。一方、年々歳はとりますので、体力的には下降をたどることは当たり前で、少しずつ老化に適応して行きたいと思っています。

 今回予定を早めてカンボジアに戻ったのは、8月にカンボジアに見えた「カンボジア国際教育支援基金」の皆さんと組んで、新しい仕事を始めるためです。10月15日には、カンボジアの新政府(9月14日に発足した)の教育大臣や長官二人との話し合いが組まれていました。大臣も長官も以前から親しい人がなりましたので、私もジョイントした方が話がスムースだろうと思い、急きょカンボジアに戻りました。思い通りに話は進み、来年の後半から大きな仕事に取り掛かる予定です。

 以前のプロジェクトが2004年に終了してから、個人的に支援を続けておりましたが、労力や資金には限界がありました。日本には「鉄は熱いうちに打て」という格言があります。あまり次のプロジェクトまで時間が空きますと、せっかくやる気になったメンバーも、意欲を持ち続けることは難しくなります。そこで、日本の友人の皆さんにお願いして、勤め先のメンバーを毎年2-3人ずつ留学させて頂きました。この効果は大きく、以前に少し書いた通りです。現在も日本で、8人がお世話になっています。留学の効果も、意欲を持ち続ける効果もともに大きなものがありました。2004年に個人的に始めた時点では、来年の10月ぐらいには終了して日本に戻る予定でした。資金や体力の点で、そろそろ終わりだろうと思っていました。また目的が、カンボジア人たちが中心になって進歩を続ける人材を作れば、私の仕事は終わりであろうと思っていました。それ以上は、個人の力では無理があるからです。

 ところが、8月の下旬に突然訪ねて見えた「カンボジア国際教育支援基金」の皆さんの話は、以前から私が考えていたカンボジアの教育の問題点の解決法そのままであり、資金や人材が無いので不可能と思っていたことでした。私もカンボジアに係わって10年目になり、ようやく問題点が明らかになって来たところでした。ところが資金や人脈に限りがある個人支援では考えられない方法が出現しました。シニアコミュニケーションと言う人材を持っている会社と基金が組み、カンボジアに24校ある教員養成校に人材を派遣しようとする計画です。主に日本で長年経験のある先生たちに、カンボジアの教員養成校の先生たちに教えていただこうというわけです。

 現在のところ、2-3年間に60人程度の先生に来て頂き、1-3年ぐらいを目安に滞在して頂き、カンボジアの教育の基礎を立て直す計画です。資金も安全管理もビックプロジェクトですが、数年で確実に先生たちが良くなるでしょう。

 昨年までであれば、まだ準備が整っておらず、このプロジェクトを立ち上げることは難しかったように思います。現在、日本への留学組が、6人帰っておりさらに来年3月には、4人が帰って来ます。彼らは強力な協力者で、地方の教員養成校の環境や人材をよく知っています。日本の先生たちを派遣するときには、手伝ってもらわないと進みません。
 またタイミングが来年であれば、既に帰るつもりになっており、多分プロジェクトに参加することはなかったと思います。
 さらに今年9月の新内閣で、昔からよく知っている人たちが、大臣や長官になったことです。話はスムースで、とても楽です。彼らも新しい気持ちで、教育の改善に取り組むつもりだったようで、歓迎されました。今までのミニッツにはなかった雰囲気でした。

 人生の転機は、いつも突然やってきます。もう帰る準備を始めていたところですが、今回も不思議なタイミングで、突然やる気になりました。今後も体力を気にしながら、ボツボツと行きたいと思っていますので、よろしくご支援ください。



カンボジアのトイレ事情

2008年08月27日 | 文化
カンボジアのトイレ事情                2008.8.25 金森正臣

 これは来週ぐらいに発行される、カンボジア日本人会の会誌に書いたものです。

 先日の保険医療関係者の会合で、カンボジアの地方に行くとトイレが無いことが話題になった。1999年3月に調査に入った時に、バサック川岸にあったホテルに泊まっていた(このホテルは後に、焼き討ちにあって現在も復旧していない)。散歩の途中に対岸の家が、高床式になっているのが気になっていた。乾季で川の水面までは、数メートルもあり、斜面は野菜畑になっていた。毎朝川から水をくみ上げて散水しているのを見ながら、結構勤勉な人たちであると思った。次に来たのは同じ年の11月。雨季の終わりで川の水は高床式の家の下にまであり、船で出入りしていた。この時朝には子どもが、家の脇の張り出した板の上で朝のお勤めを果たしていた。プレイベンの南の方に行った時も、雨季であったから全面水浸しで、集落が島のように点在していた。この状態では、トイレを作っても意味がないだろうと思われた。コンポントムのメコン川の影響の無い地域でもトイレはなかったので、結構カンボジアの一般的傾向のように思われる。

 カンボジアの農家でも、トイレがあることがあるが、屋外の屋根の無い簡単な床に穴が開けられており、下を掘っただけの浸み込み式。エジプトでも浸み込み式であったが、年間降水量が5ミリメートル以下の乾燥世界で、衛生上は特に問題を感じなかった。でもカンボジアのように、雨季があり、年間降水量が1000ミリメートルを超える世界では、衛生上問題が生じる。トイレの周囲もズタ袋が吊るされている程度。上半身は見えたりする。1980年ごろ韓国に行った折に、田舎の家のトイレは、入り口のドアの板は、膝から肩ぐらいまであるだけで、上と下が透けている。連れて行った学生は、夜までトイレに入ることができなかった。日本人の羞恥心感覚としては、トイレで尻が見えるのはいかがなものかと思うが、中国の田舎にもこの様式があると聞いている。入っていることが一目瞭然で、合理的システムではある。普通の生理現象と思えば、さして問題になることではないのかもしれない。この様な隠さない風習では、日本のどこかの有名大学の教授が、電車の中で女子高生のスカートの中を盗撮したと言う問題も起こらないであろう。最近のプノンペンでも、散歩の折におばさんがワットランカーの壁と道路の間で(1.5メートルぐらいしかない)、用を足しているのを見たことがある。また地方に出ているとバスが田舎道で止まって、トイレ休憩をしており、若い女性もその辺の藪の中でクロマーを巻きつけただけでしている姿を見かける。同じ様な光景は、東アフリカのウガンダでもしばしば見ており(クロマーの代わりにカンガと言う布を巻く)、羞恥心感覚はかなり日本人と異なっている。どこでもするのが、本来のカンボジア方式なのであろう。日本でも昔は、お婆さん達が道端で立小便などをしており、結構どこでもしていた様に思われる。カンボジアのトイレは、だいたい入口のドアに向かって座り込むようになっている。日本のトイレの多くは、入り口からは側面が見えるように座ることが多い。金隠しが無いカンボジアのトイレは、ドアを開けられれば真正面から向かい合うことになってしまう。この様なことにも、羞恥心の差が表れているのかもしれない。

 個人的には、広い場所で伸び伸びとするのが好きで、雪隠詰めと言われるような狭いトイレでするのは好きではない。立小便なども、高い崖の上からして霧散するのを見るのは気持ちが良い。しかし風向きを間違えると、霧が自分にかかってくるから要注意。広いのが良いからと言って囲まれているトイレが、あまり広いのも落ち着かないものである。昭和30年ごろ東京にあった従兄弟の家は、昔風の武家屋敷で、トイレの広さが8畳ほどもあり畳の間。中央2畳分ぐらいが、板の間で中央に穴が切ってあった。勿論便器は板作りである。立派な床の間があり、長押(ナゲシ)には、6尺ほどの短めの槍がかけてあった。このトイレは立派過ぎて、中央で踏ん張ってみても寄り付くところも無く、庶民には落ち着きが悪かった。

 カンボジアの地方でも比較的裕福な家には、囲いがあり屋根の付いたトイレがある。多くはシャワー室と一緒になっており、脇に水槽やカメに水が有り、お尻を水で洗ったり、排泄物を流したりする。この便座は陶器製が多く、金隠しが無い。周囲が水を流せるように作られているから、飛散するのは問題にならない。日本のトイレでは、金隠しが全て付いている。高校時代の授業中、柔道部の厳つくてソソッカシイのが、先生の許可を得てトイレに行った。まじめな男なのになかなか帰ってこないので、先生が心配して見に行かせた。級友があわてて帰って来て、彼がトイレの中で気を失っていると言う。教室の入り口の戸板をはずすヤツもいて、みなで救出に行った。よほど急いでいたのか、陶器性の金隠しに急所を力いっぱい打ち付けて気を失ったらしい。昔の日本では、板で作られていることが多かったが、田舎ではあったが高等学校は陶器製の便器であった。金隠しは飛び散らないように工夫された結果であろうが、無いほうが安全である。

 カンボジアでも、最近西洋式のトイレが増えている。私のいるところでも2001年にJICAが建てた建物は、西洋式である。しかしカンボジアの人には馴染みが薄かったらしく、男女とも便座の上に乗って用を足す学生が続出。靴の跡が付いている便座は間も無く壊れた。最近、幹線道路沿いに出来たサービスエリヤごとき場所の、トイレの便座が壊れているのをしばしば見る。まだ一般的には馴染みが無いのか、便座にお尻を付けるのに抵抗感があるのだろう。

 どこの世界でも、最初からトイレがあったわけではなく、定住するようになってからトイレが出来たのであろう。アフリカの原野で調査中は、いつも野外トイレで、パンガと呼ばれる山刀を持ってトイレに出かける。穴を掘って座り込み、周囲を用心したり、眺めを楽しんだりしながら用を済ます。日が昇ってくると、すぐに昆虫が活躍を始めるから、その前に済ますのが良い。ある時用を済ませて、紙で拭いたらミツバチが尻のあたりにいて刺され、数日痛みがあった。その後は、用便には殺虫剤を持ち歩いた。カンボジアでは良く、水があって尻を洗うようになっているが、あの方式は結構気に入っている。痔にも良好であるし、衛生的である。しかし日本人はあまり慣れていないのか、野外調査で缶詰の空き缶を渡して、トイレに行ってくるように指示したら、帰国してしまった学生がいると嘆いていた京都大の先生がいた。この様な場合に、女子学生の方が強く、だいたい帰るのは男子学生だと言う。日本では、母親が強くなって、男の子をいじりすぎるので、この様な結果になるのであろう。

 人間の大きな方はいろいろな部族で、リサイクルされることが多い。カンボジアでは、水上生活者が、養魚をしている場合があると聞いているが、実際に見たことはない。1980年ごろに韓国の済州島に行った時には、石垣で囲まれたところにブタがおり、角に板が渡されていて、その上でするようになっていた。大きな黒いブタがいて、立ち上がると尻をなめられそうであった。尻を拭くのを兼ねているかは不明であった。友人が調査していたタイの山岳部族でも、高床式の家の中からすると、ブタやニワトリがきれいにするので下は汚れないと言っていた。トイレ事情も、時代や場所によって様々である。

 動物が生まれたら必ず死ぬように、食べれば必ず排泄しなければならない。排泄行動の特徴は、肉食動物と草食動物ではかなり異なる。繊維質を主体の草食動物は、極めて簡単で、ほとんど苦労なく排泄する。例えば、ヤギやヒツジ、ウシなどは、食べ始めるとボロボロと歩きながら排泄する。アフリカゾウなども極めて簡単で、歩きながら10kgを超す大物を落として行く。硬さは半端ではなく、つまずいたりすると捻挫しそうになったりする。背の高い草原は、歩きにくいのでゾウ道を使うことが多いが、彼らの糞には注意を要する。この繊維ばかりの塊を好んで食べるシロアリの仲間は、あの小さな体ながら一晩ですべてを地下に運び込むこともある。その後巣の中でゆっくり楽しんでいるのであろう。カバは排泄の時に、あの短いシッポで糞をまき散らす。チンパンジーを追いかけて、川岸のやぶの中を通り抜けた時に異様な臭いがした。その時は追跡中で忙しかったので気に留めなかったが、後から気がつくと体中に臭いが浸ついている。どうやらカバが、陸上で排泄した後の藪を通ったらしかった。草食のカバは、ひどい臭いでは無かったが、古漬けの臭いに似ていた記憶がある。肉食動物の排便は簡単ではなく、背を丸めて必死になっている様子がうかがえる。簡単には出ないからかなり力を入れて、数分かかることもある。イヌやキツネ、ネコはこの類で、終わるとほっとしたような表情で地面をかいている。ハイエナやヒョウ、ライオンも簡単ではないらしく、苦労がうかがえる。この瞬間に他から襲われる危険が高いのか、よく見通しがきく場所でするのが一般的である。他を警戒しながらして、危険であれば中断もありうるのであろう。人間でも肉食の多いヨーロッパ人は、直腸癌が多く、野菜食の多い日本人などに胃癌が多いのと対照的である。消化しやすい肉食では、吸収も良く排泄物が硬くなるから直腸に負担がかかる。消化に時間がかかる植物食では、胃に負担がかかり胃癌が多い傾向がある。食べる物によっても、排泄にかかる時間や行動が変わってくる。西洋人は、体重が重いうえに時間が長く足がしびれるから、座席型を考え出したのだろうか。農耕民で植物質を沢山摂るカンボジア人に、西洋式便器に馴染みが薄いことは仕方がないかもしれない。


写真1:カンボジアのトイレの便座。金隠しは無く、入り口に向かって座るようになっている。左側に水槽が見え、ここから水をくみ出して尻を洗ったり、流したりする。

クメール人のオッパイ               

2008年08月20日 | 文化
クメール人のオッパイ               2008.8.20. 金森正臣

 これは4月ごろに、カンボジア日本人会の会報に書いたものです。

 乳房は本来、哺乳類が子どもを育てるために発達した。起源的には単孔類(カモノハシ)と同じ様に汗の腺が発達したものと考えられている。しかし様々な変化があり、出産する子どもの数に応じて、数が決まっている傾向にある。付着する位置も、胸部(ヒトや多くのサルの仲間、ゾウなど)、腹部(ネズミ類やブタ)、鼠径部(ソケイブ:もものつけね)(多くの蹄のある動物)など様々である。

 動物は普通、発情期があり、セックスは子孫を残すためだけに行われる。しかし、ヒトとピグミーチンパンジーだけは、発情期が外見的には不明になり、いつでもセックスができる状態になった。この2種類に関しては、セックスは子孫を残すためだけではなく、個体間のつながりを保つための要素になっている。ピグミーチンパンジーでは、乳頭が発達していないから、ヒトだけが、異性を引き付ける役割を乳頭の発達に求めたのだろうか。立ち上がっているので、前面に出ていて目立ちやすいことからであろう。

 アンコールワットを見学していると、多くのデバータやアプサラ(女官や舞姫)の彫刻に出会う。いずれも上半身は衣類を着けず、立派な体格と豊かな胸をしており、クメール人がこの様な人々であったろうと想像される。体格は太く短く、がっしりした骨盤の張った安産多産型であり、現在のカンボジア人にもこのタイプは多い。
 現在のカンボジアの女性も、胸が立派である。日本人に比べて、オッパイの立派な女性の割合は、はるかに高い。その上に、より強調するために、ブラジャーに厚いパットを入るからますます、立派に見える。あまり女性の下着売り場などを見ないから、日本人がどの程度の増量を試みているかは知らないが、カンボジアでは市場の目立つところに置かれているから、嫌でも目に付く。身長に対する胸囲の大きさは、カンボジア人の方が上であると思われる。

 少し下に目を移すと、30代に入るとカンボジア人はお腹も立派で、オッパイ以上に出ている。したがって胸が大きな割には、目立たない。だいたい途上国では、飢えから解放されて食料が十分になると、肥満化が加速する。アフリカの多くの国々では、まずお巡りさんが肥り出す。小遣いがせしめられる様になり、食い気に走るからであろう。カンボジアも例外ではなく、数年前に比べるとプノンペンでは明らかに肥満が増加している。

 女性が胸を強調するのは、現在は男性に対する性のアピールである。進化史的には子どもを育てられる象徴としての意味があったであろう。人口乳なども発達して、胸の大きさは必ずしも子孫繁栄を意味しないが、男性の価値観が置換されて乳房そのものに引かれる傾向がある。乳房の大きさは、乳量と比例しないのは、動物の一般的なもので、飼育したことのあるヤギ・ヒツジ・ウシなどでも乳房の大きさと乳量は比例しない。むしろ精神的安定の良い母親は乳量が多い。サルなどでも、乳房の発達は著しくなく、オスを引き付ける役には立っていない。人類は直立して前面が相手に直接見えることから、かなり特殊な方向に進化したと言える。ヒトの乳房は付く位置にも特徴があり、成長すると普通はやや脇に向いて付く。たぶん4足歩行の時代に脇に向いていた方が、授乳し易かったからであろう。多くの動物でも乳頭は外に向いている。ブラジャーなどで矯正して無理やり正面に向けているのは、なんだか無理が有る様に感じる。デバータやアプサラも乳頭が正面を向いているから、この位置の方が、若く美しく見えたりするのだろうか。とすればやや外側を向くと、あまりにも機能一辺倒で、異性を引き付ける魅力に欠けるのかかもしれない。

 人類学的には、それぞれの人種ごとに形態はかなり異なっている。成長するに従って性ホルモンの増加と共に発達し、出産を繰り返すとさらに発達する。一般に白人は、体全体が大きく、胸の発達も良い。黒人は、さまざまに分化しているが、乳房は発達し長くなる傾向にある。授乳が進むとますます長くなり、本人が乳頭を直接口に持って行けるのは、黒人ぐらいであろう。アフリカで使っていたトラッカー(原野で動物を追跡するために雇う現地人)は26歳であったが、その母親はまだ出産を繰り返していた(私が知っているのは16人目の子ども)。トラッカーの子どもがおばあさんの子ども(おばさんに当たる)をあやしていた。この母親は、乳房が30センチ以上あり、左右で結ぶことも出来たし、肩に担ぐことも出来た。靴下状に長く、先端だけに血管が発達し機能していることを示していた。白人の乳房が大きいからと言って、この様な方向に成長した例は見られない。黄色人種は、一般には白人や黒人より胸が小さい傾向にある。これは環境(摂取できる栄養状況など)によるものか遺伝的なものかは明らかではない。

 カンボジアの地方では、まだ時々授乳を人前でする光景を見かける。昔の日本を見ているようで懐かしい。3月にプレイベンに乗り合いバスで出かけた時に、小さな子どもがぐずりだしたら、若いお母さんが大きなオッパイを出して授乳を始めた。ハイエースクラスのワンボックスカーに26人も乗っており混んでいるから周囲のおばさんが荷物などを持ってやってようやく授乳が可能になった。しばらくすると子どもは幸福そうな眠りについた。おばさんたちは、子どもを覗き込みながら何か大笑いをして楽しそうだった。いつからブラジャーをするようになったのか知らないが、アフリカでは今でも上半身は覆わない、スワッジランドやモシなどの部族が見られる。だからと言って特別に性的なマナーが低いわけではない。ヨーロッパの中世の絵画を見ていると、若い娘さんがオッパイ丸出しでパーティーの接待をしていることがある。隠すことにどの様な意味があるか不明である。

カンボジア人の音楽感覚  

2008年08月13日 | 文化
カンボジア人の音楽感覚              2008.8.13. 金森正臣

 カンボジア人の音の感覚は、かなり悪いように思われる。私は、ある時期から西洋音楽よりも、音が複雑に混じっているインドのタブラ(手で打つ二つ一組の太鼓)やサロード(ヒョウタンを胴にした弦の多いギター?)、津軽三味線などに魅かれるようになった。ピアノの澄んだ音が好きだった時期もあるが、複雑に混じりあった音や割れた音の混じる感じになじみ深い感覚がある。この傾向は、アフリカの生活で、たまたま集落の近くでキャンプすると遠くから聞こえてくる太鼓などを聞くことによって一層強まった。

 カンボジアでは、いろいろのところで音楽が流れる。つい最近も家の近所で、結婚式があり、早朝5時ころから音楽やお経が流れた。結婚式には坊さんを呼んで、儀式があるが、多くは雑音の多いテープで間に合わせている。大音響であり、スピーカーが上等ではないから、音が異常に割れる。ピアノの音が好きだったころに、スピーカーを買おうとしてしばしば秋葉原でいろいろ聞いて回ったことがある。低音のスピーカーと高音の組み合わせが難しく、なかなか気に入ったものがなかった。カンボジアのスピーカーは、高音と低音の組み合わせが悪く、音がまとまらない。それでもお構いなしに、大音響で流す。近所迷惑だが、だれも文句を言わないのが、カンボジア流。

 生バンドを売り物にしたビヤホールなどでも、音の割れた大音響が流れている。カンボジア人は、結構好きらしく、彼らのパーティーに呼ばれるとしばしばこのようなホールに行く。できるだけスピーカーから外れた場所に座るようにしているが、話も十分にできない。スピーカーに近かった時には、振動で気持ちが悪くなり逃げ出したことがあった。複雑な音が良いからと言って、スピーカーの音の割れている状態は好きではない。

 カンボジアにも、津軽三味線よりも竿の長い三味線のような楽器があり、老人が奏でていることがある。シェムリアップでは、バンティアスレイやタブロームの入り口で聞いたことがある。我々の感覚からは、テンポもバラバラでやや調子が外れていて悠長であるが、趣があって結構な音楽だ。老人たちの調子の外れた節回しも、それなりに人生が感じられて好きだ。

近況

2008年08月01日 | 文化
近況

皆様ご無沙汰しております。
日本も今年はことのほか暑いようですね。
カンボジアは、逆に涼しく快適です。毎晩30度を切り、明け方には27度ぐらいです。窓を開けていると快適です。

最近忙しさが増し、まともに書いている時間がありません。また勤め先に、ネットが無いので、カフェーに出かけなければならず、週に一度程度です。

裏方の仕事が多く、中学校教員養成校の理科室の建設のお手伝い。これは大使館でしている「草の根」で、カンボジアの先生は理科の実験室など使ったことが無いので、いろいろお手伝いです。カンボジア側から要請することになっており、質問への回答もカンボジアの人がしなければならないので、なかなか思うようには進みません。また、大使館から推薦する大学院、大学、高専の学生の専攻などや小・中教員養成校に入れる理科の機材や次のプロジェクトへの提言など、勤め先の教官を指導することより、雑用が多くなっています。

ご無沙汰しておりますが、とにかく元気にやっています。出来れは9月に一度日本に帰り少し休みたいと思っています。

日本留学の効果

2008年07月08日 | 文化
皆様

ご無沙汰いたしております。

努めているNIEで、今回サイエンスフェアーが行われました。学生の教材研究の発表会です。日本からの帰国組は、すばらしい影響を与えています。
先週は忙しすぎて週末は、風邪をひきかなり疲れました。

愛知教育大学に留学していた生物のチャンセンの学生は、普段からよく学校に来ますし、よく研究をします。3種類の肥料を使った比較実験では、それぞれ11例を準備し、アクシデントのあるデーターを省く準備もしていました。しかしアクシデント無し(技術が良くなるまで訓練している)。
またランでは、長期間の成長を調べたグループもあり、野生のランの状況をあわせて調べたグループありと多様ですし、それぞれレベルが高く、外国の大学の先生たちから高い評価を受けています。同じように高い評価を受けたのは、岡山大学教育学部の化学に留学していたセングの牛フンを使ったメタンガス採集と時間的変化でした。
留学組は、確実に指導方法が変わっており、学生が楽しそうです。市橋流(愛知教育大学生物)、喜多流(岡山大学化学)で思わず笑ってしまうところがあります。よく見て学習してきています。卒業する学生たちも、それぞれの先生の影響を受けています。カンボジアで、理論には表れない日本の指導法が普及しつつあります。

お世話いただいている皆さん。本当にありがとうございます。

石切り場で働く女性

2008年05月27日 | 文化
石切り場で働く女性
                2008.5.27. 金森正臣

 日曜日の地学の野外巡検で、見かけた石切り場の女性。まだ若く十代の後半ぐらいの年齢。妊娠してかなりお腹が大きくなっている。焼け付くような緑の無い世界に、わずかな日陰を作って、作業を続けている。大きな石を足の前に置き、それを台にしてコブシ大の石をさらに細かく砕いて、だいたいのサイズを揃える。たぶん敷石やコンクリートに混ぜる石材に使うのだろう。カンボジアでは、大きな石切り場では、粉砕機がうなりを上げているが、そのような業者が去った跡には、この様な手作業の貧しい人々が入る。一日働いていくらになるであろうか。

 皆ほとんど現地に住み着いているが、床も無いような、ヤシの葉で作った小屋。鍋を一個しか持っていないような家もある。どのようにして調理しているのだろうか。当然子どもたちも学校に行く余裕はないであろう。しかしながら、日陰に集まって休んでいる家族は、笑顔があり和やかだ。日本では、最近見かけなくなった雰囲気がある。

 カンボジアは現在建設ラッシュであるが、その波及効果は、この様な貧しい人々には及んでいない。この日にはこの様な現場を、異なる州の3箇所で見た。都会が発展する一方で、地方は疲弊して行く。

 それでも庶民は、いつも生き続ける。歴史はいつも庶民によって作られて行く。エジプトの遺跡の壁画に残る統治者たちの姿は現在にないが、庶民の姿は4500年の時を経て、少しも変わらずに続いているのを見たとき、本当に歴史を動かしているのは、庶民であると確信した。

石割場で働く子ども

2008年05月27日 | 文化
石割場で働く子ども
                2008.5.26. 金森正臣
 日曜日に、地学の巡検を行ったので付いて行った。カンボジアでは少ない花崗岩を産する場所に最初に出かけた。ここは4年前にも学生を連れて行ったことがある。丘の上にはお寺があり、その裾の部分に花崗岩の路頭がある。ここは石切り場になっていて、貧しい人たちが、砕石を造って売っている。全て手作業。以前は斜面であったのに、現在は掘り進んで池が出来、かなり石が少なくなってきている。

 写真の子どもは、まだ小学校高学年にはなっていない。お父さんが大きく砕いた石を、お母さんが細かく砕き、それを箕に入れて頭に載せて、砕石したところから車が入れるところまで運び出す仕事をしている。下に4-5歳の妹があり、その子の面倒を見ながら、親の仕事を手伝っている。日曜日でもあるから、学校に行っているかは不明だが、たぶん毎日働いている。学校には行っていない気がする。日に焼けた赤銅色の顔の中から目だけが、こちらを見つめているのが分かる。

 頭の上には、十キロを超す石が乗っており、バランスをとりながら斜面を下ってくる。その身のこなしは、なかなか鍛え込まれている。日本の子どもたちには見られない逞しさが感じられる。しかしながら、一生貧しく過ごさなければならないかと思うと、少し気が重くなる。でも日本の子どもの様な不安感は、多分持っていない。どちらも同じ人生なのだが、もし選べるとすると、自分ならどちらを選ぶであろうか。

 貧しい生活では、家族全員が協力して働きやっと生きている。この様な世界には、子殺し、親殺し、兄弟姉妹殺しなど、身近な肉親同士が殺しあうような事は少ない。そんな状態になったら、生きて行けなくなる。以前に小魚からプラホック(魚醤)作りに励んでいた家の子ども(4-5歳か)について書いたことがある。小さな子どもが、強制で無い重労働に耐えられるのは、家族との一体感があり、一員としての役割を持っているからである。その労働は生き生きとしており、家族の一員として支えている誇りを持っている。肉親殺しは、そこに至るまでの長い時間、憎しみや怒りで正に地獄の沙汰であろう。肉体的には苦しい労働であっても、生き生きとした行動は、その対極に有ることを物語っている。ユニセフのキャンペーンに、「働かなければならない子どもたちがいる」と言う意味のことが有ったと思うが、彼らは何を見ているのだろうか。勿論強制労働に対する言葉であろうが、働く場が無い便利な日本社会の子どもたちの悲惨さも見落とさないで欲しい。多くの日本人が、この切実な問題に目を向けていない。教育再生会議の委員なども、教育の中で改善しようとするのは、場当たり政策で、基本問題を見つめる必要がある。

 後方は、連れて行った学生たちで、カンボジアの中での格差が大きい。日本の社会よりもはるかに大きいが、庶民はまだ現状維持を望んでいるようだ。今年7月に行われる、選挙結果がどのように成るのだろうかと見つめている。この学生たちは、既に自分の身体を自由に使いこなすだけの訓練を、自分の身体に課していない。

ご挨拶

2008年05月05日 | 文化
皆様

ご無沙汰いたしております。
体調は良く、元気に働いております。松葉杖もやめて、一本の杖にしました。
4月はいろいろと忙しく、ただただ夢中でした。

今年は4月に中旬から、雨季に入った様で、雨の採集にも追われています。
4月の末には、地方のドリアンの産地に出かけ、おいしいドリアンを食べてきました。目的は資料の採集でしたが、こちらは見事にはずれ、ドリアンを食べに出かけた結果になりました。

また後ほどいろいろ報告を再開します。