日本の現代社会の混乱 2008.12.1. 金森正臣
1)通り魔殺人の頻発と日本の現代社会 2008.6.12.
秋葉原の通り魔殺人事件で、また世間の異常が噴出した。今年になって、犯人が「誰でも良かった」と供述している事件は、3件目であるとニュースに流れていた。日本の社会はいよいよ異常が、恒常化しつつある。この様な、動機が不可解な事件が頻発しているのは、先進国だけで、アメリカなどの銃の乱射もそのカテゴリーに入る。異性に対する事件よりは、動機が明らかに不鮮明に見える。
北海道サミットで、炭酸ガス削減の議論が盛んになっているが、それぞれ部分について見ているだけで、議論が変な方向に発展している。それぞれの部分は、一見正しそうだが、総合してみるとつじつまが合わない。それぞれの部分は正しいように思えるが、物事を2元対立で見ているために、全体が見えないからであろう。炭酸ガス削減のために、排出される炭酸ガスを集めて、地下深くに埋め込むと言う。ブラジルから反対意見が出て、議論されているようだ。原子力発電は、炭酸ガスを出さないからクリーンだと言って、原子力発電を途上国に支援したら、「その先進国は炭酸ガスを削減した計算になる」と提案して、使用後の放射能の処理がまだ十分でないことを指摘されている。いずれも全体を見ていない底の浅い議論に過ぎない。
一見脈絡の無いことのように思えるが、全体を総合的に見ると、明らかに社会の歪の問題である。部分しか見えない、二元対立の現代社会は、理論は明快で分かりやすいが、人間は二元対立的には出来ていない。白黒がはっきりいしない曖昧な部分があってこそ、安定する。世の中は明るい部分だけではなく、闇があってこそ安定が保たれる。教育の中に、競争原理による勝ち負けを持ち込むのは明らかな間違えである。勿論競争の部分があっても良いのだが、曖昧なはっきりしない部分が存在してこそ、安定がある。良し悪しがはっきりするのは、二元対立論であるからはっきりするのであって、良いように思えても異なる価値観で見ると、明らかに結果は異なってくる。2元対立の世界は、逃げ場の無い結果が出て、子どもたちの人格をゆがめる。
炭酸ガスの削減の議論は、エネルギーを使う量を減らそうと言う方向には行かない。一見削減で使用量を減らしているように見えるが、経済的に右肩上がりを目指している。我々は、文明の恩恵を受けて、楽になったが、いったいそこから何を得たのだろうか。楽な生活を楽しんでいるようであるが、不安とストレスを得ただけではなかろうか。途上国支援の現場で見ていると、子どもの死亡率を下げるのは、絶対的に必要なことのように思っている人が多い。しかし、人口が増えた後の責任を考えているのだろうか。「命は地球より重い」と言う論理は、非常に説得力があるようであるが、実は外から手を出すことは無責任である。自分自身の人生をしっかり見つめて、死ぬときは死ぬ覚悟が出来ていない人がするのは、本当の意味で援助にはならない。生命を救ったと言う大義名分の単なる売名行為か自己満足でしかない。
ここまでは2008.6.12.に書いた。その後しばらく、この件について休み。
2)無差別な殺人
最近、事務次官や家族を襲う事件が起こり、色々な問題がすべて関連しているように思えてならない。今日は、自殺者が今年も3万人を超えると言う話が出ていた。これも無関係に思えない。
我々は、自分の肉眼で見たことを信じがちである。確かに肉眼で見たことは、実際に起きていることであろう。しかしそれに振り回されると、全体を見損なう可能性が高い。人の心は二元対立、肉眼で見える世界だけでは理解ができない。そこに現代の社会の歪みが存在することすら認識されていない。現在の日本人は、心の深淵について思いを巡らす必要がある。他人はいざ知らず、自分の人生をまともにするためには、ぜひ必要なことである。
事件を起こす多くの人や自殺者は、子どもの時に必要とする家族との絆が弱い様に思われる。このことは、該当者を非難するためではない。そこに目を向けないと、自分自身の人生を誤るからであるである。自殺を防ぐために、カウンセラーやサポートを増やすような対症療法では改善の方法が無い。二元対立の狭い価値判断では無く、心にゆとりのある人生を目指さなければ、問題は少なくならない。心のゆとりは、社会の問題では無い。自分自身の問題である。自分自身の人生のために必要はことである。
1)通り魔殺人の頻発と日本の現代社会 2008.6.12.
秋葉原の通り魔殺人事件で、また世間の異常が噴出した。今年になって、犯人が「誰でも良かった」と供述している事件は、3件目であるとニュースに流れていた。日本の社会はいよいよ異常が、恒常化しつつある。この様な、動機が不可解な事件が頻発しているのは、先進国だけで、アメリカなどの銃の乱射もそのカテゴリーに入る。異性に対する事件よりは、動機が明らかに不鮮明に見える。
北海道サミットで、炭酸ガス削減の議論が盛んになっているが、それぞれ部分について見ているだけで、議論が変な方向に発展している。それぞれの部分は、一見正しそうだが、総合してみるとつじつまが合わない。それぞれの部分は正しいように思えるが、物事を2元対立で見ているために、全体が見えないからであろう。炭酸ガス削減のために、排出される炭酸ガスを集めて、地下深くに埋め込むと言う。ブラジルから反対意見が出て、議論されているようだ。原子力発電は、炭酸ガスを出さないからクリーンだと言って、原子力発電を途上国に支援したら、「その先進国は炭酸ガスを削減した計算になる」と提案して、使用後の放射能の処理がまだ十分でないことを指摘されている。いずれも全体を見ていない底の浅い議論に過ぎない。
一見脈絡の無いことのように思えるが、全体を総合的に見ると、明らかに社会の歪の問題である。部分しか見えない、二元対立の現代社会は、理論は明快で分かりやすいが、人間は二元対立的には出来ていない。白黒がはっきりいしない曖昧な部分があってこそ、安定する。世の中は明るい部分だけではなく、闇があってこそ安定が保たれる。教育の中に、競争原理による勝ち負けを持ち込むのは明らかな間違えである。勿論競争の部分があっても良いのだが、曖昧なはっきりしない部分が存在してこそ、安定がある。良し悪しがはっきりするのは、二元対立論であるからはっきりするのであって、良いように思えても異なる価値観で見ると、明らかに結果は異なってくる。2元対立の世界は、逃げ場の無い結果が出て、子どもたちの人格をゆがめる。
炭酸ガスの削減の議論は、エネルギーを使う量を減らそうと言う方向には行かない。一見削減で使用量を減らしているように見えるが、経済的に右肩上がりを目指している。我々は、文明の恩恵を受けて、楽になったが、いったいそこから何を得たのだろうか。楽な生活を楽しんでいるようであるが、不安とストレスを得ただけではなかろうか。途上国支援の現場で見ていると、子どもの死亡率を下げるのは、絶対的に必要なことのように思っている人が多い。しかし、人口が増えた後の責任を考えているのだろうか。「命は地球より重い」と言う論理は、非常に説得力があるようであるが、実は外から手を出すことは無責任である。自分自身の人生をしっかり見つめて、死ぬときは死ぬ覚悟が出来ていない人がするのは、本当の意味で援助にはならない。生命を救ったと言う大義名分の単なる売名行為か自己満足でしかない。
ここまでは2008.6.12.に書いた。その後しばらく、この件について休み。
2)無差別な殺人
最近、事務次官や家族を襲う事件が起こり、色々な問題がすべて関連しているように思えてならない。今日は、自殺者が今年も3万人を超えると言う話が出ていた。これも無関係に思えない。
我々は、自分の肉眼で見たことを信じがちである。確かに肉眼で見たことは、実際に起きていることであろう。しかしそれに振り回されると、全体を見損なう可能性が高い。人の心は二元対立、肉眼で見える世界だけでは理解ができない。そこに現代の社会の歪みが存在することすら認識されていない。現在の日本人は、心の深淵について思いを巡らす必要がある。他人はいざ知らず、自分の人生をまともにするためには、ぜひ必要なことである。
事件を起こす多くの人や自殺者は、子どもの時に必要とする家族との絆が弱い様に思われる。このことは、該当者を非難するためではない。そこに目を向けないと、自分自身の人生を誤るからであるである。自殺を防ぐために、カウンセラーやサポートを増やすような対症療法では改善の方法が無い。二元対立の狭い価値判断では無く、心にゆとりのある人生を目指さなければ、問題は少なくならない。心のゆとりは、社会の問題では無い。自分自身の問題である。自分自身の人生のために必要はことである。