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金森先生のカンボジア日記

金森正臣先生のカンボジアの文化・教育・食べ歩き体験記

プノンペンのバレンタインデー      

2009年02月20日 | 文化
プノンペンのバレンタインデー      2009.2.20. 金森正臣

 先週末のカンボジアのバレンタインデーは、男性が女性に花を贈る日になっている。街角には、急造花屋さんがあちこちに出現する。綺麗にラッピングして、ちょっとチャチだが、ハート形の風船や発泡スチロールで作ったハートをつけたりする。

 夕方になると街に繰り出した若者が、あちこちの花屋さんでプレゼントの花束を買い求める。その後は彼女とバイクで、デートドライブ。若者は、流行に敏感で、この風習は2-3年の間に流行した。田舎まで普及しているかは不明。今年は、不景気のあおりかちょっとばかり昨年よりも寂しい気がする。

ご無沙汰しました       

2009年02月14日 | 文化
ご無沙汰しました       2009.2.13. 金森正臣

 以前に書いた「カンボジア国際教育支援基金」(CIESF)が動き出した。2月8日から11日まで日本から理事や担当メンバーで構成された事前調査・調整団がカンボジアに来ていた。
 この基金は、かなり大型のプログラムを考えていて、3本柱が有る。1)カンボジアで使える人材の育成のための小・中学校の支援。これは学校の数が多すぎるので、まずは教員養成校の先生の力を上げようとしている。2)その人材が育った時に、働く場が出来ているように、企業家を育てるために経済大学にテコ入れし、さらに大学院を作る。3)教育の行政官たちを教育しなおす教育大学院。後には、これに教員たちが学べる大学院を作って行く。

 視察や副首相・大臣たちとの会談など、忙しい日程を消化した。11日夜にはテレビでも放送されたようで、うちのカウンターパートが、好意的に報道されたと教えてくれた。このプログラムがまともに動くと、数年後にはカンボジアの教育は大きく変わってくるだろうと思われる。

 現在まで多くのドナーが、教育の支援をしてきた。私も最初は、JICA(国際協力機構)の短期専門家として参加した。しかし実際には、大きな進展が見られなかったので、私的に支援を始めて5年が過ぎた。多くの支援が成果を上げらない原因ははっきりしていて、改善するべき問題点を明確に出来ていない。そのために支援をしても、それらしい形にはなるが、実際の問題点には到達しない。この10年間カンボジアの教育を観察してきて、いろいろな問題点の起源が明らかになって来た。やはり一番基になる部分が崩れて始まったカンボジアの教育を直すには、その原点の改善に挑戦するしか無い。

 この基金の1)の部分は、確実に基本の問題を解決する方法であると思われる。それでも、教員養成所の卒業生が良い先生になっても、現職に居る先生の力量を全て上げるためには、数十年の時が必要な気がする。しかし基本が改善されれば、10年程度でカンボジアの先生自身でカンボジアの教育を良くすることが可能になるであろう。基金とは別に、日本の大学で将来の留学生を受け入れ教えて下さっている先生たちと、共同することによって将来の指導者も確実に育っている。日本でも、開国から教育の成果が上がるまでに、100年程度かかっているのであるから、一国の教育を改善するには、数十年は早いのかもしれない。

カンボジアに戻りました             

2009年02月06日 | 文化
カンボジアに戻りました             2009.2.6. 金森正臣

 寒い日本から、2月3日にカンボジアに戻りました。日本の散歩では、毎朝霜や薄氷の中でありましたが、カンボジアは最低気温が25度前後、朝はすぐに30度ぐらいになります。暑いー。でも例年年からすると、かなり涼しい年だと思います。乾期に入って2ケ月ぐらい過ぎているから、例年だと最低気温が27-28度くらいが普通です。

 カンボジアに戻って気がついたのは、意外に体が冷えることです。暑いので汗をかいて蒸発すると、皮膚は結構温度が下がっています。日本に居る時の方が、厚着をしていて汗もかかないから、皮膚の温度は意外に下がらない。皮膚温が下がると、暑く感じてますます汗が出て、皮膚温が下がる循環になり、傷跡にはあまり良くないようです。暑く感じると、薄着になるしあまり良くないな~。以前に山に登っていた頃、同じような経験が有り、冬は意外に冷えないけれども、夏山では良く冷えていました。

 でも毎朝元気に散歩をして、忙しく働いています。日本に帰ると、どうしてもあれこれ食べ過ぎて、少し肥満気味なのでちょうどいいかな。冬はやっぱりブリダイコンだよねーなんて言いながら、たくさん食べるから。
 
 帰国中は、皆様にいろいろとお世話になりありがとうございました。 

バンコク異変

2009年01月26日 | 文化
バンコク異変             2009.1.26. 金森正臣

 日本に帰っても、なかなか時間の余裕も無くゆっくりブログが書けない。バンコクで感じたことを2-3.

 バンコクに着いたのは、1月8日で日本ならまだ正月気分だが、仏教歴でするタイは、いたって普通。でも空港で驚いたことは、人が少ないこと。バンコクはアジアの中心的空港の一つで、いつでも人が溢れていた。でも今回はいつもの6-7割程度。

 昨年12月の空港の閉鎖が、影響していることは確かだ。カンボジアに来たいろいろな人が、影響を受けてコースを変更余儀なくされた。丁度空港でアクシデントに会った人は、そのまま出発できた人と、陸路でカンボジアに出て、カンボジアからか、あるいはベトナムから帰った人もいた。かなり皆さん大変な思いで、バンコクに数日足止めされた人もいた。まだ完全に、客足が戻ったとは言えないようだ。

 タクシーに乗って市内に向かっても渋滞が無く流れがスムーズ。いつもの3分の2程度の時間で、病院に着いてしまった。途中の広告塔にも異変。約2-3割の広告塔に広告が無く空いたまま。これは世界的経済の異変の影響の様。12日の病院から空港へのタクシーでまたビックリ。よってきたタクシーは、500バーツで高速道路を使って空港までと言う。いつもならメーターで、750バーツぐらい。お客が無くて、道路も渋滞しないので、メーターを動かさず、運転手さんのポケットマネーに?時間はいつもの半分ぐらいで空港に着いた。入院していた病院は、地下鉄ナナ駅の近くの繁華街の付近。一度夕方街を歩いたが、以前の様に賑わってはいなかった。


帰国後

2009年01月23日 | 文化
帰国後            2009.1.23. 金森正臣

 正月気分も抜けた13日に日本に戻り、その後いろいろ報告したいことがあったが、なんとなく延び延びになっていました。正臣会で皆さんにお会いして、元気を取りしました。東京で、「カンボジア国際教育支援基金」の準備や理事会が有り、22日には刈谷に戻りました。あまり気がつかずに生活していたのですが、体調があまり良く無く、なんとなくあまり仕事が進まなかった様です。

 バンコクで入院中に、かなりの量の抗生物質や麻酔剤を投入されていたらしく、肌が荒れ、顔などがボロボロ。最初風邪気味でマスクなどをしていたので、マスクに殺菌剤でも付いていたのかと思っていました。しかし今日になって、忘れたように何も無くなり、すっかり薬が体内から抜けたようです。今日で10日目ですから、体内から投薬が抜けるのには、このくらいの時間がかかるのでしょう。ちなみに、若い時に尻から煙が出ると言われるくらいタバコを吸っていました。最後は葉巻を吸いこんでも足りないくらいでした。当時貧乏でしたから、風邪をひいても薬を買う金が無く、友人のお父さんからドイツから来た新しい薬をもらうために、条件としてタバコを止めました。ニコチンが抜けたと感じるまでに6年、夢に見なくなるまでに20年かかりました。

 普段薬をあまり使っていないので、抗生物質や麻酔は良く効きます。しかし、薬に弱いので、歯の治療などで抗生物質や麻酔を受けると2-3日変です。風邪などではほとんど薬を飲んでいないので、結構抗体は良く出来ているように思うのですが。そろそろ正常になりそう。

無事帰国 

2009年01月14日 | 文化
無事帰国            2009.1.14. 金森正臣

 バンコクで左足の金属を抜き、昨日無事帰国した。バンコクではいろいろ驚いたことが有ったが、また2-3日中に報告する。バンコクの病院のシステマティックなことには驚いたし、病院の分業の進み方も日本では見られないほど進んでいる。また、空港の閉鎖の影響や世界経済の影響で、観光客が少なかった。

 手術後は順調で、すぐ次の日から歩いたが、金属を抜いた部分が腫れるので、2日ほどおとなしくしていた。1月8日の20時ころから麻酔室に入り、寝ていたら23時ころには、回復室にいたから、多分手術は1時間程度で済んだと思われる。

 麻酔や抗生物質に超弱い私は、未だ多少その後遺症が有り、消化や体温調整に影響が残っているように思われる。しかし、体調も悪いことは無く、今朝も散歩をして早く体の中の抗生物質などが抜けるように励んでいる。傷口はまだ完全に塞いでいないが、化膿などの心配は無くなっている。ご心配いただいた皆さんに深謝。

 昨日日本に着いた時には、それほど感じなかった寒さが、家に着く頃から感じるようになり、昨日は寒さが抜けなかった。今日はそれほど感じず、快適な1日を過ごした。麻酔をすると、時々後まで体温がおかしくなり、感じ方がいつもと違って戸惑う。しなければならないことは山積しているし、プノンペンにない物を探しておかなければならないので、かなり毎日忙しそうだ。

一時帰国

2009年01月07日 | 文化
一時帰国    2009.1.7. 金森正臣

 明日朝プノンペンを立ち、2月初めに戻る予定。明日は、バンコクの病院に行き、まだ左足に入っている、ステンレススチールを抜く手術を夜の9時からする予定である。日本では考えられない時間帯に、予約が入って少々ビックリ。先生が大学に勤めているために、このような時間帯になるようですが、日本では緊急でもない限りしない様な気がする。

 その後日本に帰り、正臣会やカンボジア国際教育支援基金の会議に出た後、再びカンボジアの予定である。皆さんに、久しぶりにお会いできることが楽しみ。日本は寒そうで、手術の後なのでちょっと心配。

公園で白昼堂々の昼寝

2009年01月04日 | 文化
公園で白昼堂々の昼寝     2009.1.4.  金森正臣

 中央に公園のある通りの芝生の上で、ご婦人が二人堂々の昼寝。シアヌーク通りと言う国王の名前の付いた大きな通りには、中央に芝生や植え込みのある大きな公園がある。その中央の芝生の上で掃除人のおばさん2人が昼寝をしていた。日本ではなかなか見られない風景。
 
 昼下りで暑くも無く寒くも無く快適。カンボジアでは、最高気温はしばしば夕方になる。正午ぐらいは、まだそれほど熱く無い。特に最近は夜の気温が低いから、正午ぐらいまでは、快適な気温。それにしても、多くの観衆のいる中でなかなか大胆。

 写真の左手の後方に見える、屋根の骨組みは、フンセン首相の工事中の公邸。毎朝約30km離れた別荘からヘリコプターで通ってくる。その右手に見える赤い屋根は、北朝鮮大使館。独立記念塔のすぐ脇で、町の中心地。

 市民の生活は貧しいが、カンボジアも平和になって、のんびり生活できるようになったのが何より。

プノンペンの朝の風景 朝食は家の前で

2009年01月03日 | 文化
プノンペンの朝の風景 朝食は家の前で     2009.1.3. 金森正臣

 朝6時半ころ散歩に出ると、家の近くの子どもが、お母さんに朝食を食べさせてもらっている。毎朝のことで、気持ちよさそう。多分1歳未満だが、見かけると手を振ったりする。のんびりとお母さんの膝の上で、30分ぐらいは食べている。毎朝、お水とお粥の様な食べ物だけであるが、いかにも悠々。涼しくて気持ちよさそう。

 日本では、この様な風景を見ることが無くなって久しい。昔は、昼などは畑の畔で、お母さんがゆっくりと授乳していたし、食べる時もゆっくりと食べさせられていた。お嫁さんがゆっくり休めるのは、子どもの食事時間ぐらいだった働かなくてはならない時代であったが、それでも子どもと親の関係は、現在より良かったように思われる。

 貧しい国々にいると、お金が入るようになると、人の心が荒れてくるように感じる。日本では、戦後経済が回復してもしばらくは、子どもの問題は少なかった。最近は社会全体が荒んできて、子どもたちにもその影響が出ている。核家族の価値の単純化や効率主義が招く当然の結果であるが、なかなか大変な時代だ。

 今年が、子どもたちにとって少しでも良い年であって欲しいと願っている。

新年の結婚式

2009年01月02日 | 文化
新年の結婚式        2009.01.02. 金森正臣

 昨日も結局仕事の後片付けで、仕事場で過ごした。夕方ころ以前にプノンペンで働いていた青年海外協力隊員が家に来てくれ、一緒に楽しい夕食。今朝は、快調に起きて散歩。街角で7時ころにバッタリと結婚式の行列に遭遇。日本では正月2日には、あまりしないと思うけど、カンボジアは、1月1日だけは祝日になっているが、西暦の正月はほとんどしないので通常と同じ。写真中央の盛花を持った男性が、花婿。これから行列と共に花嫁の家を訪問して、花嫁に盛花を渡す。受け取ってもらえれば、結婚成立。

 結婚して、一緒に人生をしようとするのは誤りだよと、若い人に言って来た。人生は個人でする物。生活は一緒に協力したら良いのだが、人生は手伝うことも協力することもできない。それぞれが自分の責任でしなければならない。一遍智真上人の播州法語集に「六道輪廻の間には、伴う人も無かりけり、ひとり生まれてひとり死ぬ、生死(ショウジ)の道こそかなしけれ・・・」と言う一節がある。即ち、生死の世界(人生)には、伴う人は無い。このことをよく考えずに、いい加減な甘い考えで過ごすと、結婚生活は誤りが多くなる。出来ることと出来ないことをはっきりと区別しておかなければならない。自分の人生を努力して切り開けるのは、自分しかいない。多少相性が悪くて、いざこざが有っても、それはまた自分を鍛える格好の材料。あまり相性が良すぎて、何も考えずにうかうかと、一生を過ぎしてしまうよりも良いのかもしれない。

 話は変わって、正月の2日は、初夢。枕の下に船の絵を敷いて寝ると、良い夢を見るとの言い伝えがある。元旦は寝ないで遊ぶことが多かったので、初夢は2日になったという説もある。夢の内容は、「一富士、二鷹、三茄子」が良いとされているが、なぜだか不明。夢分析では、到底理解できない。でも古人はなかなか洒落た遊びをしていたように思う。

 今年もいろいろな事が有りそうですが、張り切って行きましょう。身の丈に合わせて。