ゲートボール(GB)日記

まちなかの公園でGBを楽しんでいます。GBは老若男女一緒に楽しめる数少ないスポーツの一つです。まちびと

日本の政治家は食料不足、燃料不足の苦しさを知っているか

2018年01月31日 | Weblog
戦後のことですが、会社が倒産して父は失業しました。
織布会社だったので残布が支給されました。
父はこの布を食料に換えて家族を養いました。
しかし完全に家族は栄養不足でした。
 
近くに陸軍の用地があり、空き地になっていました。
この用地の周辺の人々は集まって陸軍の用地を分け、開墾を始めました。
警察が来ませんでしたから行政は黙認だったのでしょう。
人間生きるか死ぬかというとき、武士は食わねど高楊枝とはいきません。
 
父はこの陸軍用地だけでなく、休耕地を探してあれば使わせてもらう交渉をしました。
さすが農家の次男でした。
 
たんぱく質がないので、殺生(魚とり)によく父と川に行きました。
当時は川には魚がいっぱいいました。
父は大量にとる工夫をしました。
2mぐらいの川で川幅いっぱいに網を張り、上流から魚を追い立て、1回で大量の魚を取りました。
網は自分で編んでいました。
 
大きな川の河口付近でハゼをつりましたが、細い竹棒(釣り竿)を数十本岸に並べ、父と二人で一方から竹棒を上げていくようにして、大量のハゼをとりました。
 
同じ要領ですが、小さい川では、竹棒をやはり数十本岸に並べて大量のザリガニをとりました。
エサは一皮むいたカエルを使いました。
ザリガニはてんぷらにして食べました。
 
ひよこから鶏を育て、卵をとりました。
父は一坪ぐらいの小屋を小さな庭いっぱいにつくり、鶏をたくさん飼いました。
私は鶏の世話をしました。
庭に余裕がないので糞は家の前の道路で干して畑の肥料に使いました。
 
戦後でも料亭がありました。
私は毎日料亭に行き、魚のあらをもらいました。
料亭の人は私のためにあらを残しておいてくれました。
骨と骨の間の肉が私達家族のお腹の中に入りました。
 
燃料(木材)については父は製材所と交渉して、廃材をもらうようにしました。
家族総出でリヤカーに廃材を山と積み、家に持ってきて燃料としました。
 
結果的には栄養不足でしたが、家族は餓死することはありませんでした。
 
この経験から言うと、朝鮮(北)の人々が政府を無視していろいろな方法で必死に家族を守っていた場合、私はこの政府無視を非難する気はありません。
彼らの密貿易(法無視)だって非難する気はありません。
見つからないようにうまくやれと思います。
何が何でも生きよと思います。
 
気軽に制裁という日本の政治家は、戦後の食料不足、燃料不足のときの日本人の苦しみを知っているでしょうか。
どこの国でも政治家って人間性がないなと思います。