東南アジアではロヒンギャ難民が大問題になっています。
大雑把に言えばミャンマーのバングラデシュとの国境近くに住むイスラム系の人々(ロヒンギャ)と、仏教系の人々の暴力的争いが長年続いて来ましたが、ミャンマー政府もロヒンギャ追放の方針をとったので、昨年夏から仏教系の人々などの暴力が過激になり、ロヒンギャが大半バングラデシュ側に難民となって逃げました。
ミャンマーの民主化が進む中で難民大量発生となったので国連、あるいは世界は衝撃を受けています。
ロヒンギャと仏教系の人々の争いは非常に深刻で、ミャンマーも、バングラデシュも、国連もこの難問に頭をかかえています。
国連は死に瀕しているロヒンギャ難民を助けることで精一杯です。
すべての違いを乗り越えて世界の人々が仲良く生活することは理想ですが、現実はそうはなりません。
文化の違っている人々から圧力を受け、あるいは感じて反感を持たない人はいません。
生活・生産における自分の工夫努力が足りない場合でも自分が押されていると感じれば怒りや憎しみを覚えます。
怒りや憎しみが集団性を帯びたら争いは深刻です。
国の安定を考えるなら文化の違いからくる集団性を帯びた争いが起こらないように政府は注意しなければなりません。
日本では大昔神道系社会に仏教系の人々が朝鮮半島などから入って来たことで神道系の人々と仏教系の人々の争いが起きたと思いますが、もともと神道は多神教でしたので、日本に入ってきたいろいろな仏が存在する大乗仏教は融合しやすかったのではないでしょうか。
仏教と一緒に入ってきたいろいろな文化は先進的で歓迎する人が多かったと思います。
キリスト教やイスラム教は一神教であり、これらはなかなか日本では信者が増えません。
キリスト教と一緒に入ってきたいろいろな文化はやはり先進的でしたが、先進的な文化はキリスト教と切り離して歓迎されました。
神道系の人も仏教系の人もキリスト教に付随して入ってきた文化を容易に理解できたので別にキリスト教に驚かなかったのでしょう。
日本でキリスト教やイスラム教が問題になる時は、キリスト教やイスラム教を信じる外国人が集団性を帯び、神道系や仏教系の日本人に圧力を加えるか、感じさせる時でしょう。
キリスト教あるいはイスラム教の外国人が日本に来て日本人に宗教の話をしても、日本人は宗教に関心を示しません。
戦後は日本に来てキリスト教布教につとめた外国人牧師などが非常に多く、地方の町にもいたほどでしたが、今はほとんどいないでしょう。
未開の日本人を教化すると思ったのですが、布教の成果は上がりませんでした。
日本人は自分を未開などと思っていませんでした。
外国人牧師などは英語教師に利用されたリしてやりがいがなかったことでしょう。
イスラム教系外国人が増えて集団的生活をするようになると日本でも問題になる恐れはあると思います。
イスラム教の外国人に会うと日本人はイスラム教はタブーが多くて大変ですねなどと同情します。
また日本人は自分の宗教について人に言いません。
やがて文化の違いを強く感じて日本人と話し合わなくなります。
イスラム教系外国人は自分の町を形成しやすいと思います。