EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑紀行 15 伊予郡松前町の碑 

2015年12月07日 | 伊予松山歴史散策
この記念碑の紹介は、財団法人常盤同郷会元理事、鷹尾清文氏の紹介である。
記念碑は、旧伊予郡岡田村北川原の大西和一郎氏88歳・米寿のお祝いに秋山好古が揮毫し、大西二郎氏(和一郎氏の長男)が建立した。
和一郎氏は、天保12年「1841年」生まれで好古より18歳年上である。温泉郡生石村の村長を県知事に勧められ就任、村内種々の難問を解決、また地元の耕地整理にも多大な尽力をし、教育についても理解があり特に北豫中学に側面から支援したと言われている。
昭和2年陸軍歩兵第22連隊秋季演習時に際し、連隊長と連隊旗が宿泊された由緒あ
る家系である。
好古揮毫との関わりは北豫中学に多大な支援をして頂いたお礼に揮毫した。
個人の邸宅にある石碑はこれ1基だけである。

1.碑   文 :  米壽記念
2.所 在 地:  伊予郡松前町北川原347番地  大西 宏和氏邸宅内
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  大西 二郎
5.建立年月日:  昭和4年3月 「御大典奉祝記念」に際して
6.碑石大きさ:  高さ・1m 53cm  幅・52cm  



伊予郡松前町北川原の大西宏和氏邸宅内にある、大西和一郎氏88歳・米寿のお祝いに
秋山好古が揮毫した石碑である。
現在、好古が揮毫し建立されている石碑は全国に52基発見されているが、個人の邸宅にある石碑は此れのみである。


刻印の文字も深く、石も立派なもので、石工さんはいい仕事をされている。


屋敷も立派である。記念の石碑は、母屋の門を潜り、主屋までの間に建立されている。


昭和2年、陸軍歩兵第22連隊の秋季演習が行われた時連隊長と連隊旗が宿泊した由緒ある家柄である。
松山の歩兵第22連隊旗手として有名な人物が居る。・・櫻井 忠温である。
忠温(ただよし)は、明治12年6月11日、愛媛県松山城下の小唐人町(現・松山市大街道1丁目)に元松山藩士(士族)の3男として生まれる。明治32年、松山中学校を卒業、明治34年11月、陸軍士官学校卒業(13期)、その後、松山の歩兵第22連隊旗手として日露戦争に出征。乃木大将軍配下、旅順攻囲戦で体に8発の弾丸と無数の刀傷を受け、右手首を吹き飛ばされる重傷を負う。余りの重傷に死体と間違われ、火葬場に運ばれる途中で生きていることを確認されたという。
帰還後、療養生活中に執筆した実戦記録「肉弾」を明治39年に刊行。戦記文学の先駆けとして大ベストセラーとなり、英国、米国、ドイツ、フランス、ロシア、中国など15カ国に翻訳紹介された。
陸軍歩兵第22連隊旗は歴史のある連隊旗である。
櫻井 忠温は、秋山好古・秋山眞之の後輩で、秋山好古とは20歳違い、秋山眞之とは、11歳違いの後輩である。


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道後温泉本館年末大掃除 館内見学会 5終わり

2015年12月06日 | 伊予松山歴史散策
道後温泉本館年末大掃除 館内見学会の様子を5回に分けて紹介しましたがこれも持ちまして最後といたします。
最後は、霊の湯3階席に行ってみましょう。
3階席は全て個室で、8部屋あり、利用料金は1550円、営業時間は、午前6時から午後10時まで、利用時間は、1時間20分以内、北側の一番西端の部屋が「坊ちゃんの間」として開放されており、自由に見学が出来ます。
夏目漱石が、松山中学の英語教師としてこの地に来たのは、明治28年4月、そのころ道後温泉本館は木の香りも新しい建物でありました。「道後温泉は立派な建物で8銭出すと3階に上がり、茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれる始末、随分結構に御座候」と東京に手紙を書き送っている。
新築の道後温泉で、浴槽で泳ぎ、団子を食べ、赤い手ぬぐいを使い随分と楽しんだ。今でも道後温泉で貸し出されるタオルは、赤いタオルです。
坊っちゃんの間を覗いてみて下さい。漱石が通った頃の面影が味合う事が出来ます。
今回の年末大掃除見学会に参加して日頃見る事の出来ない道後温泉を見る事が出来関係者に感謝します。

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「いで湯と城と文学の町 四国・松山」この言葉が松山市のキャッチフレーズです。その文学の街を創り上げた人が、正岡子規で、東京大学同級生の夏目漱石その一人です。
3階にある坊っちゃんの間を覗いてみましょう。


3階にある坊っちゃんの間で自由に見学出来ます。
この部屋も大掃除で畳替えの為床板状態となっていた。
明午前6時までには新調された真新しい畳が敷かれる。


部屋があまり広くないので多くの資料は展示されてないが、明治28年夏目漱石がこよなく愛した道後温泉、そしてこの部屋を利用しました。その頃の面影が伺えます。


夏目漱石の代表する写真が掲示してあります。
漱石は、筆名で、本名は、金之助、正岡子規は沢山の俳号があり、漱石も正岡子規の俳号の一つであった。金之助は子規に頼み漱石を譲り受け夏目漱石となった。
なお、正岡子規も子規は、俳号で、本名は、常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。


夏目漱石と正岡子規、この絵も3階にある坊っちゃんの間に飾れている。
漱石は、松山には1年しか居なかったが、その間子規とよく吟行している。


3階にある、霊の湯の3階席で、全て個室、8部屋ある。
この日大掃除であるため画像の様になっていたが・・


営業時間帯は、画像の様になっており入浴客を迎え入れる。


そして霊の湯3階席を利用すると画像の様に、湯上りには、お茶と坊っちゃん団子で持て成される。


本館は、増築が3回行われており内部は迷路となっているので表示板が掲げてある。


画像の人が、伊佐庭如矢で、この吾人が町議会の猛反対を押し切り本館改築をした。
如矢は、松山城も残す大仕事をしている。現在の松山市の観光資源は、松山城と道後温泉、この人いなければ今の松山市の発展はないのである。


道後温泉本館利用料金一覧


江戸時代後期の道後温泉絵図


明治初期の道後温泉、現在の三層になる前の姿


明治27年三層に改築された道後温泉本館、その後増築を3回行い、大正13年玄関棟を増築し正面玄関を現在の姿に改築した。
平成21年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において2つ星に選定された。同年、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定。
平成6年12月、神の湯本館、又新殿(ゆうしんでん)・霊の湯棟、南棟、玄関棟の4棟が国の重要文化財に指定された。
明治27年三層に改築された大工は、安政元年再建された松山城天守を建築した宮大工が造った建物なので丈夫で頑丈、大きな地震を三回耐えてきた。・・流石宮大工の匠の技である。しかし121年経過した建物、2年後に愛媛で国民体育大会が開催される、愛媛国体が終わってから耐震構造も加味した改築が行われる。


現在の道後温泉本館、大正13年に現在の正面玄関に変更された。
正面玄関の扁額「道後温泉」は獅子文六の小説「てんやわんや」の松竹映画化のロケが昭和25年6月5日、行われその時上げられ、現在の扁額は第2代目である。なお、映画の主演は、佐野周二・淡島千景であった。


冠山からみた道後温泉本館、3回の増築で館内に入ると迷路である。
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道後温泉本館年末大掃除 館内見学会 4

2015年12月05日 | 伊予松山歴史散策
前回、神の湯の浴室を紹介しましたが、今回は霊の湯を紹介します。
霊の湯の施設利用料金は、3階席(個室)が1550円、2階席は1250円で、3階席を利用すると、湯上りに道後名物坊っちゃん団子とお茶が出され浴衣姿で暫しの寛ぎが出来ます。2階席は、お茶とお菓子でお接待があります。
松山大空襲は昭和20年7月26日夜半からB29の爆撃機で攻撃を受けたが道後温泉は攻撃から外されていた。
それでは、霊の湯を見て下さい。
NHK坂の上の雲のロケ「秋山淳五郎眞之と父、久敬」で温泉に入浴し暫しの会話をする場面がありましたが、霊の湯で撮影されました。


霊の湯は、男女各一つの浴室があり、神の湯に比べてこじんまりとしており、石材は、庵治石と大島石を使った浴槽で、壁は大理石を使い高級感たっぷりに仕上げられている。


もし道後温泉に観光で来られ入浴される時は、是非霊の湯2階席をご利用ください。霊の湯には地元の人は殆ど入りませんからすいてます。


道後温泉のお湯は42度と少し高めで、お湯は源泉掛け流しである。




坂の上の雲で、淳五郎(眞之)と父、久敬が入浴する画面は、ここ霊の湯で撮影されました。
眞之が22連隊(鎮台)の兵士と喧嘩をして警察だたになった。 
画面のやりとりは、
淳五郎(眞之)・・「お父さん何故警察に行ったんじゃ・・」
久敬・・「わしの道楽じゃ、ほっといたらお前が警察にどなりこむ勢いじゃったけんのう」・・と言う会話でした。


この画面は、
久敬・・「淳、肝心なことは戦さまで勝ちはとっとけ・・短気は損気、急がわ廻れじゃ・・」こんな場面でした。


見学者もお湯のない浴槽に入ってみた。


霊の湯の洗い場


霊の湯の脱衣場で職員が綺麗に大掃除をしていた。


霊の湯の脱衣場、アナログ式の体重計も置かれていた。


霊の湯の2階席で、ここも畳は取り除かれていたが、新調された畳が朝6時までには敷かれお客を待つ。


霊の湯の2階席で日頃は画像の様になっている。
湯上りには、浴衣を着てお茶とお菓子で持て成される。

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道後温泉本館年末大掃除 館内見学会  3

2015年12月04日 | 伊予松山歴史散策
伊佐庭は、道後温泉本館改築と同時に中世の城「湯築城」を公園として整備し、道後温泉に来た人々の憩いの場所とし提供するとともに、ゆざらし団子も作った。これが後の坊っちゃん団子となる。
今年改築121年、平成6年12月27日全国初の外湯建造物が、国指定の重要文化財に指定された。
伊佐庭如矢が長い目で見た道後温泉発展の基盤とした事が今脈々と受け継がれ松山市の観光資源であり多くの人々が道後温泉に観光旅行に来ている。
道後は何もない所だが国指定の重要文化財に指定された建物と日本最古の温泉町である。
前置きが長くなりましたが私が一番写真に収めたかった浴室を見てみましょう。
本館には、2種類5つの浴室がある。浴室は全て1階にあり、神の湯2階席、霊の湯3階席を利用するお客様もここのお風呂に入る事になる。
今回見学できたのは、神の湯男性用東浴室と神の湯女性浴室、霊の湯男性浴室であった。
また映画、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」のモデルとなった。


明治27年に造られ121年の歴史を持つ此の浴室は、神の湯男性用の東浴室で明治28年夏目漱石が泳いだ浴槽です。
浴槽は、庵治石や大島石、壁には大理石を使い、造りは贅沢で、観光客の皆さんが天下の名湯道後温泉を楽しむにはいい格好で、唯入浴するだけでなく芸術を楽しむ志向が取り入れられている。よくぞ造ったものだ。
高が温泉然れども温泉である。


浴室は、湯を抜いてから未だ数時間しかたってないので室内は温もりが残っていた。
神の湯男性用の浴室は二つありその一つで、明治27年改築された当時の「一の湯」の浴槽です。一の湯に入浴出来たのは、僧侶、宮司、士族であった。
湯釜は本館が改築完成した明治27年当時のものである。


明治28年夏目漱石が泳いだ浴槽です。浴室には「坊ちゃん泳ぐべからず」の禁止札が今もかかっている。
昭和20年11月、松山に連合軍が進駐して来た時接収され一時期進駐軍が専用で使用した浴槽である。


夏目漱石は毎日坊っちゃん列車に乗り道後温泉に通いこの浴槽で人のいない時を見計らって泳いだのでしょう。そこを誰かに見られ告げ口をされたのでしょうか? 入浴後には、ゆざらし団子を食べて帰ったそうです。・・それが今の坊っちゃん団子です。当時の店が健在です。


男性用の神の湯東浴室の洗い場に「湯玉」が彫られている。道後温泉は日本最古の温泉と言われているが、湯玉の印の個所から源泉が湧き出ていて、傷ついた白鷺が飛んで来て傷を癒したのが道後温泉の始まりです。そして最初の湯釜をここに据えて道後温泉は開かれた。その時の湯釜は道後湯築城跡(道後公園・子規記念博物館の南)北口に保存されている。


これが初代の湯釜で、県指定の文化財、昭和29年11月24日、指定を受けた。大きさは、直径166,7cm 高さ157,6cmの円筒形、花崗岩の湯口で、天平勝宝年間(749~757)に創られ、正応元年(1288)河野通有の依頼により一遍上人が湯釜の宝珠に南無阿弥陀佛の6字の名号を彫ったと言う。この湯釜は現在の道後温泉本館が出来るまで使われた貴重なものである。


次の浴室は、神の湯女性用の浴室で男性用は二つあるが、女性用は一つですが浴槽が大きいです。


幼少時代母親に連れられて女性用の浴槽に入った時は、浴槽の下に砂が敷き詰められていた事を覚えている。砂は衛生上良くないのか取り除かれた。
男性達は初めて見る女性浴室、りっぱな造りに感心していた。121年の経緯を感じさせない新しさを感じさせる技法である。


浴室は、札止め22時30分で、23時で営業終了、それから浴槽の湯を抜き職員は掃除に取り掛かり、午前6時営業開始に間に合わせる。お湯張りは午前3時頃から行う。


浴室には大きな絵が二つ掲げられている。(砥部焼のタイルで)
その一つが、道後温泉の始まりとなった白鷺である。脛に傷を負って苦しんでいた一羽の白鷺が岩間から噴出する温泉を見つけ、足を浸したところ傷は完全に癒えて元気に飛び去った。これを見ていた人達は大変不思議に思い入浴してみると、爽快で疲労が回復、病人も何時の間にか全快したことから盛んに利用されるようになった。伝承に由来する白鷺の足跡の残った鷺石が現在、放生園に保存されている。


二つ目の壁画は、「玉の石」と大国主命と少彦名命で、出雲国の大国主命と少彦名命が伊予国を旅した時のこと。急病に苦しむ少彦名命を入浴させるとたちまち元気を取り戻し、喜んだ少彦名命は石の上で踊りだしたそうです。その絵画。


喜んだ少彦名命は石の上で踊りだしたと言われる石「玉の石」です。
本館北側に保存されています。・・お参りをする人絶えない。


「玉の石」に湯をかけ願い事を祈願する人も。お湯は道後温泉の源泉が用意されている。


道後温泉のシンボル「白鷺」は本館最上部「振鷺閣」の上に本館正面から道後温泉の繁栄を祈り護っている。

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道後温泉本館年末大掃除 2

2015年12月03日 | 伊予松山歴史散策
一昨日、(12月1日)、道後温泉本館の恒例の年末大掃除が行われた。
2年前から本館内の年末大掃除見学者を公募で限定20名募集しての見学が実施されている。
今年応募して20名の仲間入りが出来カメラ持参で見学会に行って来た。
道後温泉本館は、明治27年に初代道後町長、伊佐庭如矢が老朽化していた道後温泉建物の改築と、100年後を見越した道後温泉観光地としての発展を願って、就任早々自らは無給とし、その給料分を温泉の改築費用に充てることとした。総工費は13万5千円。
当時の小学校教員の初任給が8円といわれた時代で、あまりに膨大な予算に町民は驚き、町の財政が傾きかねない無謀な投資だと非難が起こった。
反対運動は激しさを増し、夜間自宅まで押しかけその為奥さんは心労で亡くなり、伊佐庭自身も命の危険を感じるほどであった。
しかし伊佐庭は、この事態には動じず、道後温泉が100年たっても真似の出来ない建物を造ってこそ意味がある。
人が集まれば町が潤い、百姓や職人の暮らしも良くなる。と誠心誠意を持って町民を説得してこの偉大な建物を完成させた。
棟梁に宮大工の坂本又八郎を起用し、唐破風を使用した姿を現した木造三層は、当時でも大変珍しがられた。また、本館最上部に振鷺閣(刻太鼓を鳴らす場所)を建てた。この建物も経費がかさむと議会から反対を受けたが、町の火の見櫓として町民の安全に必要として反対を押し切って造った。
現在、刻太鼓は、朝6時の開館時に6回、正午に12回、午後6時に6回鳴らしている。
平成8年に環境庁の日本の音風景百選に指定された。
今回は、伊佐庭如矢が命を掛けて創り上げた道後温泉本館内を画像で見てみましょう。・・日頃は撮影出来ない所です。


道後温泉事務局職員さんの案内で、先ずは外観から道後温泉本館内の年末大掃除見学会は始まった。


館内の年末大掃除見学会には外国人も応募していた。このメンバーが館内見学をした。


館内は、又新殿入口から入り先ずは、神の湯二階席から見学した。


神の湯二階席で、畳は早朝に除けられ畳床となり、既に床板も綺麗に掃除されていた。畳は新調され朝6時開館までに入れられる。床板も121年前のもの傷みが無く綺麗であるが歴史を感じるものがあった。
営業中は、此処に畳が敷かれ湯上りに接客員がお茶と浴衣を出しお客は一時のくつろぎの時を過ごす。


神の湯二階席の飾り棚には蜷川実花さんの大きな作品が展示してあった。


神の湯二階席の床板には、明治27年本館改築に携わった宮大工、坂本又八郎の配下の大工の名前が書かれていた。


宮大工、坂本又八郎の配下の大工の名前がここにも書かれていた。いい仕事をしたのでしょう。・・初代道後町長、伊佐庭如矢が命掛けで取り組んだ大事業、それを察しての坂本又八郎もそれに応じての仕事をした。


神の湯二階席、女子職員が丁寧に敷居を雑巾で拭いていた。障子には蜷川実花さんの作品が取り付けてある。


神の湯二階席の廻縁側に蜷川実花さんの作品をライトアップに使われる装置が3mおきに取り付けてある。


神の湯二階席の接客担当職員の職場、此処で湯を沸かし、湯上りのお客さんにお茶のお接待をする。


浴槽の外はこんな格好になっている。


本館建物は、増築が3回行われていて、館内は迷路である。浴槽の外からみても色んな建物が入り組んである。本館は、121年間火災を起こしていない。
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