EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

道後温泉本館年末大掃除 館内見学会 5終わり

2015年12月06日 | 伊予松山歴史散策
道後温泉本館年末大掃除 館内見学会の様子を5回に分けて紹介しましたがこれも持ちまして最後といたします。
最後は、霊の湯3階席に行ってみましょう。
3階席は全て個室で、8部屋あり、利用料金は1550円、営業時間は、午前6時から午後10時まで、利用時間は、1時間20分以内、北側の一番西端の部屋が「坊ちゃんの間」として開放されており、自由に見学が出来ます。
夏目漱石が、松山中学の英語教師としてこの地に来たのは、明治28年4月、そのころ道後温泉本館は木の香りも新しい建物でありました。「道後温泉は立派な建物で8銭出すと3階に上がり、茶を飲み、菓子を食い、湯に入れば頭まで石鹸で洗ってくれる始末、随分結構に御座候」と東京に手紙を書き送っている。
新築の道後温泉で、浴槽で泳ぎ、団子を食べ、赤い手ぬぐいを使い随分と楽しんだ。今でも道後温泉で貸し出されるタオルは、赤いタオルです。
坊っちゃんの間を覗いてみて下さい。漱石が通った頃の面影が味合う事が出来ます。
今回の年末大掃除見学会に参加して日頃見る事の出来ない道後温泉を見る事が出来関係者に感謝します。

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「いで湯と城と文学の町 四国・松山」この言葉が松山市のキャッチフレーズです。その文学の街を創り上げた人が、正岡子規で、東京大学同級生の夏目漱石その一人です。
3階にある坊っちゃんの間を覗いてみましょう。


3階にある坊っちゃんの間で自由に見学出来ます。
この部屋も大掃除で畳替えの為床板状態となっていた。
明午前6時までには新調された真新しい畳が敷かれる。


部屋があまり広くないので多くの資料は展示されてないが、明治28年夏目漱石がこよなく愛した道後温泉、そしてこの部屋を利用しました。その頃の面影が伺えます。


夏目漱石の代表する写真が掲示してあります。
漱石は、筆名で、本名は、金之助、正岡子規は沢山の俳号があり、漱石も正岡子規の俳号の一つであった。金之助は子規に頼み漱石を譲り受け夏目漱石となった。
なお、正岡子規も子規は、俳号で、本名は、常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。


夏目漱石と正岡子規、この絵も3階にある坊っちゃんの間に飾れている。
漱石は、松山には1年しか居なかったが、その間子規とよく吟行している。


3階にある、霊の湯の3階席で、全て個室、8部屋ある。
この日大掃除であるため画像の様になっていたが・・


営業時間帯は、画像の様になっており入浴客を迎え入れる。


そして霊の湯3階席を利用すると画像の様に、湯上りには、お茶と坊っちゃん団子で持て成される。


本館は、増築が3回行われており内部は迷路となっているので表示板が掲げてある。


画像の人が、伊佐庭如矢で、この吾人が町議会の猛反対を押し切り本館改築をした。
如矢は、松山城も残す大仕事をしている。現在の松山市の観光資源は、松山城と道後温泉、この人いなければ今の松山市の発展はないのである。


道後温泉本館利用料金一覧


江戸時代後期の道後温泉絵図


明治初期の道後温泉、現在の三層になる前の姿


明治27年三層に改築された道後温泉本館、その後増築を3回行い、大正13年玄関棟を増築し正面玄関を現在の姿に改築した。
平成21年3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において2つ星に選定された。同年、経済産業省の「近代化産業遺産」に認定。
平成6年12月、神の湯本館、又新殿(ゆうしんでん)・霊の湯棟、南棟、玄関棟の4棟が国の重要文化財に指定された。
明治27年三層に改築された大工は、安政元年再建された松山城天守を建築した宮大工が造った建物なので丈夫で頑丈、大きな地震を三回耐えてきた。・・流石宮大工の匠の技である。しかし121年経過した建物、2年後に愛媛で国民体育大会が開催される、愛媛国体が終わってから耐震構造も加味した改築が行われる。


現在の道後温泉本館、大正13年に現在の正面玄関に変更された。
正面玄関の扁額「道後温泉」は獅子文六の小説「てんやわんや」の松竹映画化のロケが昭和25年6月5日、行われその時上げられ、現在の扁額は第2代目である。なお、映画の主演は、佐野周二・淡島千景であった。


冠山からみた道後温泉本館、3回の増築で館内に入ると迷路である。
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