EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

假屋崎省吾・伊予松山城天守に華麗な生花

2015年12月13日 | 伊予松山歴史散策
華道家、假屋崎省吾さんが歴史のある建造物、現存12天守の一つ伊予松山城天守内に「假屋崎省吾の世界・華のお持て成しin松山城」を12月25日(金曜日)まで開催している。
開催時間は、午前9時から午後4時30分まで、料金は、天守観覧券(通常の入場料で見学可能)12月16日(水曜日)は年末大掃除で休業します。
松山城天守は、初代伊予松山城主、加藤嘉明が築城した5層の天守台に、現在は3層の天守を再建しているので各階の面積が広く、今回の様な大掛かりな展示会が出来ます。是非一度ご覧ください。豪快な生花ばかりです。
假屋崎省吾さんは、歴史的建造物で個展を開いておられますが、天守内で、それも安土桃山時代から江戸時代に建造された天守は、全国に12の天守しか残っていない歴史的建造物、天守で、華麗なる花の美を試みたのは初めてではないでしょか。
今日も、近県から多くの人々が假屋崎省吾さんの作品鑑賞に来られ大きな創作品に驚いていた。
今の松山城天守は、築城以来の華やかな天守です。




假屋崎省吾さんの作品鑑賞に来られ会場となっている天守に向かう観光者・・昨日(12月12日撮影)
此れからの画像は、昨日(12月12日)撮影した画像です。



























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秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」新潟市市民文化遺産認定証書交付される

2015年12月12日 | 伊予松山歴史散策
昨年、新潟市が市民文化遺産を創設、秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」が認定され、新潟日報新聞の記事になった事は私のブログ(平成26年7月10日掲載)に掲載しましたが、この度認定書が公布され昨日(12月10日)推薦先の、新潟市江南区横越コミュ二ティ協議会に認定書が公布されそれの写しが私に送られて来ましたのでブログに掲載いたします。
認定日は、平成26年3月13日付なのに認定書の交付が1年以上遅れています。その理由は分かりません?です。
なお、新潟市民文化遺産に認定された遺産は、市内各地区から文化遺産となる貴重な遺産が200件余りが推薦され、認定調査委員会が調査・ 審査した結果159の遺産が認定、平成26年7月5日付の新潟日報新聞にその内容が記事になり、記事の見出しの写真に取り上げられたのが秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」でありました。
新潟市民文化遺産制度は下記の通りです。
「新潟市の郷土の宝を再認識を促す」 を目的で、認定基準は「郷土の歴史や文化を象徴しているもの「世代を超えて地域で 受け継がれ、今後も保存すべき貴重なもの」とする・・が対象です。
対象となる文化遺産は「建造物・旧跡・記念碑・芸能・有形・無形文化財の等々」だそうです。
新潟市江南区横越地区からは、秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」を推薦する事に 横越コミュ二ティ協議会(平成25年10月16日開催)の会議で決定し今回晴れて認定されたものです。
新潟市は、認定文化遺産を紹介するガイド ブックを発行する予定とありますが、認定書の交付が遅れていると言う事は、・・ガイド ブックの発行はかなり遅れるのではないか?です。
認定書は、松山市の秋山兄弟生誕地に掲示して来館者に見て頂く様準備をします。
写真等々の掲載は重複しますが再度掲載します。
なお、全国の自治体で市民文化遺産制度を制定している自治体は、京都市・岩手県遠野市・新潟市の3市のみです。


新潟市市民文化遺産に認定証書で何故か交付が遅れていた。
全国の自治体で市民文化遺産制度を制定している自治体は、京都市・岩手県遠野市・新潟市の3市のみです。


新潟日報は、新潟市市民文化遺産認定を記事として7月5日付で掲載した。記事に使った写真が秋山好古揮毫した「忠魂碑」であった。新潟日報新聞は昨日(7月9日)新潟市の神田氏から送って頂いた。


秋山好古の生誕地愛媛県松山市、地元紙愛媛新聞でも、新潟市市民文化遺産認定を報じた。


1.碑   文 :  忠魂碑
2.所 在 地:  新潟県新潟市江南区沢海二丁目15番30号 日枝神社
3.揮 毫 者:  陸軍中将 秋山好古
4.建 立 者:  賀表講
5.建立年月日:  大正2年7月 
6.碑石大きさ:  高さ 2m70cm 横幅 1m48cm 厚さ 42cm


忠魂碑の揮毫は、秋山好古が、第13師団長として大正2年に新潟県高田に赴任していた時に、横越村の村長さんが新潟県知事伊澤知事さんに、忠魂碑の文字を揮毫依頼し、そして伊澤知事が秋山好古にお願いしたそうです。伊澤知事は、奇しくも前任地が愛媛県であり、好古は伊澤知事を「私の郷里愛媛県で財政を立て直した有能な知事である新潟県でもいい仕事をすると思いますと」新潟県民に紹介しております。
伊澤知事はその後、東京市長を歴任後、東京警視庁総監になられた。








遺族会の関係者一人一人が祭壇の奥に見える忠魂碑に向かって玉串を供え英霊に拝した。
私は、秋山好古が揮毫した石碑の調査を現在も調査しているが、現在全国に51基の石碑が発見されている。内訳は、東京都1基、千葉県3基、神奈川県1基、静岡県1基、新潟県2基、愛媛県43基で、その内慰霊碑(忠魂碑・慰霊碑・表忠碑・招魂碑)が20基ある。忠魂碑の前で慰霊祭を開催しているのは、ここ新潟市江南区沢海の忠魂碑だけである。この事も踏まえて新潟市は、市民文化遺産の一つとして認定されたものと私は思います。


忠魂碑は、日露戦争で戦死された三名の兵士と、先の大戦(大東亜戦争)で戦死された兵士の方々との合同慰霊祭として毎年9月に忠魂碑の前で開催されている。私も平成22年9月6日に開催された慰霊祭に参列させて頂き写真を撮らせて頂いた。
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秋山好古揮毫石碑紀行 17 今治市大西町の碑

2015年12月10日 | 伊予松山歴史散策

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲第3部」放映前にNHK松山放送局が製作した「碑文に残された好古の思い」の中で使われた石碑の一つが、今治市大西町の 衆心和暢化乃成の石碑でした。



1.揮毫碑文  :衆心和暢化乃成
2.所在地   :今治市大西町山之内小山「山之内薬師堂境内」
3.建立年月日 :昭和3年1月
4.揮 毫 者 :好古
5.建立者   :建設連名:代表 近藤 大作
6.碑石大きさ :高さ・3m30㎝ 横幅・1m60㎝ 厚み・13cm


参考資料1:碑石建立は、好古と親交があった、近藤大作氏が揮毫をお願いし
て標記碑文の碑を建立したと言われている。碑石の石材は花崗岩であるが石
碑裏面に建立に関係した建設者36名・世話人8名の氏名が刻印されている
が名前の読み取りが困難である。
 石碑の周囲に桜が4本・松が2本植樹されている。
石碑の前に平成19年に大西町史談会が設置した説明版がある。
※ 石碑所在の連絡を頂きましたのは、今治市観光ガイドの菅 正憲 様です。ありがとうございました。
※ 衆心和暢化乃(しゅうしんわちょうかだい)成(せい)とは
衆心⇒みんなの心が 
和暢⇒やわらぎのどかであれば(のびやか) 
化⇒教育は 
乃⇒まさに(間違い無く)  
成⇒実ってゆく 

出展ナシ 
                           

参考資料2:近藤 大作さんとは:
明治11年越智郡朝倉の古谷で長井家の次男として誕生し、愛媛県師範学校を卒業、小学校教員となる。
明治41年この地の近藤家の養子となり弓削小学校校長、大正3年新居郡視学・愛媛県視学と歴任。(現在の新居浜市・西条市)大正10年今治第二尋常高等小学校(現 美須賀小学校)校長に就任。
大正13年病気療養の為退職。(秋山好古北予中学校校長就任・松山で元内閣総理大臣、清浦奎吾さんとの出会いの年)
昭和2年小西村村長に就任、昭和21年まで連続5期村長を務めた。
石碑建立は昭和3年(昭和天皇即位大典)、近藤大作が村長に就任して間もない頃、陸軍大将従二位の偉人であり教育者、そして北豫中学校長として名声のある秋山好古を、近藤大作は尊敬していたので、この石碑建立にあたって揮毫を依頼した。
秋山好古の信条、簡単明瞭・質素にして清く正しく心豊かであれ。
そして世の為、人の為、故郷の為に尽くせる人間になるようにと、母貞から小さい時から強く躾をされた。此れを基盤に人生を送って来た生き方に尊敬の念を抱いていた、近藤大作(小西村長)は、好古に揮毫を依頼し、好古さんも石碑建立の経緯を確かめ、その事に感銘をうけ好古オリジナルの漢詩で答えたのであろうと推察する。「小西村を背負って立つ教育をしていくには・・との思いを篭めて揮毫した。」

参考資料3:藩政時代、小西村は伊予松山藩に属し、昭和30年3月、大井村と小西村との合併で大西町が誕生。平成17年1月16日、今治市と合併自治体としての大西町の歴史を閉じた。


今治市大西町山之内小山「山之内薬師堂境内」にある「衆心和暢化乃成」の石碑で少し高台にある。当時の村長、近藤大作が尊敬する秋山好古に、此れからの小西村の振興発展には教育が必要である。大人も子供も生涯教育推進を目指す近藤大作村長の意気込みを感じ、秋山好古は気概を感じ取「衆心和暢化乃成」を揮毫した。


今治市大西町山内・薬師堂にある秋山好古揮毫石碑「衆心和暢化乃成」
石碑の大きさ:高さ3m30cm 横幅1m60cm 厚み13cm
村人から何時も目に付く高い場所に建立した。


「衆心和暢化乃成」秋山好古のオリジナルで出典されてない。
意味は、衆(しゅう)心(しん)⇒みんなの心が ・多くの人の考えが 
和暢(わちょう)⇒やわらぎで、のどかであれば・(のびやかであれば) 
化(か)⇒教育は・(教えを導く事)
乃(だい)⇒まさに(間違い無く) 
成(せい)⇒実ってゆく    



建立年月日、昭和3年1月と刻印されている。


建立に携わった人38名と建立の世話人8名、代表者近藤大作の名前が刻印されているが、風化が激しく判読困難。


石碑はこんなに薄い石材。


山内薬師堂で、ご本尊は薬師如来である。
薬師堂は、薬師如来を本尊とする仏堂の呼称である。
薬師如来が病気平癒の仏とされることから、製薬や医療の分野でも「薬師堂」の名前が使われることがある。また、薬師堂があった場所の地名となっているところもある。
小西村の村民の健康維持と村の平和、五穀豊穣を祈念して自分はもちろん、家の人などが長く治らない病気になったときにこのお堂に泊り込み、病気が治るよう薬師様にお祈りをしたのだと言い伝えがある。


山内薬師堂から見た「衆心和暢化乃成」の石碑。


NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」放映が開始されるにあたり新たに説明がんが設置された。設置者は、今治地方国立公園協会・今治地方観光協会
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秋山好古揮毫石碑紀行 16 松山市和気浜の碑 

2015年12月09日 | 伊予松山歴史散策
 
松山市和気二丁目・和気海岸に石碑がある。
この石碑は、大正15年6月海南新聞社(現、愛媛新聞社)主催で読者投票によって選定
された愛媛県の名所名勝で、和氣は第12位に選ばれた。
此れを記念して、旧温泉郡和氣村大字和氣濱、和氣村青年團が昭和2年10月建立した記
念碑である。

1.揮毫碑文  :伊豫十二景之碑 和氣
2.所在地   :松山市和気二丁目・和気海岸
3.建立年月日 :昭和2年10月
4.揮 毫 者 :好古
5.建立者   :和氣村青年團
6.碑石大きさ :高さ・1m78㎝ 横幅・83㎝ 厚み・45cm

参考資料1:伊豫十二景は、大正15年6月海南新聞社主催で読者投票によって選定された愛媛県の名所名勝である。
2ヶ月の投票期間に120余の候補地があがり総投票数70万5315票の中から伊予史談会幹事6名の立会いのもと開票され、結果第1位に鹿島・2位以下は、白猪の滝・極山の薬師・歌仙の滝・砥部銚子の滝・麻生金毘羅権現・久万の台・宮内天満宮・仙波ヶ嶽・重信河口・重信橋・和気浜の順である。13位から24位までは「裏伊豫十二景」として発表された。
 なお、裏伊豫十二景は、樽滝・面河・祇園公園・湧ヶ渕・松山城・八幡浜八幡・臥龍・法ヶ津峠・生石八幡・石手川長堤・志々満ヶ原・波止浜公園であった。

参考資料2:和気二丁目の町名沿革は、和氣郡和氣濱村から明治22年12月15日に和氣郡和氣濱村大字氣濱となり明治30年4月1日、温泉郡和氣村大字和氣濱、昭和15年8月1日松山市と合併、昭和17年9月1日和気町二丁目となる。


平成19年2月、写真撮影に行くと石碑の前に釣り人の車が駐車してあり写真が撮れなく改めて3月13日、に行き撮影した。
石碑の前は瀬戸内海です。


石碑左側面には、建立年月と、建立者の名前が刻印されている。
私が撮影する前に何故か文字に墨が入れられていた。


伊豫十二景之碑・和氣の裏面


伊豫十二景之碑 和氣の直ぐ近くに「御即位奉祝林」と揮毫された記念があった。
この海岸には瀬戸内海から吹き付ける風を防ぐ「防風林」が植栽されているが、昭和天皇が即位した事を祈念して植栽し石碑も立てたのでしょう。


「御即位奉祝林」碑の裏面、世話人、須賀豊三郎と書かれている。
その横にも文字が書かれているが判読困難。
 

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秋山兄弟生誕地年末大掃除

2015年12月08日 | 伊予松山歴史散策
今年も師走を迎え残り少なくりました。
昨日(12月7日)、秋山兄弟生誕地では、年末恒例の大掃除を研究員、総出で行いました。
今年1年秋山兄弟生誕地に来て頂いた方々のお礼と、新しい年にお越し頂き気持ちよく生誕地を観覧して頂くために隅々まで綺麗に清掃をいたしました。
後は、25日に、毎年素晴らしい注連飾りを作って頂く篤志家の特製注連飾りを取り付け新年を迎える準備をします。


先ずは、秋山兄弟生誕地の座敷の間から大掃除を始めた。
この屋敷は、伊予松山藩15万石、徒歩目付の屋敷で敷地は江戸時代から変わっていない。現在、井戸が残っているが、この井戸は、江戸時代からのもの、松山は昭和20年7月26日、が大空襲で城下町の建物は米軍のB29重爆撃機による焼夷弾投下で焼き尽くされた。・・秋山家は、井戸と石碑(昭和12年建立の両将遺邸の碑)だけが残った。現在の生家は、平成17年1月18日、全国の秋山兄弟支援者の皆さんからの醵金で完成しました。
この事は平成17年1月18日、NHK朝のニュース番組「おはよう日本」で生中継全国に放映された。


来年1月19日、開館11年を迎え、今年の年末大掃除は特に念入りに行った。


武道場の煤払い。
武道場は、秋山淳五郎眞之が、海軍兵学校1期生の時、夏休みを利用して、薩摩で青少年の文武両道のいい教育を実施している事は資料や、知人から聞き知識として持っていたが、眞之は自分の目で確かめないと気が済まない男であった。
夏休みに薩摩(鹿児島)に行き、郷中(ごじゅう)教育を視察した。今でいえば町内会単位の自治会組織で、当時、鹿児島の城下には数10戸を単位として、行われていた教育方法で、薩摩の郷中教育を松山の要人たちに説明し説得して郷中教育を取り入れて、松山に出来た青少年育英会の組織が松山同郷会、武道場は当時の名残として現在も行っている青少年の教育の一環として、合気道と柔道が行われている武道場である。


秋山淳五郎眞之が発起人となり出来た、松山同郷会(現在は財団法人常盤同郷会)の武道場、常盤会は、旧松山藩主、久松定謨が上京し勉学に励む子供たちに宿舎として松山藩下屋敷であった邸宅を寄宿舎として提供し育英のために設立した組織で、後の常盤学舎、当時の寄宿生、正岡子規も此処で育った。松山同郷会と常盤会が合併して財団法人常盤同郷会が設立された。


武道場の煤払いも終わり画像の様に綺麗になった。
新年1月11日(成人の日)この武道場で秋山好古生誕祭が行われる。今年生誕157年になる。3月には秋山眞之の生誕149年祭もこの道場で行われる予定。


秋山好古の騎馬像も綺麗にふきあげた。騎馬像は、大東亜戦争時に金属供出として潰されたが、愛媛県立松山北高等学校(元、北豫中学校)の校長室にある、秋山好古騎馬像のレプリカを元にして復元した。


秋山眞之の胸像も綺麗にふきあげた。好古の騎馬像は、大東亜戦争時に金属供出として潰されたが、眞之の胸像は、戦前海軍が秋山家に返却し、戦前、戦中、秋山家が保管し戦後秋山家が、海上自衛隊に返した。本物は、現在東京目黒の、海上自衛隊幹部学校に保管されている。防衛省の許可を得て平成17年1月18日、複製した。
眞之の胸像は、松山のパワースポットの一つとなっており、観光にお越しになった皆さんが眞之の像に触れて帰られるので両手がピカピカに光っています。
平成23年の眞之生誕祭に、東京の女子高生3名(秋山眞之の大の愛好者)が来て、志望大学「東大・早稲田・津田塾」に無事入学できますようにと祈願に来た。女子高生3名は、希望大学に合格し、翌年の秋山眞之生誕祭にお礼に来た。


東京目黒の海上自衛隊幹部学校に保管されている秋山眞之の胸像。海上自衛隊の許可を得て平成17年5月12日、撮影した。
この胸像は、秋山眞之が海軍大学校時代の教え子達が醵金して、イタリアの彫刻家が造った。


秋山兄弟生誕地客間(座敷の東の間)に掲げてある槍の穂先(槍頭)で秋山兄弟生家は、平成17年1月19日、に一般公開を初めて10年になりますが、今年の大掃除で初めて、穂先(槍頭)の手入れをしました。
秋山兄弟生誕地開館に付き秋山兄弟支援者からの寄贈で掲示しておりますが、穂先(槍頭)は模造品です。
参考までに:
伊予松山藩の武術の中で槍は、樫原改撰流槍術・疋田流槍術・種田流槍術・猪多流槍術の流派で、その中でも、伊予松山藩を脱藩し新撰組に入隊、第10番隊組長をした原田 左之助が種田流槍術の名人として有名です。


秋山兄弟生誕地客間(座敷の東の間)に掲げてある薙刀で、一般公開を初めて10年目、今年の大掃除で初めて、手入れをしました。
これも模造品です。
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