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秋山好古揮毫石碑紀行 23 松山市和泉北三丁目の碑

2015年12月23日 | 伊予松山歴史散策


1.碑  文 :  追 遠 記 念 碑
2.所 在 地:  松山市和泉北三丁目2番3号 泉永寺
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  不明
5.建立年月日:  昭和 2年 8月 
6.碑石大きさ:  高さ・2m37cm 表幅・ 62cm 横幅・ 45cm

参考資料:
足立重信により石手川が改修され和泉、朝生田の洪水被害は少なくなったが和泉村七十町歩の養水乏しく旱害に苦しんだ。
1606年森宗勘が縦淵城跡ほとりに堰を設け和泉村用水路の普請が和泉村民総出ではじまった。
難工事は石手川底を通水させる埋樋水門で、宗勘が苦心の末考案して宗勘樋が完工し和泉村七十町歩は良田と化した。
森宗勘の不滅の功績をあらわすため明治25年3月泉永寺に彼の遠孫森六次郎名をもって「小野川縦淵水門開祖之碑」が建てられ、昭和2年8月「追 遠 記 念 碑」が向かい合うように東側に建立された。
石碑裏面には、明治2年和泉村と朝生田村との水争いのことが記載されている。

註・縦淵城跡所在地:松山市東石井五丁目13番14号「城山神社」
小野川は中世「縦淵川」と言っていた。


松山市和泉北三丁目2番3号 泉永寺にある「追遠記念碑」
明治2年和泉村と朝生田村との水争いの以後五十有余年の、昭和2年8月、和泉の危急存亡の時、血涙を奮い起ちその重任を一身に集め篤志家数人があった。その行動功績を讃え、後世に伝えるため追遠記念碑を建立した。そしてその揮毫を秋山好古がしたのである。


「追遠記念碑」の裏面で、裏面には明治2年和泉村と朝生田村との水争いのことが記載されている。
それは、明治2年梅雨に入っても降雨がなく、田植えも遅れ水不足は深刻であった。
折も折、郡役人より川附川の余水を朝生田村に分水するよう厳命があった。
和泉村としては一大事、灌漑水利権の侵害分水など出来る状態ではなかった。
「背に腹はかえられぬ」悔いを後世に残すにしのびず、5月26日夜、村民大挙して井水門より朝生田に通ずる水路撤去の非常手段をとった。
事の重大さを知った郡役所は、和泉の処置を不隠当とし、全村民の農事以外の外出を禁じ、庄屋、相原武敬氏を解職し禁固、組頭、堀内為一郎、大野喜三次両名を3年の刑に処し、5人組、飯泉佐一郎、堀内彌三次、村民浮田彌七、森啓次郎、相原与八、池田兵蔵の6名を半年抱禁の刑に処した。
これが世に言う立渕事件である。
此の有様が裏面に書いてある。


松山市和泉北三丁目2番3号・泉永寺でこの境内に当時の事件があった石碑がある。
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