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紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑紀行 21 松山市久保田町の碑

2015年12月19日 | 伊予松山歴史散策


1.碑  文 : 履脱天満宮
2.所 在 地: 松山市久保田町56番地
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者: 久保田
5.建立年月日: 明治44年 6月 
6.碑石大きさ: 高さ・1m68㎝ 横幅・84㎝ 厚み・24cm

履脱天満宮は、松山市久保田町にあり、延喜式に見られる履脱天満宮と寺が同一境内に同居している。
菅原道真が901年、福岡の大宰府に左遷される際、瀬戸内海を航海中、台風のため遭難して越智郡桜井の浜に漂着、陸路を西下し当地(松山)に参着し暫く滞在したが、蔵人頭三位中将紀久朝が勅使として下向し、道真に九州へ向かう様伝えた。
道真は、400~500m西の川まで出迎えたが、この時誤って履が脱げたと言う。
里人は川に掛かる橋を「勅使橋」といい、神社を履脱天満宮と呼ぶようになった。
紀久朝の指示により道真は、九州へ向かう時、今出の浜から船出をしたが、見送る里人達に「今でるよ」と声を掛けたので西垣生の浜を「今出」と呼ぶようになったと言う。


履脱天満宮の石碑裏面には、画像の文字が刻まれている。


参考資料:菅原道真と伊予松山城主、久松・松平の関係

菅原道真が、昌泰4年(901年)大宰府に左遷され、その時一族は安古居(あごい)(愛知県知多郡阿久比町)に流された。道真の死後、宇多上皇は無罪の罪であったと許し、遺族を京都に戻した。道真の長男、高則は喜んで京都に帰ったが、その子雅規は、案古居に良くなじみ父に付いて帰らず、後、地頭守護職になった。
この雅規の幼名が久松丸であった。雅規の後、14代目の定道が菅原姓を捨て、久松姓を名乗り、これが久松姓の起こりである。
徳川家康の母は、尾張国刈屋城主、水野忠政の娘、於大の方で、三河国、松平広忠に嫁ぎ、家康を生みます。
於大の方の実家の兄、水野信元は、松平広忠の反対派だった織田信長方についたので、広忠は怒り於大の方を離縁した。その後、於大の方は久松俊勝と再婚した。
俊勝は、菅原姓を捨て、久松姓を名乗った久松定道の子孫である。
俊勝には、康元・康俊・定勝と3人の男子が生まれこの定勝の次男が、定行で、伊予松山藩城主、松平定行である。
家康には、兄弟が無く定勝を弟にしたい、松平を名乗り、葵の紋を使用し、これからいろいろと助けて欲しいと言った。
この時から久松家は、松平を名乗り葵の紋を用いる事になった。
定勝は、家康の期待に大いに応え関ヶ原の戦いでは江戸城を固く守り、その功績により遠江国掛川3万石を拝領、その子定行に伊予松山15万石、定綱に桑名14万石、定房に今治4万石、定政に刈屋2万石を与えた。
これは、2代将軍秀忠・3代将軍家光の時代であった。
明治元年7月に、新政府から勧告されて、伊予松山松平は、久松の旧姓に戻ったのである。
松平定行を、初代松山藩主とし、現在の久松家は、第19代当主で松山市に在住されている。





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