EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山義士祭 8 赤穂義士縁の「ハゼの木」

2014年12月21日 | 伊予松山歴史散策
松山市道後公園(中世の城跡・湯築城)南外堀の道路沿いに樹齢300年近い赤穂から贈られたと言う、赤穂義士縁のハゼの木があり、地元道後水利組合の人々は、このハゼの木に由来を伝える看板と、記念碑を建立し、保存運動をしている。
松山では、大高源吾、木村岡右衛門の切腹を介錯した藩士宮原久太夫は両名の遺髪を藩主の許しを得て、松山にある宮原家の菩提寺、興聖寺(こうしょうじ)に二人の墓を建立し納め供養し丁寧に扱った。後にこの事を知った播州赤穂の住人は、赤穂特産のハゼの木を贈り、感謝の気持ちを表したとされている。
同組合の梅岡茂雄総代によると、縁のハゼの木は、かっては、石手川の堤防や道後公園沿いに30本程植えられていたが、道路拡張、護岸工事等により、現在の一本を残すだけとなった。この為30年前に梅岡さんの父親が愛媛大学農学部教授の管菊太郎氏(故人)に調査依頼した結果、播州赤穂から贈られたものと確認したと言う。
立て看板を作った同市岩崎町の森博さんによると、「当時、木蝋燭の原料として貴重だったハゼの木を贈ったというには、赤穂の人にとってよほど、松山藩の赤穂義士に対して対応が嬉しかったのだろうと」と思いを巡らせている。
以上は、「平成11年1月22日付けの愛媛新聞に掲載された。」

しかし、私は何故ハゼの木を松山に贈ったのか疑問に思い、平成21年4月22日赤穂市観光協会にこの事に付いて照会したが、赤穂市にはその様な資料が残っておらず不明、調査して後日連絡するとあったが、その件に付いて未だ連絡回答が来ていない。
平成21年5月11日、赤穂城見学の為赤穂市に行き、大石神社の禰宜さんに、ハゼの木事を聞くも、松山に贈ったハゼの木の事は聞いた事がない、赤穂八幡宮の宮司さんが詳しいので行って聞いてみてはと紹介いただき行ってみたがやはり不明であった。
しかし赤穂八幡宮境内に大石内蔵助お手植えのハゼの木があった。宮司さん曰く、赤穂には、木蝋燭を作った由来が無く、その為赤穂の特産「ハゼの木」の意味が解らないと言った。宮司さんは、松山に贈ったハゼの木の事は初めて聞く事で是非写真を送って惜しいと言われたので私は、平成21年5月早速送っておいた。


播州赤穂から贈られて来たハゼの木。
松山市道後公園(中世の城跡・湯築城)南外堀の道路沿いに樹齢300年近い赤穂浪士縁のハゼの木があり、地元道後水利組合の人々は、このハゼの木に由来を伝える看板と、記念碑を建立し、保存運動をしている。


松山市道後公園(中世の城跡・湯築城)南外堀の道路沿いに樹齢300年近い赤穂から贈られたと言われる、ハゼの木。


赤穂から贈られたと言われる、ハゼの木の説明板。設置者は、道後水利組合。


平成21年5月11日、赤穂に行った時撮った大石神社参道入り口。


大石神社参道には、画像の様な立派な47義士の石像が建立されている。


大石神社の禰宜さんの紹介を受けた、赤穂八幡宮。


赤穂八幡宮の境内にある「大石良雄、お手植えの櫨の木」


大石良雄、お手植えの櫨の木に記念碑。


大石神社の禰宜さんに見せて頂いた、書籍、著者は、大石神社の宮司さんで、書名は、大石内蔵助の横顔、購入して帰ろうと思いお願いしましたら、非売品で販売してないとの由。残念・・本の奥付を撮影するのを忘れた。奥付には本の情報が全て書かれているのに!!
この書籍のP208にハゼの木と内蔵助の項に、次の様な事が書かれている。
薩摩藩の家老、伊集院と内蔵助は親しい間柄で、製塩が成功したのでお礼の意味で赤穂の殖産興業の一助ともなると思うので木蝋が取れる木、ハゼの木を持参したので大切に育てて頂きたいとハゼの木の苗を贈られたと書かれている。・・内蔵助はそのつもりで大切に育て木蝋を作り赤穂の殖産興業にするつもりであったのが、元禄15年江戸城松の廊下で刃傷事件発覚、その後赤穂藩取り潰し、ハゼの木も無くなったのでは、・・唯一本のみ赤穂八幡宮の境内に、大石内蔵助が、お手植えの櫨の木として残したのではないか?・・松山のハゼの木と何らかの関係があるのか?である。
赤穂の特産品は、塩であったが、もし江戸城松の廊下で刃傷事件が無かったならば、殖産興業の一助として薩摩藩の家老、伊集院氏から贈られたハゼの木を使い木蝋が特産品の一つとなっており、義士祭も無く松山にもハゼの木は送られて無かった。
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河端久美子 松山で絵画展開催

2014年12月20日 | 伊予松山歴史散策
松山市二番町の四国労働銀行愛媛支店(通称、労銀愛媛)のロビーで、河端久美子さんの絵画展が開催されている。
河端久美子さんは、新居浜市出身で、ご主人さんの勤務の関係で松山に住まわれ現在に至っている。松山に転居してから子育ても終わり、何か社会奉仕をして出来れば松山の観光事業に関わりたいと考えていた。丁度、松山観光協会(現、松山観光コンベンション協会)と松山商工会議所が主催で松山城観光ボランティアガイド育成事業として研修会が開催された。平成8年頃だった。此れに受講して松山城観光ガイドとして現在に至っている。松山城のガイドは、現在180名いるが一期生のガイドは、数名しか残っていない、河端久美子さんはその一人である。
その後、道後温泉、萬翆荘(旧伊予松山藩主、久松家の松山別宅)松山坂の上雲街歩きガイド、秋山兄弟生誕地の研究員として活動されている。以上の活動は全て社会奉仕活動である。
その忙しい奉仕活動の時間を割いて、愛媛県立美術館の友の会に入会し油絵の勉強を始め好きな絵を描く、絵が好きで、歴史が好きな才女で県展にも出品し度々入選している。今年の夏から水彩画にも挑戦している頑張る女性である。
昨日、その絵画展を鑑賞して来た。
額に入れて展示してあるので銀行ロビーの光が入り画像としてNGであるが見て下さい。
なお展示は12月末日まで展示されている。
展示場所は、松山市二番町四丁目5番地2、四国労働銀行愛媛支店ロビー。(三越松山店人番町口から西に300mにある。)
また来年1月13日~18日までNHK松山放送局ロビーで愛媛県立美術館友の会会員展示があり出展するそうです。


松山市二番町四丁目5番地2、四国労働銀行愛媛支店(三越松山店人番町口から西に300mにある)、で展示中・・12月迄。
















NHK松山放送局ロビーで愛媛県立美術館友の会会員展示会ご案内
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松山義士祭 7 討ち入りそば

2014年12月20日 | 伊予松山歴史散策
忠臣蔵では、赤穂浪士大石内蔵助らが、討ち入りの前に食べたと言われるそば、元禄15年12月14日(実際の討ち入りは15日の未明)に江戸本所松阪町の吉良上野介義央の屋敷に討ち入り、首尾よく本懐をとげたが、その前夜そば屋、楠屋十兵衛、また、うどん屋久兵衛に勢ぞろいし、縁起を祝って手打ちそばや、うどんを食べたと言われている。
これにちなんで12月14日の義士祭には、各地で今もそば供養がお行われ、東京高輪泉岳寺・赤穂市の大石神社、京都山梨の大石神社等縁の社寺ではそばを振舞うのが恒例になっている。
昭和39年(1964年)の第1回松山義士祭でも参詣者に討ち入りそばを振舞った記録が残されており、以来今日まで続いている。

江戸時代後期の川柳集に「誹風柳多留(はいふうやなぎたる)」に
打ちの縁 切りのゑにて 義士はそば・・と言う句があり、当時から討ち入りそば、うどんは馴染みが深かったことがわかる。
しかし、歌舞伎や浪曲などで、そば屋に集まったと言うのは史実に反し、集会所は、本所林町5丁目の堀部安兵衛宅、本所三ツ目横町の杉野十平次宅、本所二ツ目相生町3丁目の前原伊助、神崎与五郎宅の三か所が正しい。
吉田忠左衛門、吉田沢右衛門、原惣右衛門ら6~7人は、両国矢ノ倉米沢町にある堀部弥兵衛宅で饗応を受けた後、まだ時間が早いため、両国橋向川岸町の茶屋、亀田屋に立ち寄り、そば切りなど申し付け、ゆるゆると休憩し、八ツ時(午前二時)に堀部安兵衛宅へ集まったと、「寺坂信行筆記」にあり、この話が後にそば屋集合説として定着したと考えられる。
また、昭和2年に東京の有楽町更科で「赤穂浪士追懐、五色そばの会」が開催され人気を博したとある。・・これが義士そばの始まりともされている。


松山義士祭で、興聖寺の境内に設営された「討入りそば」処。


討入りそばを作る裏方さん達・・おお忙し。


松山義士祭で参詣に来た人々は、討ち入りそばを食べながら元禄15年の出来事を考え思いながら未だに語り継がれる武士の忠義に心打たれるものがある。今から312年前の出来事である。
松山義士祭で参詣に来た人々は、討ち入りそばを食べながら元禄15年の出来事を考え思いながら未だに語り継がれる武士の忠義に心打たれるものがある。今から312年前の出来事である。
幾ら武士の心得忠義とは言え、日々の厳しい苦しい生活を耐え抜き脱落する浪士も無く(ある事情で数人あったが)本懐を成し遂げたのは凄いの一言、大石内蔵助の統率力とそれを支え、心・気持ちを一つにした義士の心意気か?、東京高輪泉岳寺に行くと、多くの外国人も来ているが、外国では考えらない事である・・と言って線香をあげていた。

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松山義士祭 6 介錯人 荒木十太夫

2014年12月19日 | 伊予松山歴史散策
全然知られていない義士切腹の介錯人、荒木十太夫について。
介錯人、荒木十太夫になると名前も聞いたことが無い。これも興聖寺の所蔵の資料で勉強させてもらう。
荒木十太夫の誕生日は不明、身分は、常江戸(剣術指南役)、家禄、12石3人扶持である。荒木十太夫が有名なのは、介錯をした義士が有名な、堀部安兵衛と不破数衛門である。
忠臣蔵のドラマでは、木村岡右衛門や大高源吾よりも良く知られている義士である。
切腹直前に、堀部安兵衛は後ろに控える介錯人・荒木十太夫に振り返り「御身分は?」と問いかけた。十太夫は慌てず「ご心配なく」と答えたが、安兵衛はこちらを見たままなので、いまの低い身分を伝えては失礼になると思い「お馬廻役200石でござる」と続けた。
安兵衛は、身分の高い人の介錯に安堵して冥土へ旅立ったと言われている。
因みに、堀部安兵衛の身分は、馬廻200石である。
後日、十太夫には、酒宴の場で殿様から「とっさの時によくぞ申した」と特別の御沙汰があったと言う。
荒木十太夫や宮原久太夫らの剣士はその後、義士の位牌を作りねんごろに供養したとある。

浪曲・講談より
荒木十太夫は、赤穂義士が吉良邸討ち入り後、松平隠岐守定直の松山藩江戸中屋敷に預けられた堀部安兵衛を介錯した、12石3人扶持と言う身分の低い侍。介錯をする段になって安兵衛が十太夫に、「閣魔の庁で土産話にするからと」身分と名前を聞いてきたが、あまり自分が低い身分なので、それじゃ悪いととっさに「あ・・物頭役300石を務めまする」と嘘をつく。安兵衛はありがたがって死に臨んだ。
十太夫は、嘘をついた手前、身分の高い「物頭役」の装束を作るため夫婦して倹約し団子の串を削る内職までして貯めて、命日には物頭役の装束での墓参りを欠かせなかった。
墓参の件が上司に見つかり、色々問いただせられる中、官職詐称は、切腹ものであり、色々詮議されたが事情をしった殿様はその甲斐甲斐しさに打たれ、謹慎の後「物頭役」に取り立てられた。嘘から出た誠・堀部安兵衛への忠義の行いは、「誉の300石」として浪曲・講談で世に広く膾炙されている。


介錯人 荒木十太夫に関する画像は何もないので、介錯をした堀部安兵衛の銅像を掲示する。安兵衛は赤穂義士として有名であるが、中山安兵衛武庸としても有名である。撮影は、平成22年3月16日、新潟市江南区沢海にある秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」の取材に行った時、新発田城を見学した時撮影した。それまで安兵衛が、越後国新発田藩溝口家家臣であったことは全然知らなかった。


新潟県新発田市にある新発田城碑で、日本100名城第31番である。


堀部(中山)安兵衛武庸の銅像は、新発田城、国指定重要文化財、櫓門の前に建立されている。


そして、その横に忠臣蔵サミットの掲示板があった。
義士親善友好都市交流会議等が開催されている事も新発田市に行って初めて知った。何故か、義士お預かりとなった関係の都市の名前は無かった。


平成22年3月17日、新潟市江南区沢海にある秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」の取材に行った。この取材が目的で新潟市に行き、新発田市の新発田城にある堀部(中山)安兵衛武庸の銅像を見たのである。

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伊豫松山城 年末大煤払い(大掃除)

2014年12月18日 | 伊予松山歴史散策


今年の松山城天守大掃除は、12月17日に行った。昨年までは12月29日に実施してきたが、29日には観光客が年末休で観光に松山に来られるからだろう。
伊豫松山観光資源は、松山城天守と道後温泉本館で、見て、そして入浴を楽しみにお越しになる大切な観光施設である。道後温泉本館の煤払いは12月2日行い新年を迎える万端を整えた。
あとは伊豫松山城天守である。天守は、年中無休で開城しているが、毎年大掃除日だけ本壇天守を終日臨時休業して一年の埃と煤払いを行い、床の間に注連飾りとお供え物を献上し神事を行い、新年を迎える準備をしている。(本壇以外は観光出来る。)
今年の大掃除は、今季最大の寒波襲来で寒い中、関係者らが3mのササ箒で1年間の埃と煤を払い、床等々は雑巾掛けをして新年の準備をした。
平成26年の松山城天守の観光者は44万人超、ロープウェイ・リフトの乗降者は、111万人を超える観光者が利用し、前年の11%増加であった。
今年は道後温泉本館改築120年を迎え色んな行事を開催し、また四国霊場開創1200記念が重なり多くの観光客が来られた事が観光客増加に繋がったと思う。
伊予松山城は年を開け1月15日、413歳を迎える。現存12天守の一つで日本100名城第81番指定の人気の城である。


本壇天守入口に、年に一度臨時休業して天守の大掃除のため閉城いたしますのお知らせ掲示板。


本壇一ノ門を閉門して本日の大掃除関係者とマスコミ記者以外は立ち入り禁止。


天守最上階の軒下等々をササ箒で綺麗に埃を払って行く・・ご苦労さん。


日頃から松山城を奉仕活動で支援している各種団体も清掃に参加し登城道路を綺麗に清掃した。
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