EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山義士祭開催 1

2014年12月12日 | 伊予松山歴史散策


今年も、12月14日がやって来た。松山市で「松山義士祭」が行われた。
年末の日本最大の関心事、313年前の出来事、元禄14年、浅野内匠頭の江戸城松の廊下の刃傷から、同15年、大石内蔵助良雄が率いる赤穂浪士の吉良邸討ち入り、同16年、浪士の切腹に至るまでの一連の事件は、今日まで歴史上のみならず、寛永元年に歌舞伎で、仮名手本忠臣蔵として開かれその後、書籍、映画、演劇、講談、多岐にわたる分野に取り上げられ、最近では外国からも多くの人々が泉岳寺の浪士の墓参りに来ている。
今年も12月14日、赤穂浪士との関係がある地区で義士祭が開催されるが松山でも第51回の義士祭が松山市長も供養に訪れしめやかに行われた。
伊豫松山藩と赤穂浪士の関係は下記の通りで、浪士の内10名を幕府からの指示で伊予松山藩が預かった。
討ち入りした47名は、幕府大目付けへ自首し、細川、水野、毛利、伊予松山藩に預けられ、伊予松山藩では、大石主税ら10名を江戸中屋敷に収容し、切腹まで面倒をみた。
この内大高源吾、木村岡右衛門の切腹を介錯した藩士宮原久太夫は両名の遺髪を藩主の許しを得て、松山にある宮原家の菩提寺、興聖寺(こうしょうじ)に二人の墓を建立し納め供養した。その墓は今も毎年義士祭を開催して供養をしている。宮原は、この介錯の後、俳諧で著名であった人でも殺さねばならない武士というものに嫌気がさし、武士を捨てて松山で酒屋に転じている。
昭和39年、両名と宮原の供養と地元の発展を願って、興聖寺史跡顕彰会が発足し、同年12月14日第1回松山義士祭が挙行された。その後主催は末広町商工会を経て同町会へ移行し現在まで松山の師走の風物詩として今年第51回を迎えた。

文献によると、元禄16年2月4日、幕府より浪士に対する奉書が届いたのは未の刻(午後2時)、検使として御目付、杉田五左衛門と御使番駒木根長三郎以下御徒歩目付が到着、浪士らを長屋から駕籠で迎え大書院玄関の次の間に控えさせた。そこで杉田五左衛門は、罪状を申し渡し切腹を命じた。主税はじめ10名はこれを有難くお請けして支度にかかった。切腹の場所は、三方を花色無地の幕で張り囲らせ、畳二枚を敷き、その上に他家とは異なり、浅黄木綿の蒲団を置いた。浪士控えの間から切腹の場所まで薄縁が敷いてあった。松平隠岐守も三田屋敷に居て、別の座から一同の切腹を終始見届けていた。「波賀清太夫覚書」に詳細に記されている。切腹が始まったのは申の中刻(午後5時)で、この様子を終始見分して隠岐守が上屋敷へ帰ったのが茜刻過ぎ、午後6時過ぎであったというから約1時間前後で10名が切腹し終えたということである。最後に切腹した大高源吾は、呼び出される前に鼻紙に次のように走り書きした辞世を残している。「梅で飲む茶屋もあるへし死出の山」
また、他の文献には、伊予松山藩は親藩であるためその待遇は、幕府の意向を気にしつつ丁重に扱ったようで、食事は伊予松山藩が一番良かった(一汁二采)と当時の記録がある。
切腹後の遺体は布団に包み、泉岳寺へ移送し埋葬されている。また切腹の介錯は細川、水野家では、浪士一人につき一人としたが、伊予松山、毛利家では二人につき一人の介錯であった。
宮原久太夫は20人扶持と軽輩ではあったが、武士道に厚く剣の腕もあり、義士受け取りの徒歩頭の中にもその名前が伝えられている。ご子孫は現在も健在で神奈川県に居られる。
なお、播州赤穂から、手厚くお持て成しをした御礼にと櫨の木が送られており松山道後にある湯築城外堀土塁に植え道後地区土地改良区が大切に保存して現在も健在である。

註1:興聖寺の資料より
参考:伊予松山藩がお預かりの赤穂十士氏名は下記の通り
大石 主税良金     部屋住(大石内蔵助良雄長男)  15歳
堀部 安兵衛武庸    二百石馬廻           33歳
中村 勘助正辰     百石祐筆            44歳
木村 岡右衛門貞行   百五十石代官          45歳
岡野 金右衛門包秀   部屋住(亡父二百石物頭)    23歳
不破 数右衛門正種   先知百石普請奉行        23歳
菅谷 半之丞政利    百石代官            43歳
千馬 三郎兵衛光忠   三十石宗門改          50歳
貝賀 弥左衛門友信   十両三人扶持蔵奉行       53歳
大高 源吾忠雄     二十石五人扶持近習       31歳

註2:伊豫松山藩が預かった江戸中屋敷は、現在イタリア大使館となっており、庭園には赤穂浪士の事柄を石碑に記録として記して建立し保存されている。

註3:藩士達の教育係り、山鹿素行(儒学者・兵法学者)は、大石内蔵助良雄が8歳の時1千石で取り立てられ10年間赤穂藩で教育した。「主君に事があったとき命を捨ててそれに当たる。臣道、家来の道、君臣義あり。」・・とある。

私見:師走になると必ずTVで赤穂義士の事が報じられる。忠義立てに命を捧げた46名、この時代だから出来た事だろうが!!現在人、私を含めてこの様な気持ちの持ち合わせがあるのか??人間何を大切にして生きて行くのか・・今は、家族を大切にだろうか?忠義・武士道という言葉は、現在の世にはヅレを感じ不似合いだが何故かその境地に嵌ってしまう。

開催日:平成26年12月14日(土)
開催場所:興聖寺
開催地住所:愛媛県松山市末広町14番地1


平成26年12月14日開催・第51回記念 義士祭開催掲示板。


午前10時、興聖禅寺を出発する義士行列。
行列は、愛媛県立病院・県立松山南高等学校・愛媛銀行末広支店・松山地下商店街・いよてつ高島屋百貨店前・末広町商店街・興聖禅寺、約2kmを県立松山南高校の吹奏楽部が音楽を奏でながら義士行列をした。


いよてつ高島屋百貨店前を義士隊が行進。


松山市地下商店街を歩く義士隊。


いよてつ高島屋百貨店前で義士隊記念の集合写真。


興聖禅寺に帰り一同勝ち鬨を挙げる義士行列隊。


境内に設営された討ち入りそばを食しつつ義士の忠義心を改めて感銘する義士祭りに参加した人々。


木村岡右衛門、大高源吾のお墓にはお供え物と献花がされ、右に介錯人、宮原久太夫家のお墓がありお花が生けられた。


興聖寺住職の読経が始まり野志松山市長も義士際に参列、木村岡衛門・大高源吾のお墓参りをした。


昨年から始められた、伊豫語部会による紙芝居「赤穂浪士松山藩伝外」が講演された。
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異常気象の中で松山も異変

2014年12月12日 | 伊予松山歴史散策
今年の冬は暖冬と気象庁から予報が出されたが、この所真冬の天候である。
四国では、12月5日、徳島県三好市、つるぎ町、東みよし町の一部の地区の最大で合わせて881世帯1560人が孤立状態となり。日々の生活に困窮している。
徳島県内では、大雪となった今月5日以降、倒木などで道路が塞がり、自衛隊などが道路の除雪や倒れた木の撤去作業を進めた結果、孤立状態の地区は徐々に減り、10日午後になって6世帯7人の孤立状態が続いていた三好市でも道路が通れるようになり、大雪から6日目で孤立状態の地区はなくなったと報道された。死者が出た。
しかし、高齢者などは引き続き外出しにくくなっているとして、東みよし町では、10日、役場の職員などが飲料水や携帯ラジオなどの支援物資を届けるために現地に向かった。70数年生活しているご婦人は、生まれて初めての出来事で生活はオール電化生活に切り替えているため停電が一番こたえ、特に暖が取れないことが一番辛かった。戦後の苦しい時代に逆行した思いであった。
衆議院議員は、こんな厳しい時期に解散など行うのか、何一つ国民の事など眼中にないのか、季節の良い時期に行って欲しい・・渇つだ。


画像は、12月7日の石鎚山で、徳島県内では、大雪となった今月5日以降に姿を現した。かなりの降雪である。


これも同じ日の石鎚山。此処から東に約90km地点に徳島県三好市、つるぎ町、東みよし町がある。


これも同じ日の石鎚山。


その後松山は気温が上がり石鎚山の雪もかなり解けた。12月10日撮影。


12月10日撮影、少しアップで。


12月10日以来、石鎚山は雲の中である。
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