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松山義士祭 2 興聖寺の縁起

2014年12月15日 | 伊予松山歴史散策
松山義士祭が行われる興聖寺の由来を見てみる事にしよう。
興聖寺は、松山市末広町の中央にあり(伊予鉄松山市駅から南、徒歩5分愛媛県立中央病院手前・県立南高等学校近く)臨済宗妙心寺の寺院で瑞麟山と号し、御本尊は釈迦如来である。その起源は古く聖徳太子が道後温泉に行啓の際、瑞麟山興聖寺として創建されたとある。その後伊予国守護、河野家の庇護を受け依頼300年間存続した。しかし天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐により河野家滅亡とともに寺運は衰亡した。寛永4年(1627年)出羽国(現、山形県)上山藩から転封して来た伊予松山第二代目藩主、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が寺の由来を聞き宮西町に再建し、菩提寺として寺領200石を給した。蒲生忠知は、参勤交代の時、京都で病死、子供がいなかったのでお家断絶、その後伊勢桑名藩から松平隠岐守(松平定行)が着封して寺を現在の末広町に移転させ、以後江戸・明治・大正と時を過ごしたが、昭和20年(1945年)米軍の松山大空襲で寺院、宝物什器等に至るまで焼失した。昭和25年(1950年)に再建したが現在の寺院に整ったのは昭和58年(1983年)である。
元禄15年(1702年)伊予松山藩主松平定行の時、赤穂義士の吉良邸討ち入りがあり、幕府の命により大石主税をはじめて10名が伊予松山藩江戸屋敷に御預けとなった。翌16年2月切腹の御沙汰があり木村岡右衛門、大高源吾の介錯をした藩士宮原久太夫は、両名の遺髪を藩主の許しを得て、松山にある宮原家の菩提寺、興聖寺に二人の墓を建立し供養した。今も当時のまま残っている。
戦後の混乱を乗り越え、日本経済が高度成長に入った昭和39年(1964年)に、末広町商工会及び町内会が木村岡右衛門、大高源吾、宮原久太夫の供養と地元発展を祈って義士祭を挙行して今年第51回を迎えた。また境内には、蒲生忠知の供養塔、柳原極堂の句碑、があり、松山市の歴史的文化史跡として名を成している。


今や赤穂浪士縁の寺として有名である。


山門を潜ると義士の墓の案内板が見えて来る。


伊予松山藩第二代目「蒲生忠知」の供養塔。
伊予松山初代藩主、加藤嘉明が松山城を築城20万石完成1年前に会津40万石で移封、二代目、蒲生忠知が二ノ丸を造り完成する。蒲生忠知時代は24万石であった。三代目、松平定行の時は、15万石に変更され以後維新まで松平が治めた。


蒲生忠知供養碑の説明板。松山市教育員会設置。


「蒲生忠知」の供養塔の左に、蒲生公の功徳記念碑が建立されている。


蒲生忠知の供養塔、木村岡右衛門、大高源吾の関係の石碑やその説明板が整然と設置されている。
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