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松山義士祭 7 討ち入りそば

2014年12月20日 | 伊予松山歴史散策
忠臣蔵では、赤穂浪士大石内蔵助らが、討ち入りの前に食べたと言われるそば、元禄15年12月14日(実際の討ち入りは15日の未明)に江戸本所松阪町の吉良上野介義央の屋敷に討ち入り、首尾よく本懐をとげたが、その前夜そば屋、楠屋十兵衛、また、うどん屋久兵衛に勢ぞろいし、縁起を祝って手打ちそばや、うどんを食べたと言われている。
これにちなんで12月14日の義士祭には、各地で今もそば供養がお行われ、東京高輪泉岳寺・赤穂市の大石神社、京都山梨の大石神社等縁の社寺ではそばを振舞うのが恒例になっている。
昭和39年(1964年)の第1回松山義士祭でも参詣者に討ち入りそばを振舞った記録が残されており、以来今日まで続いている。

江戸時代後期の川柳集に「誹風柳多留(はいふうやなぎたる)」に
打ちの縁 切りのゑにて 義士はそば・・と言う句があり、当時から討ち入りそば、うどんは馴染みが深かったことがわかる。
しかし、歌舞伎や浪曲などで、そば屋に集まったと言うのは史実に反し、集会所は、本所林町5丁目の堀部安兵衛宅、本所三ツ目横町の杉野十平次宅、本所二ツ目相生町3丁目の前原伊助、神崎与五郎宅の三か所が正しい。
吉田忠左衛門、吉田沢右衛門、原惣右衛門ら6~7人は、両国矢ノ倉米沢町にある堀部弥兵衛宅で饗応を受けた後、まだ時間が早いため、両国橋向川岸町の茶屋、亀田屋に立ち寄り、そば切りなど申し付け、ゆるゆると休憩し、八ツ時(午前二時)に堀部安兵衛宅へ集まったと、「寺坂信行筆記」にあり、この話が後にそば屋集合説として定着したと考えられる。
また、昭和2年に東京の有楽町更科で「赤穂浪士追懐、五色そばの会」が開催され人気を博したとある。・・これが義士そばの始まりともされている。


松山義士祭で、興聖寺の境内に設営された「討入りそば」処。


討入りそばを作る裏方さん達・・おお忙し。


松山義士祭で参詣に来た人々は、討ち入りそばを食べながら元禄15年の出来事を考え思いながら未だに語り継がれる武士の忠義に心打たれるものがある。今から312年前の出来事である。
松山義士祭で参詣に来た人々は、討ち入りそばを食べながら元禄15年の出来事を考え思いながら未だに語り継がれる武士の忠義に心打たれるものがある。今から312年前の出来事である。
幾ら武士の心得忠義とは言え、日々の厳しい苦しい生活を耐え抜き脱落する浪士も無く(ある事情で数人あったが)本懐を成し遂げたのは凄いの一言、大石内蔵助の統率力とそれを支え、心・気持ちを一つにした義士の心意気か?、東京高輪泉岳寺に行くと、多くの外国人も来ているが、外国では考えらない事である・・と言って線香をあげていた。

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