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松山義士祭 6 介錯人 荒木十太夫

2014年12月19日 | 伊予松山歴史散策
全然知られていない義士切腹の介錯人、荒木十太夫について。
介錯人、荒木十太夫になると名前も聞いたことが無い。これも興聖寺の所蔵の資料で勉強させてもらう。
荒木十太夫の誕生日は不明、身分は、常江戸(剣術指南役)、家禄、12石3人扶持である。荒木十太夫が有名なのは、介錯をした義士が有名な、堀部安兵衛と不破数衛門である。
忠臣蔵のドラマでは、木村岡右衛門や大高源吾よりも良く知られている義士である。
切腹直前に、堀部安兵衛は後ろに控える介錯人・荒木十太夫に振り返り「御身分は?」と問いかけた。十太夫は慌てず「ご心配なく」と答えたが、安兵衛はこちらを見たままなので、いまの低い身分を伝えては失礼になると思い「お馬廻役200石でござる」と続けた。
安兵衛は、身分の高い人の介錯に安堵して冥土へ旅立ったと言われている。
因みに、堀部安兵衛の身分は、馬廻200石である。
後日、十太夫には、酒宴の場で殿様から「とっさの時によくぞ申した」と特別の御沙汰があったと言う。
荒木十太夫や宮原久太夫らの剣士はその後、義士の位牌を作りねんごろに供養したとある。

浪曲・講談より
荒木十太夫は、赤穂義士が吉良邸討ち入り後、松平隠岐守定直の松山藩江戸中屋敷に預けられた堀部安兵衛を介錯した、12石3人扶持と言う身分の低い侍。介錯をする段になって安兵衛が十太夫に、「閣魔の庁で土産話にするからと」身分と名前を聞いてきたが、あまり自分が低い身分なので、それじゃ悪いととっさに「あ・・物頭役300石を務めまする」と嘘をつく。安兵衛はありがたがって死に臨んだ。
十太夫は、嘘をついた手前、身分の高い「物頭役」の装束を作るため夫婦して倹約し団子の串を削る内職までして貯めて、命日には物頭役の装束での墓参りを欠かせなかった。
墓参の件が上司に見つかり、色々問いただせられる中、官職詐称は、切腹ものであり、色々詮議されたが事情をしった殿様はその甲斐甲斐しさに打たれ、謹慎の後「物頭役」に取り立てられた。嘘から出た誠・堀部安兵衛への忠義の行いは、「誉の300石」として浪曲・講談で世に広く膾炙されている。


介錯人 荒木十太夫に関する画像は何もないので、介錯をした堀部安兵衛の銅像を掲示する。安兵衛は赤穂義士として有名であるが、中山安兵衛武庸としても有名である。撮影は、平成22年3月16日、新潟市江南区沢海にある秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」の取材に行った時、新発田城を見学した時撮影した。それまで安兵衛が、越後国新発田藩溝口家家臣であったことは全然知らなかった。


新潟県新発田市にある新発田城碑で、日本100名城第31番である。


堀部(中山)安兵衛武庸の銅像は、新発田城、国指定重要文化財、櫓門の前に建立されている。


そして、その横に忠臣蔵サミットの掲示板があった。
義士親善友好都市交流会議等が開催されている事も新発田市に行って初めて知った。何故か、義士お預かりとなった関係の都市の名前は無かった。


平成22年3月17日、新潟市江南区沢海にある秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」の取材に行った。この取材が目的で新潟市に行き、新発田市の新発田城にある堀部(中山)安兵衛武庸の銅像を見たのである。

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