EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山義士祭 5 介錯人 宮原久太夫

2014年12月18日 | 伊予松山歴史散策
次に、木村岡右衛門、大高源吾の介錯をした、宮原久太夫に付いても見てみたい。宮原久太夫頼安は、介錯人としても武士の鏡である。
久太夫が、二人の供養塔を建立して無ければ、現在の松山義士祭は行われてなかったのである。良い事をされたと思う。
宮原久太夫頼安は、生まれは不明、身分は、松山藩徒歩目付、家禄は、10石2人扶持。とだけしか判明してない。
元禄16年2月4日、伊予松山藩江戸中屋敷で行われた赤穂義士の切腹にあたり、木村岡右衛門、大高源吾の介錯をした。20人扶持と軽輩であったが、武士道に厚く剣の腕もあり義士受取りの徒歩頭の中にもその名が伝えられている。
ご子孫は今も健在である。
宮原久太夫頼安は、介錯をした後、藩の許しを請うて久太夫頼安の菩提寺である興聖寺に木村・大高両名の遺髪塔を建立して供養した。正にアッパレである。
そして、久太夫は大高源吾(子葉)の句を詠み始め、俳諧で名を成した子葉を介錯せねばならない空しさに武士を捨て、松山で酒屋を営んだとつて伝えられている。


宮原久太夫頼安は、介錯をした後、藩の許しを請うて久太夫頼安の菩提寺である興聖寺に木村・大高両名の遺髪塔を久太夫の墓に寄り添う様に建てられている。正にアッパレである。


宮原久太夫頼安の墓。


菩提寺は、宮原久太夫頼安の墓銘板を設置した。


宮原久太夫頼安の墓。
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松山義士祭 4 大高源吾忠雄

2014年12月17日 | 伊予松山歴史散策
木村岡右衛門に続いて、大高源吾も見てみたい。木村岡右衛門同様に名前は知っているが、詳しい人物像は知らないので再び興聖寺の所蔵の資料で調べてみた。
大高源吾は、吉良邸討ち入り時は裏門隊として攻め入った。生まれは、寛文12年(1672年)木村同様に浅野家に仕えた。役職は、金奉行・膳番方で、家禄は、20石扶持とある。大高源吾は、俳句を嗜み、子葉の俳号を持ち、俳諧通して宝井其角らと付き合いがあった。気品のある武士であったと伝えられている。元禄15年12月14日笹売り姿で両国橋上、宝井其角に偶然に出会い、其角の「年の瀬や水の流れと人の身は」と掛けられ「あした待たるるその宝船」と返したと言うエピソードは、講談の名場面である。
母、貞立尼は小野寺十内の姉、十内の養子、幸右衛門は、大高源吾の実弟、岡野金衛門は、従兄弟と義士一家である。
刃傷事件の時、内匠頭に従い出府中であったが、急ぎ赤穂へ戻り、弟、従兄弟らと共に盟約に加わった。
大石内蔵助の命を受けて、急進派説得のため原総右衛門らと江戸に下ったが、逆に意気投合して上方急進派となる。丸山会議後内蔵助の意を受け、貝賀弥右衛門と共に同士を訪ね神文返しを行う。綿屋膳右衛門に26両を排用して俳諧「二つの竹」を上梓し、その後江戸に向かい元禄15年10月18日到着。
茶人山田宋偏のもとに弟子入りし、吉良邸の茶会開催から上野介在邸の情報を入手する。討ち入りには竹梯子に伝わり塀を乗り越え一番乗り。
伊予松山藩での切腹は10人の最後であったが、最初の大石主税が潔く切腹したと聞くと晴れやかになったと記されており、若い主税を思いやる優しさもあった。
切腹に臨んでちょっとお筆を拝借したいと書いたのが有名な辞世の句「梅で飲む 茶屋もあるべし 死での山」である。
赤穂義士の中で武のスターが堀部安兵衛なら、文のスターが源吾である。
伯父の小野寺十内が妻に送った手紙に「源吾も大太刀とって、薙刀のようなるを持ち、下には紅の両面の小袖を着、上には両面の広幅小袖を着申し候」とあり、源吾の出で立ちは、ぼたんに狂う唐獅子のような華やかさえあったと伝えられている。
他に「日の恩や たちまち砕く 厚氷」義挙引上げの途中の酒屋で詠じた「山を抜く 力も折れて 松の雪」の句がある。


 大高源吾忠雄 ★ 裏門隊について

出身・生国:播州赤穂
20石の微禄ながら文武にすぐれ大石内蔵助の信頼が厚かった。 容貌は「いもづらで猪首」であったらしいが、俳諧に秀で参勤交代の合間に詠んだ詩集を出す技量を有し、 宝井其角と交流があったことが分かっている。
 生年月日:寛文12年(1672年)
 没年月日:元禄16年2月4日 (1703年)
享 年:32歳
戒 名:刃無一剣信士(泉岳寺)
禄 高:20石五人扶持
身 分:膳番元方 ・ 腰物方 ・ 金奉行
性 格:辞世句
酒を愛した大高源吾
「梅で呑む 茶屋もあるべし 死での山」
句意 : 冥土にもあると言われている「死出の山」にもきっと梅の花を見ながら酒を飲むことのできる茶屋もあるだろう。
「山を裂く 力も折れて 笠の雪」
討入りの時、金革短冊の表に名前、裏にこの句を書いて討ち入った。


お預け処:伊予松山藩松平隠岐守定直の江戸中屋敷(現在、イタリヤ大使館)で元禄16年2月4日 (1703年)木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名切腹、2名の介錯をした伊予松山藩士、宮原久太夫のお墓とその左側に、同じ大きさで、木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名の墓石が建立されている。墓石は当時のままである。宮原久太夫は、藩主の許しを得て伊予松山にある宮原家の菩提寺、興聖寺、宮原家の墓の直ぐ傍に建立した。


大高源吾の有名な辞世の句の句碑。


辞世の句、大高子葉「梅でのむ 茶屋も有るべし 死出の山」の説明板。
松山市教育員会が設置。


右側:木村岡右衛門貞行の戒名「刃通普剣信士(泉岳寺)」菩提の石碑。
左側:大高源吾忠雄の戒名:「刃無一剣信士(泉岳寺)」菩提の石碑。


木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名の辞世の句の石碑と、元禄16年2月4日、切腹し、戒名:大高源吾、刃無一剣信士 木村岡右衛門、戒名:刃通普剣信士、菩提の石碑、お預けとなった伊予松山江戸中屋敷の石碑が最近建立された。


木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名の辞世の句の説明板。


木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名菩提の石碑と木村岡右衛門貞行の辞世の詩の石碑、大高源吾忠雄の辞世の句碑の前に大勢の人達が両名の墓参の後に辞世の句を二人の生涯を偲んでいた。


此処からの画像は、泉岳寺である。以前私が墓参の行った時撮った。
東京都港区高輪二丁目11番1号にある泉岳寺。
義士祭は、年二回、12月と4月に行っており、本家本元の義士祭が盛大に行われている。


泉岳寺にある大石内蔵助良雄の銅像。
手には連判状を持ち、赤穂を向いて建っている。


浅野内匠頭長矩の墓。


大石内蔵助良雄の墓で、その前に義士たちの墓がある。
年中義士の墓には、花と線香が絶えないと言う。


泉岳寺にある義士の墓石の説明板。


赤穂浪士吉良邸討ち入りに多大な支援をしたと言われている、天野屋利兵衛の立派な石碑も建立されている。
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松山義士祭 3 木村岡右衛門貞行

2014年12月16日 | 伊予松山歴史散策
木村岡右衛門貞行

松山義士祭が行われているのでこの際、「木村岡右衛門貞行」と「大高源吾忠雄」の両名について紐解いてみたい。私も名前を知っているが、詳しい人物像は知る由もないので勉強してみたい。
先ずは、木村岡右衛門貞行である。木村は、吉良邸討ち入り時は表門隊として攻め入った。生まれは、播州赤穂で、万治元年(1658年)祖父以来三代に渡って浅野家に仕えた。赤穂城明け渡しの時、絵図奉行として活躍し役職は、馬廻り役・絵図奉行、禄150石であった。直ぐに義士連盟に加わらず、元禄15年山科会議で蓮判に加わる慎重な人柄で、陽明学を学び漢詩・漢文の素養も深かったとある。
その私信によれば飯米にも困る暮らしで、旅費は具足を売却してあてがったと伝えられている。元禄15年9月下旬に江戸に到着、堀部安兵衛らと同居。前原伊助と神崎与五郎が一挙の顛末を記した「赤穂盟伝」に跋文を書く。討ち入りの際、兜頭巾の裏に長文の漢詩(別記)を、左肩には盤経珪禅師から授かった法名を記した金短冊を付けて攻め入ったとある。
泉岳寺に引き上げた時、若き僧(後の土佐宿毛の東福寺住職、月海白明)に法名の謂れを聞かれ、記念の揮毫を求められる。「おもいきや我が武士の道ならでかかる御法のゑんにあうとは」と懐紙に認めて渡した。その懐紙には手の傷の一滴の血痕と共にその辞世が記されていた。これが興聖寺の境内に、下記の漢詩の石碑が建立してある。

辞世の詩・・木村岡右衛門

身寄浮雲滄海東・・・身を寄す浮雲 滄海の東

久愆恩義世塵中・・・久しく恩義を愆(あやまる)世塵の中

看花對月無窮恨・・・花を見月に対して恨窮り無し

散作暁天草木風・・・散じて暁天 草木の風を作る

 木村岡右衛門貞行の略歴

出身・生国:播州赤穂
 生年月日:万治元年(1658年)
 没年月日:元禄16年2月4日 (1703年)
  享 年:46歳
  戒 名:刃通普剣信士 (泉岳寺)
英岳宗俊信士(赤穂で生前蟠渓禅師から授かった戒名)
  禄 高:150石 ・ 譜代
  役職名:馬廻役・ 絵図奉行

 
お預け処:伊予松山藩松平隠岐守定直の江戸中屋敷(現在、イタリヤ大使館)で元禄16年2月4日 (1703年)木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄、両名切腹、2名の介錯をした伊予松山藩士、宮原久太夫のお墓の左側に、同じ大きさで、木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名の墓石が建立されている。墓石は当時のままである。


木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名の辞世の句の説明板。


辞世の詩、木村岡右衛門

身寄浮雲滄海東・久愆恩義世塵中・看花對月無窮恨・散作暁天草木風の石碑。


右側:木村岡右衛門貞行の戒名「刃通普剣信士(泉岳寺)」菩提の石碑。


興聖寺の木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名菩提の石碑と木村岡右衛門貞行の辞世の詩の石碑、大高源吾忠雄の辞世の句碑の前で、お参りに来た人達が詩吟を献吟していた。
皆さん方曰く、当時の武士の忠義心は凄いね、毎年年末になると必ずTVで忠臣蔵が放映されるが、苦しい苦難の生活を耐え、家族と別れ命を懸けて主君の無念を払拭する姿が何か可哀相な気がする。・・と言っていた人がいた。
ドラマでは殆どどの番組も内容は同じであるが、昨年NHKが、最後の忠臣蔵を放映したが「大石の命を受けた寺坂吉右衛門が最後の家族、茅野の家族を訪ね預かった金子を渡す画面から始まる。そして瀬尾孫左右衛門と出会う。このドラマの主人公は、瀬尾孫左右衛門、寺坂吉右衛門、そして大石内蔵助良雄の忘れ形見である可音である。ドラマの内容は、フィクションであるが、見ごたえのあるドラマであった。

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松山義士祭 2 興聖寺の縁起

2014年12月15日 | 伊予松山歴史散策
松山義士祭が行われる興聖寺の由来を見てみる事にしよう。
興聖寺は、松山市末広町の中央にあり(伊予鉄松山市駅から南、徒歩5分愛媛県立中央病院手前・県立南高等学校近く)臨済宗妙心寺の寺院で瑞麟山と号し、御本尊は釈迦如来である。その起源は古く聖徳太子が道後温泉に行啓の際、瑞麟山興聖寺として創建されたとある。その後伊予国守護、河野家の庇護を受け依頼300年間存続した。しかし天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐により河野家滅亡とともに寺運は衰亡した。寛永4年(1627年)出羽国(現、山形県)上山藩から転封して来た伊予松山第二代目藩主、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が寺の由来を聞き宮西町に再建し、菩提寺として寺領200石を給した。蒲生忠知は、参勤交代の時、京都で病死、子供がいなかったのでお家断絶、その後伊勢桑名藩から松平隠岐守(松平定行)が着封して寺を現在の末広町に移転させ、以後江戸・明治・大正と時を過ごしたが、昭和20年(1945年)米軍の松山大空襲で寺院、宝物什器等に至るまで焼失した。昭和25年(1950年)に再建したが現在の寺院に整ったのは昭和58年(1983年)である。
元禄15年(1702年)伊予松山藩主松平定行の時、赤穂義士の吉良邸討ち入りがあり、幕府の命により大石主税をはじめて10名が伊予松山藩江戸屋敷に御預けとなった。翌16年2月切腹の御沙汰があり木村岡右衛門、大高源吾の介錯をした藩士宮原久太夫は、両名の遺髪を藩主の許しを得て、松山にある宮原家の菩提寺、興聖寺に二人の墓を建立し供養した。今も当時のまま残っている。
戦後の混乱を乗り越え、日本経済が高度成長に入った昭和39年(1964年)に、末広町商工会及び町内会が木村岡右衛門、大高源吾、宮原久太夫の供養と地元発展を祈って義士祭を挙行して今年第51回を迎えた。また境内には、蒲生忠知の供養塔、柳原極堂の句碑、があり、松山市の歴史的文化史跡として名を成している。


今や赤穂浪士縁の寺として有名である。


山門を潜ると義士の墓の案内板が見えて来る。


伊予松山藩第二代目「蒲生忠知」の供養塔。
伊予松山初代藩主、加藤嘉明が松山城を築城20万石完成1年前に会津40万石で移封、二代目、蒲生忠知が二ノ丸を造り完成する。蒲生忠知時代は24万石であった。三代目、松平定行の時は、15万石に変更され以後維新まで松平が治めた。


蒲生忠知供養碑の説明板。松山市教育員会設置。


「蒲生忠知」の供養塔の左に、蒲生公の功徳記念碑が建立されている。


蒲生忠知の供養塔、木村岡右衛門、大高源吾の関係の石碑やその説明板が整然と設置されている。
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松山義士祭開催 1

2014年12月12日 | 伊予松山歴史散策


今年も、12月14日がやって来た。松山市で「松山義士祭」が行われた。
年末の日本最大の関心事、313年前の出来事、元禄14年、浅野内匠頭の江戸城松の廊下の刃傷から、同15年、大石内蔵助良雄が率いる赤穂浪士の吉良邸討ち入り、同16年、浪士の切腹に至るまでの一連の事件は、今日まで歴史上のみならず、寛永元年に歌舞伎で、仮名手本忠臣蔵として開かれその後、書籍、映画、演劇、講談、多岐にわたる分野に取り上げられ、最近では外国からも多くの人々が泉岳寺の浪士の墓参りに来ている。
今年も12月14日、赤穂浪士との関係がある地区で義士祭が開催されるが松山でも第51回の義士祭が松山市長も供養に訪れしめやかに行われた。
伊豫松山藩と赤穂浪士の関係は下記の通りで、浪士の内10名を幕府からの指示で伊予松山藩が預かった。
討ち入りした47名は、幕府大目付けへ自首し、細川、水野、毛利、伊予松山藩に預けられ、伊予松山藩では、大石主税ら10名を江戸中屋敷に収容し、切腹まで面倒をみた。
この内大高源吾、木村岡右衛門の切腹を介錯した藩士宮原久太夫は両名の遺髪を藩主の許しを得て、松山にある宮原家の菩提寺、興聖寺(こうしょうじ)に二人の墓を建立し納め供養した。その墓は今も毎年義士祭を開催して供養をしている。宮原は、この介錯の後、俳諧で著名であった人でも殺さねばならない武士というものに嫌気がさし、武士を捨てて松山で酒屋に転じている。
昭和39年、両名と宮原の供養と地元の発展を願って、興聖寺史跡顕彰会が発足し、同年12月14日第1回松山義士祭が挙行された。その後主催は末広町商工会を経て同町会へ移行し現在まで松山の師走の風物詩として今年第51回を迎えた。

文献によると、元禄16年2月4日、幕府より浪士に対する奉書が届いたのは未の刻(午後2時)、検使として御目付、杉田五左衛門と御使番駒木根長三郎以下御徒歩目付が到着、浪士らを長屋から駕籠で迎え大書院玄関の次の間に控えさせた。そこで杉田五左衛門は、罪状を申し渡し切腹を命じた。主税はじめ10名はこれを有難くお請けして支度にかかった。切腹の場所は、三方を花色無地の幕で張り囲らせ、畳二枚を敷き、その上に他家とは異なり、浅黄木綿の蒲団を置いた。浪士控えの間から切腹の場所まで薄縁が敷いてあった。松平隠岐守も三田屋敷に居て、別の座から一同の切腹を終始見届けていた。「波賀清太夫覚書」に詳細に記されている。切腹が始まったのは申の中刻(午後5時)で、この様子を終始見分して隠岐守が上屋敷へ帰ったのが茜刻過ぎ、午後6時過ぎであったというから約1時間前後で10名が切腹し終えたということである。最後に切腹した大高源吾は、呼び出される前に鼻紙に次のように走り書きした辞世を残している。「梅で飲む茶屋もあるへし死出の山」
また、他の文献には、伊予松山藩は親藩であるためその待遇は、幕府の意向を気にしつつ丁重に扱ったようで、食事は伊予松山藩が一番良かった(一汁二采)と当時の記録がある。
切腹後の遺体は布団に包み、泉岳寺へ移送し埋葬されている。また切腹の介錯は細川、水野家では、浪士一人につき一人としたが、伊予松山、毛利家では二人につき一人の介錯であった。
宮原久太夫は20人扶持と軽輩ではあったが、武士道に厚く剣の腕もあり、義士受け取りの徒歩頭の中にもその名前が伝えられている。ご子孫は現在も健在で神奈川県に居られる。
なお、播州赤穂から、手厚くお持て成しをした御礼にと櫨の木が送られており松山道後にある湯築城外堀土塁に植え道後地区土地改良区が大切に保存して現在も健在である。

註1:興聖寺の資料より
参考:伊予松山藩がお預かりの赤穂十士氏名は下記の通り
大石 主税良金     部屋住(大石内蔵助良雄長男)  15歳
堀部 安兵衛武庸    二百石馬廻           33歳
中村 勘助正辰     百石祐筆            44歳
木村 岡右衛門貞行   百五十石代官          45歳
岡野 金右衛門包秀   部屋住(亡父二百石物頭)    23歳
不破 数右衛門正種   先知百石普請奉行        23歳
菅谷 半之丞政利    百石代官            43歳
千馬 三郎兵衛光忠   三十石宗門改          50歳
貝賀 弥左衛門友信   十両三人扶持蔵奉行       53歳
大高 源吾忠雄     二十石五人扶持近習       31歳

註2:伊豫松山藩が預かった江戸中屋敷は、現在イタリア大使館となっており、庭園には赤穂浪士の事柄を石碑に記録として記して建立し保存されている。

註3:藩士達の教育係り、山鹿素行(儒学者・兵法学者)は、大石内蔵助良雄が8歳の時1千石で取り立てられ10年間赤穂藩で教育した。「主君に事があったとき命を捨ててそれに当たる。臣道、家来の道、君臣義あり。」・・とある。

私見:師走になると必ずTVで赤穂義士の事が報じられる。忠義立てに命を捧げた46名、この時代だから出来た事だろうが!!現在人、私を含めてこの様な気持ちの持ち合わせがあるのか??人間何を大切にして生きて行くのか・・今は、家族を大切にだろうか?忠義・武士道という言葉は、現在の世にはヅレを感じ不似合いだが何故かその境地に嵌ってしまう。

開催日:平成26年12月14日(土)
開催場所:興聖寺
開催地住所:愛媛県松山市末広町14番地1


平成26年12月14日開催・第51回記念 義士祭開催掲示板。


午前10時、興聖禅寺を出発する義士行列。
行列は、愛媛県立病院・県立松山南高等学校・愛媛銀行末広支店・松山地下商店街・いよてつ高島屋百貨店前・末広町商店街・興聖禅寺、約2kmを県立松山南高校の吹奏楽部が音楽を奏でながら義士行列をした。


いよてつ高島屋百貨店前を義士隊が行進。


松山市地下商店街を歩く義士隊。


いよてつ高島屋百貨店前で義士隊記念の集合写真。


興聖禅寺に帰り一同勝ち鬨を挙げる義士行列隊。


境内に設営された討ち入りそばを食しつつ義士の忠義心を改めて感銘する義士祭りに参加した人々。


木村岡右衛門、大高源吾のお墓にはお供え物と献花がされ、右に介錯人、宮原久太夫家のお墓がありお花が生けられた。


興聖寺住職の読経が始まり野志松山市長も義士際に参列、木村岡衛門・大高源吾のお墓参りをした。


昨年から始められた、伊豫語部会による紙芝居「赤穂浪士松山藩伝外」が講演された。
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