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松山義士祭 3 木村岡右衛門貞行

2014年12月16日 | 伊予松山歴史散策
木村岡右衛門貞行

松山義士祭が行われているのでこの際、「木村岡右衛門貞行」と「大高源吾忠雄」の両名について紐解いてみたい。私も名前を知っているが、詳しい人物像は知る由もないので勉強してみたい。
先ずは、木村岡右衛門貞行である。木村は、吉良邸討ち入り時は表門隊として攻め入った。生まれは、播州赤穂で、万治元年(1658年)祖父以来三代に渡って浅野家に仕えた。赤穂城明け渡しの時、絵図奉行として活躍し役職は、馬廻り役・絵図奉行、禄150石であった。直ぐに義士連盟に加わらず、元禄15年山科会議で蓮判に加わる慎重な人柄で、陽明学を学び漢詩・漢文の素養も深かったとある。
その私信によれば飯米にも困る暮らしで、旅費は具足を売却してあてがったと伝えられている。元禄15年9月下旬に江戸に到着、堀部安兵衛らと同居。前原伊助と神崎与五郎が一挙の顛末を記した「赤穂盟伝」に跋文を書く。討ち入りの際、兜頭巾の裏に長文の漢詩(別記)を、左肩には盤経珪禅師から授かった法名を記した金短冊を付けて攻め入ったとある。
泉岳寺に引き上げた時、若き僧(後の土佐宿毛の東福寺住職、月海白明)に法名の謂れを聞かれ、記念の揮毫を求められる。「おもいきや我が武士の道ならでかかる御法のゑんにあうとは」と懐紙に認めて渡した。その懐紙には手の傷の一滴の血痕と共にその辞世が記されていた。これが興聖寺の境内に、下記の漢詩の石碑が建立してある。

辞世の詩・・木村岡右衛門

身寄浮雲滄海東・・・身を寄す浮雲 滄海の東

久愆恩義世塵中・・・久しく恩義を愆(あやまる)世塵の中

看花對月無窮恨・・・花を見月に対して恨窮り無し

散作暁天草木風・・・散じて暁天 草木の風を作る

 木村岡右衛門貞行の略歴

出身・生国:播州赤穂
 生年月日:万治元年(1658年)
 没年月日:元禄16年2月4日 (1703年)
  享 年:46歳
  戒 名:刃通普剣信士 (泉岳寺)
英岳宗俊信士(赤穂で生前蟠渓禅師から授かった戒名)
  禄 高:150石 ・ 譜代
  役職名:馬廻役・ 絵図奉行

 
お預け処:伊予松山藩松平隠岐守定直の江戸中屋敷(現在、イタリヤ大使館)で元禄16年2月4日 (1703年)木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄、両名切腹、2名の介錯をした伊予松山藩士、宮原久太夫のお墓の左側に、同じ大きさで、木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名の墓石が建立されている。墓石は当時のままである。


木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名の辞世の句の説明板。


辞世の詩、木村岡右衛門

身寄浮雲滄海東・久愆恩義世塵中・看花對月無窮恨・散作暁天草木風の石碑。


右側:木村岡右衛門貞行の戒名「刃通普剣信士(泉岳寺)」菩提の石碑。


興聖寺の木村岡右衛門貞行と大高源吾忠雄両名菩提の石碑と木村岡右衛門貞行の辞世の詩の石碑、大高源吾忠雄の辞世の句碑の前で、お参りに来た人達が詩吟を献吟していた。
皆さん方曰く、当時の武士の忠義心は凄いね、毎年年末になると必ずTVで忠臣蔵が放映されるが、苦しい苦難の生活を耐え、家族と別れ命を懸けて主君の無念を払拭する姿が何か可哀相な気がする。・・と言っていた人がいた。
ドラマでは殆どどの番組も内容は同じであるが、昨年NHKが、最後の忠臣蔵を放映したが「大石の命を受けた寺坂吉右衛門が最後の家族、茅野の家族を訪ね預かった金子を渡す画面から始まる。そして瀬尾孫左右衛門と出会う。このドラマの主人公は、瀬尾孫左右衛門、寺坂吉右衛門、そして大石内蔵助良雄の忘れ形見である可音である。ドラマの内容は、フィクションであるが、見ごたえのあるドラマであった。

コメント
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