昨日(8月8日)所用で伊予市に(旧郡中町)行った。
その帰りに江戸時代後期の建物が残る、灘町・湊町を散策した。(もしかすると鐘馗さんが揚がっていると思いまして)寛永11年(1635)松山藩の領地であったのが大洲藩に編入され(松山藩の御替地として、藩政時代郡中と言っていた)郡中港は大洲藩の物資の積出港として栄え、元大洲藩士であった郡中町長藤谷豊城氏が資材を投入し郡中港を大改造、郡中町の大発展に尽力した。郡中港の傍にある神社境内に藤谷豊城氏の胸像が建立されている。台座の碑文は、秋山好古が揮毫している。また此の神社には、伊藤博文が揮毫した社号額がある。
現在伊予市は、はながつを(削り節)全国の6割を製造出荷している名産地でもある。
なお、目的の散策、鐘馗さんは見つからなかった。
画像は、秋山好古揮毫の藤谷豊城胸像
その帰りに江戸時代後期の建物が残る、灘町・湊町を散策した。(もしかすると鐘馗さんが揚がっていると思いまして)寛永11年(1635)松山藩の領地であったのが大洲藩に編入され(松山藩の御替地として、藩政時代郡中と言っていた)郡中港は大洲藩の物資の積出港として栄え、元大洲藩士であった郡中町長藤谷豊城氏が資材を投入し郡中港を大改造、郡中町の大発展に尽力した。郡中港の傍にある神社境内に藤谷豊城氏の胸像が建立されている。台座の碑文は、秋山好古が揮毫している。また此の神社には、伊藤博文が揮毫した社号額がある。
現在伊予市は、はながつを(削り節)全国の6割を製造出荷している名産地でもある。
なお、目的の散策、鐘馗さんは見つからなかった。
画像は、秋山好古揮毫の藤谷豊城胸像