EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予市灘町・湊町散策

2009年08月09日 | 伊予松山歴史散策
昨日(8月8日)所用で伊予市に(旧郡中町)行った。
その帰りに江戸時代後期の建物が残る、灘町・湊町を散策した。(もしかすると鐘馗さんが揚がっていると思いまして)寛永11年(1635)松山藩の領地であったのが大洲藩に編入され(松山藩の御替地として、藩政時代郡中と言っていた)郡中港は大洲藩の物資の積出港として栄え、元大洲藩士であった郡中町長藤谷豊城氏が資材を投入し郡中港を大改造、郡中町の大発展に尽力した。郡中港の傍にある神社境内に藤谷豊城氏の胸像が建立されている。台座の碑文は、秋山好古が揮毫している。また此の神社には、伊藤博文が揮毫した社号額がある。

現在伊予市は、はながつを(削り節)全国の6割を製造出荷している名産地でもある。

なお、目的の散策、鐘馗さんは見つからなかった。

画像は、秋山好古揮毫の藤谷豊城胸像
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NHKアナウンサーにお願い「言葉遣い」

2009年08月07日 | 伊予松山歴史散策
11年前からNHK「日本放送協会長」に言葉遣いと女性アナの髪形に付いてお願いしてきましたが何も改善しようとする姿勢が伺えない。お願いした事は、大げさな事柄でなく唯二つの事で、一つは「ウン」「ウンー」の言葉です。NHKのアナウンサーは言葉遣いのプロで綺麗な品格のある言葉でブラウン管の前に何百万人の視聴者が見ています。私が小さい時にウン・・ウンーを使うとハィでしょうハィと言いなさい言葉の躾を受けました。今のNHKのアナは平気で使う、孫にハィと言いなさいと注意をするとNHKのアナも言ってるよ・・いいんじゃないウンは・・です。言葉の躾けにならない。NHKアナに再度お願いします・・ウン・・ウンーは禁句として欲しい。NHKには素晴らしい言葉遣いをされる方が居ます。それは政治部担当の山下毅さん・・この方は絶対に・ウン・・ウンー使わないそれからアナとの対談時にも必要以外にはうなずく言葉を発しない・・それから内山アナウンサーこの方も山下さん同様にウン・・ウンー・・必要以外にはうなずく言葉を発しない・聴いていて気持ちがいい。NHKのアナの皆さんもっと品格のアル言葉遣いで放送して下さい。
先日、前ソフトバンク監督の王さんがあるTVに対談で出演してましたが、一切ウンは使わず聴いていて気持ちがよかった。それからもう一方早稲田大学の斉藤選手非常に気持ちのいい受け答え、絶対にウンは勿論エー・アノーを発せない、NHKアナはもっと確りと勉強してからTVに出て欲しい。

もう一つは、女性アナの髪形で長い髪をわざわざ襟巻きの如く前に出してTVに出てくる。視聴者は目障りです。芸能人達は流行の髪形かどうか知らないが長い髪を前に出して此れ見よかにしているが、アナは芸能人ではない・・「飛行機の客室乗務員の如く長い髪のアナは後ろでキチンと束ねて」気持ちのいい姿で出て下さい。

以上節にお願いします。

最後に
平成15年3月26日(水)・デイリースポーツP7「マイクからの風景・フリーアナウンサー島村俊治さんが次のようなことを書いていました。
最近のNHKアナは、発音が不明確でタレント化した現役アナウンサー。
 声の出し方、心の伝え方其れがプロの技だろうNHKには切磋琢磨が欠けている。

と書かれたいた。
コメント (1)
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広島原爆投下から64年

2009年08月06日 | 伊予松山歴史散策
今日は、大東亜戦争(太平洋戦争・GHQの呼び方)末期昭和20年8月6日午前8時15分に広島に投下、世界で始めての核爆弾(原子爆弾)で広島市民14万人の方々が死亡、その後原爆被爆障害で亡くなられ現在も原爆症害で苦しんでおられる。松山市からも広島方向の上空でピカッと閃光が見えたそうです。
その後長崎市に投下、日本政府は戦争を終結したが、あまりにも遅すぎた判断で当時の責任者、東条英機の判断ミスであると私は考える。国民の安全を考えるともっと早く決断すべきでであった。沖縄県民の戦争犠牲者も無かったはず。
8月15日は、盛大に終戦記念日を開催しているが、戦後日本が独立したのは、昭和27年4月28日に連合軍から解放され国家として主権が回復された新生日本の独立記念日であるが、何も式典等々はしない・・またマスコミも何も取り上げない、不思議な国家だと何時も思う。日本と言う国は本当の歴史を何も国民に説明しないし義務教育で真の歴史を教えていない。なんといい加減な国家だ

画像は、松山大空襲後の状況で、空襲は昭和20年7月26日23時08分から27日1時30分まで攻撃を受けた。サイパン・イスレイ飛行場から飛来したB29「空飛ぶ要塞」50機が896トンの焼夷弾を投下した。
戦災で崩壊した松山市内「県庁付近」である。
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坊ちゃん列車

2009年08月05日 | 伊予松山歴史散策
文豪夏目漱石が松山中学(現愛媛県立松山東高等学校)英語教師として赴任したのが明治28年であった。松山には帝国大学(現東京大学)同窓生の正岡子規がいるた。子規が身体を患い松山に帰り転がりこんだのが夏目漱石が下宿していた所で(後の愚陀仏庵)で51日間共に生活をしその間に俳句をたしなみ俳号が愚陀仏である。また高浜虚子の薦めでホトトギスに投稿したのが好評で作家として出発、その中で坊ちゃんを執筆、代表作となる。もし漱石が松山に来てなかったら文豪夏目漱石は誕生してなかったと思う。「漱石は子規の愛称の一つであったものを夏目金之助に与えたとある。」

画像は、小説「坊ちゃん」に出てくる、坊ちゃん列車1号機関車です。
現在、伊予鉄道が坊ちゃん列車を2台復元して路面電車の軌道を走っている。
1号機関車は、伊予鉄道が明治21年ドイツから購入した1号機で、14号機は明治41年最後にドイツから購入した機関車です。
復元機関車はディーゼルエンジンを搭載して走行している。
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松山市の鐘馗さん その二

2009年08月04日 | 伊予松山歴史散策
松山市にもう一体鐘馗さんが居ます。
福音寺町に鎮座してましてがっちりと表鬼門を邪気から護っています。
門の入り口には、小型の雌雄の鯱が置かれております。鯱は、姿は魚で頭は虎、背中には棘を持つ想像の動物で火災時には口から水を噴出し火を消す、火災から護る魔除けとして用いられたいる。「近世の城郭特に天守に揚げられている。織田信長が安土城を創建した時に装飾と火災からのお守りとして揚げてから以後必ず天守には揚がっている」

各家庭の屋根や練塀、玄関入口を見ると、鷲・布袋さん・恵比寿さん等々を揚げている。

画像は、福音寺町の鐘馗さんです。
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