EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

国道196号線・道路元標

2009年08月14日 | 伊予松山歴史散策
昨日所用で本町に行き帰り松山城三之丸の外濠を自転車で走行していると国道196号線の道路元標が目についた。
日本の国道は、一般国道の路線を指定する政令があり平成16年3月19日に改正公布され此の時点で国道が507号(起点が糸満市で、終点は那覇市)路線がある。
国道には起点と終点があり、起点を上り、終点を下りと言っている。
国道1号線は、起点が東京都中央区日本橋で終点が大阪市北区梅田新道交差点である。

画像の道路元標は国道196号線(起点が松山市で終点が西条市)の記念道路元標石碑である。うっかりしていると見落としてしまう小さな道路元標である。
国道の改修記念に建立したのでしょうか??・簡単な説明があればいいのだが、残念。

立派な道路元標は、東京日本橋にある道路元標立派である。
明日のブログで紹介しましょう。
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子規の句碑新たに建立 松山市平和通りに

2009年08月13日 | 伊予松山歴史散策
昨日所用で平和通を自転車で走行していると新しい句碑8基を発見した。
場所は、松山市平和通三丁目から平和通五丁目の間で新たに歩道と自転車専用路が建設された境目に建立してある。
この平和通りは、戦後松山市が実施してきた戦災復興都市計画事業の一つとして道路整備した松山市で一番大きい市道である。「片側2車線」今年松山市で初めて歩道と車道の間に自転車道を整備した。此処に新しい句碑が先月建立された。
句碑の殆どは、正岡子規の句で、子規は短詩系文学、特に近代俳句を確立した俳人である。東京大学を中退し日本新聞社の記者として入社、日清戦争の時に従軍記者として清国に渡り記者として活躍した。「秋山眞之と松山中学、東京予備門の同級生で、日清戦争で活躍していた事に刺激を受けての行動」帰国の船内で喀血して須磨で療養を余儀なくされ以後体調を崩しながら近代俳句の確立に命を掛けた。また野球を全国に広め振興に尽くし野球殿堂入りしている。野球をこよなく愛し野球人以外の人が野球殿堂入りしているのは子規だけである。
松山が野球の強いのは子規が松山に帰るたびに青少年に指導した基盤があるためである。

画像の句碑は、明治28年9月20日夏目漱石の下宿先「愚陀佛庵」で療養していた子規は何時に無く体調がよく友人の柳原極堂「排誌:ホトトギスの創刊者」と松山城の北山麓を散歩した時の句である。

杖によりて 町を出づれハ 稲の花

       句碑は、同じ大きさ、形で8基建立されている。


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ソロン観音菩薩立像

2009年08月12日 | 伊予松山歴史散策
敗戦して今年が64年になる。8月15日がまた来る。
昭和18年のカイロ宣言・昭和20年2月のヤルタ秘密協定・昭和20年7月にポツダム宣言を発令8月15日正午、14日深夜に録音された天皇陛下のポツダム受諾に関する放送が全国民に対して行われ戦争を停止した。
此処に紹介するソロン観音菩薩は、下記によるものである。

米軍の海兵隊に当たる部隊として、わが国で初めての4個の海上機動旅団が昭和19年3月31日に陸軍の作戦命令により関東軍の主力部隊で編成された。第二旅団は当初はシンガポール作戦に参戦するはずであったが命令変更により西部ニューギニア戦線に変更されソロンに上陸した。

日本陸軍最南端の飛行場「サマテ飛行場」の防衛に死力を尽くし、米軍はフイリッピン、沖縄戦線の足がかりとしてビヤク飛行場を占領しようとする両軍の熾烈な防衛戦線の中、3000名の日本兵士が戦死した。

生存者は昭和21年5月25日に帰還復員された。機動第三大隊第一中隊(エフマン島で活動)で無事帰還復員された皆さん方はエフマン朋友会(代表 物江啓止氏)を結成し一昨年まで全国各地で戦死した戦友の慰霊を兼ねた会合をされて来たが高齢のため中止された。

私も遺族として13年前から参加していた。私の父親は機動第三大隊第一中隊第一小隊長で昭和20年4月28日将校斥候途中米軍と遭遇し戦闘状態となり密林の中で戦死現在も西部ニューギニアの密林で眠っている。親父以外の斥候隊員は全員無事司令部に帰還され復員された。親父の戦死状況は、エフマン朋友会の斥候隊員の方から聞き始めて詳細が分かった。今から僅か13年前の事である。

画像の観音菩薩は、西部ニューギニアで戦死された方々の英霊のご冥福をお祈りし、世界恒久平和と人類の幸福を祈念して昭和62年6月に西部ニューギニア(インドネシア)のソロン市バナナ台慰霊碑苑に建立された。しかしソロン観音菩薩像が平成15年8月心無き者により、光背・両腕・両衣・を破壊され盗難の大被害の惨事にあい、以後ソロンに安置する事が出来ないと判断され、日本に持ち帰り修復し、平成16年4月25日愛媛県西宇和郡伊方町田部に於いて再入魂式(地元住職により)を行い再建立されたソロン観音菩薩立像である。

ソロン慰霊巡拝世話人、石井さん(東京在住)は観音菩薩建立地を全国の各地を調査したが適当な場所がなかった。現在地の所有者が敷地の提供をして頂き建立する事が出来たと感謝していた。

場所は、眼下に宇和海を望み遥か彼方で戦友が眠る西部ニューギニアを遠視し出来る最高の場所で英霊を見守っている。

ソロン観音菩薩立像再建立所在地:愛媛県西宇和郡瀬戸町田部
               国道197号線沿い・伊予鉄バス田部越バス停横


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第91回全国高校野球選手権 開幕

2009年08月11日 | 伊予松山歴史散策
今年も全国高校野球選手権大会が始まった。今年が第91回だそうです。
高校野球は、高等学校教育の中で野球を通して行われる青少年教育の一環である。スポーツだから必ず結果が出る。一部の選手は生活の基盤となるプロとして活躍する生徒もいるが、一部の限られた生徒で多くの生徒は社会人として巣立っていく。

3年間の成果を悔いのない野球を甲子園でして欲しい。今年の夏は異変続きで今年も天候で二日続きで試合延期となっている。甲子園を目指して来た選手達には最高のグランド状態で試合をさせあげたい。

大変な費用が掛かると思うが開閉式の屋根を着けてもらうことは出来ないものでしょうか。節に願うものだ。

NHKのアナウンサー&解説者の方には高校野球にふさわしい言葉遣い「ウン・ウンー」は禁句としてすがすがしい、品格のある言葉遣いで放送をして頂きたい。

画像は、今年の開会式で昨年大会の優勝高校「大阪桐蔭高等学校」から返還された深紅の大優勝旗で、偶然に第22回大会・昭和25年優勝の松山東高等学校(池田ー宇野)と第35回大会・昭和28年優勝の松山商業高等学校(空谷ー吉岡)のペナントが見えた。・・・家族の母校ですので
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伊予松山城 本壇天守

2009年08月10日 | 伊予松山歴史散策
伊予松山城天守は、現存天守12天守の一つで一番新しい天守である。(嘉永5年創建・157年前)天明4年(1784年)1月元旦落雷で焼失、以後68年間天守はなく、現天守が完成したのは嘉永5年(1852年)12月20日完成、安政元年(1854年)2月8日落成式が盛大に行われ、わが国の城郭のうち連立式建築様式の最も完備した偉観を持つ連立式城郭が完成した。(松山市発行・松山城から)
日本三大連立式城郭とは、姫路城・和歌山城・伊予松山城で連立式城郭には中庭があるが伊予松山城の中庭の規模が一番大きい。姫路城の中庭は一般公開していない。

現存天守は、弘前城・松本城・丸岡城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城・備中松山城・丸亀城・高知城・宇和島城・伊予松山城の各天守である。

近世(安土桃山時代~江戸時代)に創建された天守の呼び方は、前記は天主で後記は天守と呼ぶ。

画像は、伊予松山城本丸本壇で城郭建築様式がよくわかると思う。
    二之丸は山麓に位置し、三之丸は平地にあり伊予松山城の型式は平山城で    ある。本丸は132mに位置する。
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