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伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 11 松平定国(第9代藩主)

2010年11月04日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 11 松平定国(第9代藩主)

第8代藩主を継承した、松平定静には嫡男が無く、第9代藩主定国は、第8代将軍徳川吉宗の次男徳川御3卿の一つ田安家の党主・田安宗武の2男である。
伊予松山藩は徳川親藩の色が濃いくなった時代である。

定国は、定静生前からすでに伊予松平家に養子として入っていて養父定静から、定国の名前を与えられていた。
その定国にも苦難が生じた。天明4年(1784)元旦の真夜中に天守に落雷があり、そのために本丸の主要部を焼失し、朝方鎮火した。定国は病気療養中難を法龍寺にいて難を避け、翌朝帰城した。定国は直ちに急使を江戸に送りその旨幕府に報告した。幕府から使者が派遣せられ、本丸焼失のため参勤の時期を9月に延期するよう伝えられた。

定国は、城郭復興計画を幕府に請願し、6月29日その許可を受けた。
この頃松山では俳壇に黄金時代をもたらせ、栗田樗堂とその一派が俳聖芭蕉が逝去してから90年「芭蕉に帰れ」の俳諧復興運動が起こった。

松山藩主は俳句どころでなく城郭復興で苦難をしていた。
城郭復興が完成するのは、第12代松平定穀(さだよし)後に勝善と改名が安政元年(1854)に復興完成するのであるが、その間実に70年間伊予松山藩には天守がなかった。

藩は、大火の城下町の復興と城郭復興で大変であった。
定国は、文化1年(11804)48歳で逝去、藩主は第10代松平定則に継がれる。
 従4位 左近衛権少将 隠岐守 始中務大輔

 画像は、松山城一ノ門南櫓で、紫竹門東塀と呼応して本壇入り口を固める単層櫓で、本壇石垣上に臨みその北側に一ノ門が構えられる。
建造時期は、嘉永期の再建で、第12代藩主松平勝善の建造である。

昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
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