伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 10 松平定静(第8代藩主)
第8代藩主を継承した、松平定静は第4代藩主定直の5男の長男である。
定静の時代になると飢饉騒動苦慮の時代もなんとか治まり藩経済も安定化し、本来の藩政が動き始め、藩学にも活性化が出てきた。
従来、松山藩では、官学としてしての地位を誇った朱子学が隆盛であったが、この時代になり、やがて各学派の進展による儒学の黄金時代をつくると共に道徳規範をいっそう深く追求する傾向が生まれた。
またこの頃から俳句も盛んに行われるようになったとある。
しかしいい事ばかりでなく、明和7年(1770)12月26日の夜、現千舟町の足軽の家から出火して、現新立町まで類焼し、また同夜城北清水町も火事があって鉄砲町東詰めまで延焼し、松山にとって未曾有の大火で武家屋敷301軒、商家750軒、寺院2軒が被害を受けた。
この復興は次世代の9代藩主の大仕事となり受け継がれていく事になる。
定静は、安永8年(1779)51歳で逝去、藩主は第9代松平定国に継がれる。
画像は、松山城本壇一ノ門内側である。
内から見ると、門の戸としては非常に珍しい造りの、上下が格子造りとなっていて、この格子造りがよく判ってもらえると思う。
建造時期は、安政元年に再建される天守に先駆けて本壇再建最初に建築された城門である。
建築時期は、嘉永期の再建で、第12代藩主松平勝善の建造である。
昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
第8代藩主を継承した、松平定静は第4代藩主定直の5男の長男である。
定静の時代になると飢饉騒動苦慮の時代もなんとか治まり藩経済も安定化し、本来の藩政が動き始め、藩学にも活性化が出てきた。
従来、松山藩では、官学としてしての地位を誇った朱子学が隆盛であったが、この時代になり、やがて各学派の進展による儒学の黄金時代をつくると共に道徳規範をいっそう深く追求する傾向が生まれた。
またこの頃から俳句も盛んに行われるようになったとある。
しかしいい事ばかりでなく、明和7年(1770)12月26日の夜、現千舟町の足軽の家から出火して、現新立町まで類焼し、また同夜城北清水町も火事があって鉄砲町東詰めまで延焼し、松山にとって未曾有の大火で武家屋敷301軒、商家750軒、寺院2軒が被害を受けた。
この復興は次世代の9代藩主の大仕事となり受け継がれていく事になる。
定静は、安永8年(1779)51歳で逝去、藩主は第9代松平定国に継がれる。
画像は、松山城本壇一ノ門内側である。
内から見ると、門の戸としては非常に珍しい造りの、上下が格子造りとなっていて、この格子造りがよく判ってもらえると思う。
建造時期は、安政元年に再建される天守に先駆けて本壇再建最初に建築された城門である。
建築時期は、嘉永期の再建で、第12代藩主松平勝善の建造である。
昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
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