京都の維新史跡・紀行散策 9「中岡慎太郎寓居之地」
画像は、中岡慎太郎寓居之地で、坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の地近江屋の斜め前である。その裏側近くに「高瀬川沿いに」土佐藩邸がある。
勤王派の志士たちは、新撰組や京都見回組等の威圧をかわしながら秘かに活動を続けた。薩摩藩邸は、御所の近くに大きな敷地に構え、長州藩邸は本能寺の近くにあり、この時期は薩摩と長州は敬遠の間柄で、長州を会津藩と薩摩藩が京都から追放したが、長州は再び京都に攻め込み戦いを試みる・・此れが蛤御門の変「禁門の変」で長州屋敷はこの変で焼失してしまう。
尊王攘夷を主張する長州藩と公武合体の新政権唱える薩摩藩、此れをまとめ薩長連合軍をつくり上げたのが龍馬と慎太郎である。
薩摩屋敷は、現在同志社大学である。
この時期の京都は凄い事になっていただろう、関係のない町家の民衆はどんな思い出で生活をしていたのだろうか??何時の世も戦いの犠牲になるのは、民、商い商人、農民である。
画像は、中岡慎太郎寓居之地で、坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の地近江屋の斜め前である。その裏側近くに「高瀬川沿いに」土佐藩邸がある。
勤王派の志士たちは、新撰組や京都見回組等の威圧をかわしながら秘かに活動を続けた。薩摩藩邸は、御所の近くに大きな敷地に構え、長州藩邸は本能寺の近くにあり、この時期は薩摩と長州は敬遠の間柄で、長州を会津藩と薩摩藩が京都から追放したが、長州は再び京都に攻め込み戦いを試みる・・此れが蛤御門の変「禁門の変」で長州屋敷はこの変で焼失してしまう。
尊王攘夷を主張する長州藩と公武合体の新政権唱える薩摩藩、此れをまとめ薩長連合軍をつくり上げたのが龍馬と慎太郎である。
薩摩屋敷は、現在同志社大学である。
この時期の京都は凄い事になっていただろう、関係のない町家の民衆はどんな思い出で生活をしていたのだろうか??何時の世も戦いの犠牲になるのは、民、商い商人、農民である。
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