知った人の作ってくれるケーキ、美味しいですね。
ただ、場合によりお店のほうが濃い味で美味しく
作ってくれたのは多少物足りないなんてこともあります。
テキはプロですから、勝つのは難しい。
そんなときにどういう表現をするか。
私には子や孫はいませんが、かわいい小学生がいたりして
作ってくれるならば「ん~、これは旨い」と言うはずですし
それがカミサンのものでしたら正直に「もうちょい」とか
言うでしょうね。
相手により評価が変わります。
ましてやプロのものなら厳しく味わいます。
もし、一律に評価して孫のケーキにダメを出すジジイが
いたら、情けない、というか人としてどうか。。。
○
勉強の評価はどうでしょう。
今まで漢字が苦手だった子が努力をみせはじめた時期
ならば止め撥ねなど煩く言わず、マルをつけます。
誉めてあげるべきです。
トメハネは次の段階で。
逆に同じ漢字テストでもトメハネを厳しく言わねば
ならない生徒もいます。
DSじゃないんだからきちんと書こう、ってね。
つまり同じことを答えても人により評価基準が
違うのです。
一律に評価するのとどちらがよいですか?
他塾も参加するようなテストで成績をつけるのなら
採点基準は一律にしなければなりません。
出来具合を比較するのですから。
そうでない場合は一律の基準は手抜きに通じ
人として相手のことを考えていないと思います。
とはいえ一斉授業ではやりづらいでしょうね。
「何であの子の場合マルなんだ?」ってね。
出来ない子がマケてもらって却って委縮することに
なりかねませんし。
人間的な対応ができるのは「個別」だから。
○
個別の評価基準で神経を使うのは国語ですが
その他の教科でも人により時期により評価が動くのは
当然であります。
◎
以前にも引用しましたが京大辻本雅史教授の
『「学び」の復権』から。
明治になって西洋式学校が始まります。
「学習者を中心においた近世的な教育観を捨て、
教える側を主体とした教育観、すなわち近代学校の
一斉教授中心の教育観に転換したことを意味している。
・・・
学習や教育の自由なあり方も排除されていった。いまの
学校に見られる教育・学習の画一化は、ここから始まった
のである。」
ただ、場合によりお店のほうが濃い味で美味しく
作ってくれたのは多少物足りないなんてこともあります。
テキはプロですから、勝つのは難しい。
そんなときにどういう表現をするか。
私には子や孫はいませんが、かわいい小学生がいたりして
作ってくれるならば「ん~、これは旨い」と言うはずですし
それがカミサンのものでしたら正直に「もうちょい」とか
言うでしょうね。
相手により評価が変わります。
ましてやプロのものなら厳しく味わいます。
もし、一律に評価して孫のケーキにダメを出すジジイが
いたら、情けない、というか人としてどうか。。。
○
勉強の評価はどうでしょう。
今まで漢字が苦手だった子が努力をみせはじめた時期
ならば止め撥ねなど煩く言わず、マルをつけます。
誉めてあげるべきです。
トメハネは次の段階で。
逆に同じ漢字テストでもトメハネを厳しく言わねば
ならない生徒もいます。
DSじゃないんだからきちんと書こう、ってね。
つまり同じことを答えても人により評価基準が
違うのです。
一律に評価するのとどちらがよいですか?
他塾も参加するようなテストで成績をつけるのなら
採点基準は一律にしなければなりません。
出来具合を比較するのですから。
そうでない場合は一律の基準は手抜きに通じ
人として相手のことを考えていないと思います。
とはいえ一斉授業ではやりづらいでしょうね。
「何であの子の場合マルなんだ?」ってね。
出来ない子がマケてもらって却って委縮することに
なりかねませんし。
人間的な対応ができるのは「個別」だから。
○
個別の評価基準で神経を使うのは国語ですが
その他の教科でも人により時期により評価が動くのは
当然であります。
◎
以前にも引用しましたが京大辻本雅史教授の
『「学び」の復権』から。
明治になって西洋式学校が始まります。
「学習者を中心においた近世的な教育観を捨て、
教える側を主体とした教育観、すなわち近代学校の
一斉教授中心の教育観に転換したことを意味している。
・・・
学習や教育の自由なあり方も排除されていった。いまの
学校に見られる教育・学習の画一化は、ここから始まった
のである。」