「老」という言葉を考えてみた。
言うまでもなく、「幼」に対する言葉で、「老」は老いたこと。
「老人」、「老女」、「老骨」、「老妻」、「老嬢」などは、老いた人を表す言葉だ。
転じて、「老醜」、「老衰」、「老耄」、「老残」、「老眼」など、老いたことによる身体的、精神的な状態を表す言葉に使用されている。仕方がないことだが、どう考えてもマイナスイメージだ。
一方、更に転じて、「老獪」、「老巧」となれば、永年の経験を巧みに活用するによって得た強かさを表しているようにも感じられる。これとて、あまり褒められた言葉とは言えない。
言葉の好き嫌いを語ってはいられない。私はすでに「老人」であり、「老骨」であり「老眼」もかなり進んでいる。もちろん、きっと「老残」を晒しているに違いない。
「老」は避けられずに背負っている現実だ。「老獪」では困るが、「老練」とか「老巧」などの術を駆使して、迷惑をかけずに生きたいものだ。
花や葉を落としても、なお悠々と美しい老い方なないものだろうか。
たとえば、「老麗」などでもいいのだが。
先日、次のような句を捻ってみた。
裸木のこぶ悠々と老いゆけり 鵯 一平
別館として、写真俳句ブログの「ひよどり草紙」を開いてます。
ご覧いただけると嬉しいです。
→ こちら
アメリカ人は前向きなのですね。
私は自分向きで、時には後ろを向いたりもします。
冷静と言えばそうも言えるのですが、少なくともプラス思考とは言えないようです。
それではいけませんね。
もっと若い華やいだ感覚で過ごすことにします。
「ヒヨドリ」の記事、読ませていただきました。
家の周りにはいつもいるように思っていたので、渡り鳥ではないと思っておりました。
津軽海峡や関門海峡を渡るとは知りませんでした。
カミさんを見ると、やはり、「年老いたのだなァ」と感じます。
あんなに若かったカミさんが、今やお婆さん。
歳月は残酷だと思います。
そんな時、いたわらなければと思うのですが、すぐに忘れてしまう私なのです。
ご無沙汰しております。
私も「老人」とか「年寄り」とかいう言葉(漢字)はネガティブなイメージがあって、ここ最近使ったことがありません。
アメリカでは自分のことを「年寄りだから。。」なんて言う人がいないのですよ~
いつまでも若々しくて社交的で、こちらが元気をもらっています。
だから、ひよどりさんも私も老け込んじゃだめですよね。
張り切っていきましょう!
息子も娘夫婦も孫も、それなりの勢いがあります。
ところが我が夫婦はどう見ても老いの姿ありありです。これまで懸命に生きてきたのだから仕方ないとは思いますが、やはり寂しいです。
でもでも、その日その日、自分なりの老いを生きたいと思います。
だんだんさんのお言葉、とても嬉しく、ありがたいことです。
老いた今、ブレーキが効かなくなった一面がありそうに思います。
しかし他方、「老練」とか「老獪」とあるように、「直情径行」からは離れられるかも知れません。
その日の気分次第です。
「美しく老いる」というのは、あまりにも綺麗事過ぎますか?
しかし、「我が儘に老いる」では周囲がたまらないでしょうね。
「生かされて」生きるのであれば、自然体がもっとも「自然」なのでしょうか。
「老」は現実のものとして受け入れざるを得ません。
しかし、受け入れるにしても、マイナスの振り幅を極小のものとして生きたく、それにはどうすべきか、時には考えております。
そもそもそんなことを考えること自体、「老耄」かも知れません。
老いてなお、人間味が増すと思います。
こちらにお邪魔して、疑問難問納得の文を拝見するのは。
人間味に触れたいから…
若輩者と認めて、これからも読ませて頂きます。
老巧なひよどりさんでいて下さい!
裸木は男っぽくて好きです。
母を見ていて「美しく老いる」は嘘だと思いました。
ここまで来たら、我がままに生きましょう。
聖人君子ほどつまらない人間はいません。
老麗そのものですよ。精神は老いを知らない感じがしますもの。
精神が老いてはどうにもなりませんが、精神を常に刺激しつつ若さを保っていきましょうね。
と、私は頑張っていますのよ。