子供のころ、凧揚げと言えば、当然ながら手作りの凧だった。
竹を切って、まず籖(ひご)を作った。
その籖を組見合わせて糸で結び、凧の骨組みを作ったのだ。
それに和紙を貼れば、凧のできあがりだった。
もちろん、「絵」や「字」は、自分で書かなければならない。
「風」と書いたり、「勝」などと書いた。
ほかに、「戦意昂揚」となる言葉を書いたかもしれない。今は覚えていない。
肝腎なものとして、忘れてならないのは尻尾だ。
細く切った紙を、凧に貼り付けなければならない。
糸は太めの木綿糸だったように思う。戦争末期ごろは、あまり手に入らなかった。
揚げる場所はいたるところにあった。主として田んぼだった。
滑稽なほどの一途さいかのぼり 鵯 一平
なにぶん子供の手作りだ。思い通りには揚がってくれない。
クルクルと廻ってしまったり、初めから地面を這ってしまうのもあった。
写真の凧は、幼稚園児の手作りだった。もちろん、保護者の手も入っているはず。
30人ほどの内、うまく揚がったのはこの2つだけ。
揚げていたのも父親だった。
ウルウルしそうな光景だった。
別館として、写真俳句ブログの「ひよどり草紙」を開いております。
ご覧いただけると嬉しいです。
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イカ凧?
そうですよ、私も手作りでした。
鳥籠も作った時代でした。
あれはあれで、子供にとっては楽しいことでした。
今も手作りをさせているようで、いいですねえ。
当然、お父さんの出番です。
子供と一緒に走りまわっていて、楽しそうでした。
昔は、そんな人、滅多にいませんでしたね。
風がないと揚げるのは難しいでしょう?
上がった凧のお父さんの自慢そうな気持を想像します
私のすぐ上に姉がいてその上は4人の兄がいます
大きな竹から籖(ひご)を作っていたのを思い出しました
小刀で削っていたかなぁ~
鳥かごも作っていましたね
メジロも買っていたような・・・
そうそう、尻尾を長くしましたね。
小学校のそばの田んぼで、諏訪神社の参道を走りながら、凧揚げしたのは、もはや幻のごとしです。
高く揚がっているのは、ずっと年上の人だったように記憶しています。
風が弱い日には、走らなければ揚がりませんよね。
まずは走りました。
揚がり始めれば占めたもので、ずんずんと揚がっていきます。
今は場所探しが大変でしょうね。
私の子供時代は、物資や食糧が不足していたので、手作りが多かったのです。
鳥籠「小鳥を飼う籠」も手作りしていた時代ですから、籖作りは日常的でした。
今はその根気がありません。
私の子供のころ、尻尾は紙を細く切って作っていました。
尻尾が如何に大事か、作ってみてよく理解できましたね。
3000点の凧の博物館は凄いですね。
いろいろな「もの」や「こと」にこだわり、蒐集したり研究している人がいるものですね。
折がありましたら、日本橋へ行ってみます。
「いかのぼり」のいわれ、不勉強なので詳しくは知らないのです。
江戸時代よりも前は、タコとは言わず、イカと呼んでいたようです。
タコと呼ぶようになったのは、江戸時代以降だったと何かで読みました。
今でも、長崎では「ハタ」と呼び、三条では「イカ」と呼んでいるようです。
タコ作り思い出しますネ、貼り付ける糊は、ご飯粒をつぶしたもので、代用した記憶があります。
尾は、長いほど飛ぶとか言って、新聞紙を切って、繋ぎ足しをしてました。
昨日の尊崇の思いに、今朝夢見て目を覚まし、確認せずの二重投稿にご容赦を…、ボケ現象です。
凧揚げ・・子供の頃私も女だてらに
やりました。 走ってはいけない・・といわれましたが、気が短い私は、早く挙げたくって走ってしまいました。
心に沁みますね。
竹から籤を作られたとは…籤は買う物だと思っておりました。
今年は一度も凧上げを見ておりません。
真っ青の空に揚がった手作りの和風凧、いいですね !
50年前を思い出しました。
ひよどりさんの尻尾は紙で作成したようですが、私は「シュロ」の葉を裂き、繋いでいました。
そうそう、昨年、家内と院展の帰りに日本橋の「たいめいけん」の小皿料理を食べにいきましたが、その経営者が「凧の博物館」を3階で経営しており、見学してきました。
世界と全国の凧が約3,000点飾られおり、そのスケールにビックリ。勿論手作り凧で、「日本凧の会」の事務局とのこと、お近くに行かれました是非、伺ってみてはどうですか?
場所は東京都中央区日本橋一丁目です。
手作りの凧、いいですね。凧上げしている親子を見て、思いを胸に一句作られたひよどりさんの優しいお心づかいが、嬉しく思います。
ところで、「いかのぼり」という呼び方のいわれをお教えくださいませんでしょうか。