「ふるさとへ廻る六部は気の弱り」
そんな古川柳がありました。年齢が重なるにつれ、そんな気分にもなります。
一方、故郷へ帰っても、今までは逢えていた友人たちとも、徐々に逢えなくなってきました。
亡くなった友があり、病床に伏している友がいます。
帰郷の機会が減る所以です。
私ほどの年齢になって、「ふるさと」と言っているほうがおかしいのかもしれません。
ふるさとや逢ふ人もなく暮早し ひよどり 一平
木枯らしや故郷にゐて人と逢はず ひよどり 一平
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木枯らしや故郷にゐて人と逢はず ひよどり 一平
私も同じですね。同期会などの会で会う程度で
個人的に会うということはほとんどなくなりました。
私は故郷へ帰ってもう大分になりますが・・(笑)。
身のまわりの知人たちが次第に少なくなっていくのは
寂しい限りですね。
これからますます多くなっていくことでしょうが。
そこには「字が小さいインクが薄い」とか意見を言われた
そこで老眼サイズに・・私を含めてみんな年を重ね
がっかりしたような みんな同じなんだと思いました。
返事はフェイスブックかメールでだそうで。そこだけ進化してるような
残っているのは、僅かとなってしまいました。
仲間と会ってやんちゃをする歳でもなく、
すっかり淋しくなってしまいましたね。
残ったと言いながら、すぐに逝くかもしれないのですが、
一寸先は闇のようです。
みなさんがそれだけ利用しているということなのでしょうか?
知識不足の私には見当もつきません。
時代に取り残されていることを、痛感します。
ヨッコラショット掛け声かけなければ出かけられない遠さになってきました。
交通の便が良くなって、時短にもなっていてもです。
会いたい人も居なくなってしまいますものね。
寂しい限りですが、これも仕方ないことなのでしょうね。
その気持ち、よーく分かります。
絶対に必要という場面であれば、
スピードアップの恩恵に浴して利用しますが、
「行けたら行って見たい」というニーズに対しては、
「距離」が行動をコントロールするみたいです。
なぜなのでしょうか?