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kan-haruの日記

風景・風物詩 旧岩崎邸庭園 金唐紙の壁で華やかに蘇った岩崎邸洋館 その2

2008年04月29日 | 風景・風物詩
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旧岩崎邸庭園での岩崎邸洋館の一般公開は金唐紙壁複元後の2003年からであり、今年の3月14日には洋館外壁の塗替えが終了したところです。また、3月30日から5月11日の期間に「金唐革紙展」が開催され、この間の日曜日および祝休日には世界で唯一の金唐紙制作技術保持者の上田尚氏のサイン会も行われており、6日の旧岩崎邸庭園見学は良い日に恵まれました。

金唐革紙展案内(写真拡大) 上田尚氏サイン会(写真拡大) 金唐革紙文様(写真拡大)

金唐紙の壁で蘇った岩崎邸洋館2階客間
洋館2階に上がると、客室2部屋の壁には、美しく再現された金唐革紙(きんからかわし)の壁紙で張り替えられて、建築当初のように華やかに蘇えておりました。
客間の金唐紙壁は、薄い青の地に植物のような突凸模様の黄金色に輝く見事な壁です。

  客室の金唐紙壁(写真拡大) 2階部屋の金唐紙壁(写真拡大) 婦人客室(写真拡大)

・金唐革紙壁
ヨーロッパでは王侯・貴族の城館の壁や天井などの装飾に金唐革が使用され、この装飾革に金属箔を貼り、花・動物等の絵柄・文様のデザインをプレスして彩色した上に、塗料・ワニスを塗って仕上げられています。ヨーロッパの金唐革は、鎖国の江戸時代にオランダから入ってきた皮革工芸品を、手箱や刀の柄、鞍、煙草入れなどに使われ珍重されていました。

金唐革紙製作工程(写真拡大)      版木ロール    金唐革紙文様(写真拡大)

日本では、金唐革を和紙で模した偽革紙の金唐革紙がつくられるようになり、江戸末期には浮凸文様を打ち出して、顔料・油・漆・金属箔などで高度に装飾加工したものが作られるようになりました。1867年(明治6年)には、ウィーン万国博覧会に大判の壁装用の偽革紙を出展し、好評を博し輸出が開かれ欧米の建築物を彩ったそうです。
金唐革紙は、最高の加工技術を施した、東西文化交流を象徴した和紙工芸品です。

  金唐革紙展(写真拡大)        (写真拡大)          (写真拡大)         
現在は、唯一の技術を保持する上田尚氏による、「金唐紙」と称する壁紙が旧岩崎邸洋館に復元され、当時が蘇っております。見学の記念に、金唐紙壁紙の端切れで作られた「しおり」を購入し、サインをして貰いました。

 金唐革紙のしおり(写真拡大) サイン入りのしおり    サイン会の上田尚氏    
和館
洋館からつながるわたり廊下を進むと書院造りの和館です。完成当時には建坪が550坪におよび、規模は洋館をしのいでいたそうです。
施工は、多くの有数な財政界の屋敷を手がけた大工棟梁の大河喜十郎と云われています。岩崎邸の広間奥の居住の間取りは、南北に分けられ、南側にはご夫妻の部屋と子供部屋が置かれ、北側には使用人部屋、台所、事務方詰所や倉庫などがあったようで、当時の純和風建築で巧緻を極めた建物の一部をかいま見ることができます。
玄関近くの書院造りの広間には、明治の日本を代表する橋本雅邦画家の作といわれる障壁画が残っています。

  和館への渡り廊下         和館の廊下       和館大広間(写真拡大)

撞球室
洋館とは離れた別棟の撞球室もコンドルの設計した木造建築で、山小屋風の造りで大屋根に深く差し出た軒に、柱には刻みが入りゴシック流のデザインです。当時の日本では、山小屋風の建物は珍しいもので、洋館と地下道でつながっています。

   山小屋風撞球室         撞球室内部    洋館に通じる地下室への階段

庭園
岩崎邸の庭は、江戸期の越後高田藩の武家屋敷から明治期の旧舞鶴藩牧野のお屋敷時代の大名庭園から、本邸建築時に広大な庭に芝を張り、庭石・灯篭・築山を設けて、和洋併置の近代庭園の「芝庭」が作られました。
岩崎邸の和洋併置の庭は、洋館のベランダからも、和館の廊下から眺めてもまた撞球室前のベランダのチェアから見ても素敵な景観です。

    和洋併置の旧岩崎邸庭園        撞球室のベランダ

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風景・風物詩 旧岩崎邸庭園 金唐紙の壁で華やかに蘇った岩崎邸洋館 その1

2008年04月27日 | 風景・風物詩
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旧古川庭園の洋館を手がけた英国人建築家のジョサイア・コンドルが設計し、1896年(明治29年)に竣工した、三菱グループを創設の岩崎邸洋館のある旧岩崎邸庭園にはいままで行っておりませんでしたので、4月6日の午後出かけてみました。

旧岩崎邸庭園
旧岩崎邸庭園(台東区池之端1-3-45 地図参照)は、大森町から三田で都営三田線に乗り換え、大手町駅で東京メトロ千代田線に乗り継いで湯島駅下車、1番口を出て四つ角を左に折れて徒歩4分で都立旧岩崎邸庭園の現正門です。


厳めしい鋼鉄せいの現正門を入り、右手に曲がって両側に綺麗に咲き誇った草花がある坂を上った突き当たりが、公園管理棟で入場券を購入しました。

                      袖塀(重要文化財)   右突き当りの公園管理棟

入場料は、一般が400円で、65歳以上が200円であり小学生以下は無料です。ただし、都内在中・在学の中学生は無料です。


入場券を求めて左手の玄関前広場に進むと、大きな西洋館が聳えています。この洋館の建つ屋敷は、江戸時代には越後高田藩主榊原泰政の1万5千坪有余の江戸屋敷であったが、明治時代に薩摩の桐野利秋、についで旧舞鶴藩知事の牧野弼成など経て、1878年(明治11年)に三菱創業者の岩崎弥太郎の所有になり、3代目の弥太郎の長男岩崎久弥が別邸としたものと云われています。
当時は、敷地に20棟もの建物がありましたが、現在は1961年(昭和36年)に重要文化財になった洋館と撞球室と、同じく1969年(昭和44年)に重要文化財になった和館大広間の3棟が残っています。

      旧岩崎邸庭園配置図

邸宅の設計者のジョサイア・コンドルは、1877年(明治10年)に日本政府招聘により来日して、工部大学造家学科(現東大工学部建築学科)教授に就任し、本格的西欧式建築教育を行いました。上野の博物館(現在の東京国立博物館)、ニコライ堂や鹿鳴館など多くの洋風建造物の設計をして、19世紀後半のヨーロッパ建築を紹介し日本の近代建築の発展に指導的な役割を果たしました。
同一敷地内に洋館と社交の場、和館と生活の場を併立する大邸宅は明治20年代頃から建てられ始め、岩崎家本邸はその代表例であり、現存の明治建築としては貴重なものです。

・洋館
木造2階建地下室附きの洋館は、正面に向かって左半分が主屋でスレート葺の大屋根をかけ、その右にやや規模の小さい棟が続き、両者間の玄関部に塔屋がたち、角ドーム屋根となっています。南側のベランダには、装飾を施された列柱が並び、全体的にイギリス・ルネッサンス風となっており、東側はサンルームとして使われ、洋館の広さは531㎡あります。

岩崎邸洋館正面(写真拡大) 岩崎邸洋館南面(写真拡大) 岩崎邸洋館東面(写真拡大) 

洋館の玄関で係りのひとから下履を入れる袋を受け取り、洋館に入ります。
1階部分に玄関・食堂・書斎・厨房・客室が、2階には客室・集会場が、また非公開の地下には倉庫・機械室・通路が設けられています。

      1階の部屋            階段            サンルーム

列柱の並ぶベランダは、1、2階の装飾デザインが異なり、1階はトスカナ式列柱で、2階はイオニア式列柱を採り入れているのが特徴です。

            ベランダ2階:イオニア式列柱装飾      1階:トスカナ式列柱       

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風景・風物誌 八重桜とチューリップ 足立都市農業公園の花見

2008年04月23日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2008

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都市農業公園
今年も八重桜を観賞したいと探していたところ、足立区の都市農業公園に桜とチューリップが満開というので、4月15日の午後から出かけてみました。
都市農業公園(足立区鹿浜2-44-1 地図参照)は、1984年(昭和59年)に開園した公園です。公園には、東武鉄道西新井駅西口(東武バス)または東口(コミュニテイバス)の何れかから、バスで都市農業公園行に乗ると、終点が公園正門の前です。

・自然環境館
園内施設(公園マップ航空写真参照)は、河川敷緑地を含めて広さが66,765㎡もあり、正門を入ると正面に自然環境館があり、公園内で見られる情報が展示してあり、常駐解説員から展示の解説や公園の見どころを紹介して貰えます。

 自然環境館展示品

・芝生広場
園内には320本の桜が植えられており、自然環境館南の約3000㎡の芝生広場はワシントン市ポトマック川河畔から里帰り(平成15年)した35種97本の「五色桜」によって白や黄色、淡紅色や濃紅色に彩られます。

 八重桜満開の芝生広場(4月15日撮影)

公園の資料によると、1885年(明治18年)に、江北村(現足立区江北)で荒川(現隅田川)の堤防改修工事が行われ、村民の要望で「紫桜」、「関山」、「白妙」、「鬱金(うこん)」、「墨染」をはじめとして78種類3千本のサトザクラが植えられ桜の名所になりました。それらの花が咲いた風景は、まるで五色の雲をたなびかせた様に見えたので、新聞記者が「五色桜」と表現したところから、荒川堤の桜を「五色桜」と呼ばれるようになったそうです。

        満開の鬱金桜              花びらが撓(たわわ)の日暮 

・れんげ畑の田んぼ
古民家の長屋門を西に見て南に進むと、公園の水田は一面れんげ畑です。れんげ畑は、昔の田んぼで良く見られ、田植えの前に「すきこんで」肥料にします。れんげは、中国原産の豆科の植物で、農業公園ではこれから田づくり(荒起こし・代かき)をして、5月に田植えを行いイネ作りの体験教室が開かれます。西隣の畑では、ジャガイモやサツマイモづくりの体験教室が実施されます。

   水田前の長屋門      古民家前のれんげ畑     開花したれんげ畑

やや強めの日差しの古民家前の田んぼや畑の周囲に彩りを添えた春の草花と満開の八重桜を見ての散策は、素晴らしいものでしたが午後から出てきたので、工房棟や昔の農機具展示室などの施設には寄らずに古民家の見学をしました。

 れんげや芝さくらなど満開の草花

・古民家
古民家は、元花畑町和井田栄一氏の住宅で有形文化財の指定です。江戸時代後期の建築で、間口八間、奥行五間、屋根は寄棟(よせむね)造りの茅葺(かやぶき)造りの、典型的な田の字型の間取りで、向って右手の入口から入ると土間があり、その奥が台所です。左手には、座敷、部屋、奥などと呼ばれる室があります。天井裏には中二階があり、二か所の武者窓(むしゃまど)風の明り取りがあって、土間から梯子で昇り降りし物置として使用されていました。
安政大地震を経てきた家屋は、何回かの修改築のあとが見られ、台所の改造や南側の瓦葺の庇と、西側に廊下が取りつけられています。

 元花畑町和井田栄一氏住宅(有形文化財指定) 

・長屋門
長屋門は、武家などが長屋一部に門を開いたものですが、江戸時代の後期になると地主農家の中に長屋門を構えるようになりました。増野製作所長屋門は谷中の浅野久右衛門の所有で俗に「谷久門」とも呼ばれ、1897年(明治30年)ごろに建造されたもので、農家の長屋門としては規模の大きな有形民俗文化財指定の門です。

   中から見た長屋門     長屋門の郵便受け    長屋門内の資料展示場

河川敷緑地
古民家を見学した後、公園の西側奥に位置する公園の一番高い所にあるレストハウスは、荒川と新芝川に面して見晴らし良く、テイタイム休憩で喉を潤おしてから荒川堤防に上がりました。
平成10年の荒川の堤防強化にともない、都市農業公園に隣接する河川敷も公園と一体的に整備、管理することになり、河川緑地として一般公開されました。
河川敷き花壇には、2万本のチューリップが植えられ、4~5月には見ごろに咲き誇ります。

 河川敷き花壇の2万本のチューリップ(写真拡大)

土手からの風景を眺めていると、春の日もそろそろ黄昏てきましたので、荒川とも別れを告げ、公園バス亭前のバス通りの八重桜並木に見送られ帰途に付きました。

   黄昏せまる荒川      公園北を流れる新芝川 公園前バス通り八重桜並木 

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風景・風物誌 花見のはしご 開桜小花まつり・池上本門寺・千鳥が淵・飛鳥山・大岡川の桜 その2

2008年04月05日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2008

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都心の花見のはしご
29日は花曇りで、日中は17.7度の気温で夜には下り坂との予報のため、どこの花見見物も例年を上回る最高の人出でした。
都心の花見のはしごコースは、九段下では千鳥が淵の桜と戦中・戦後の暮らしを後世代に伝える国立の「昭和館」を見て、早稲田から都電に乗り飛鳥山に廻りました。

・千鳥が淵の桜
東京で桜が満開となって初めての週末の29日に、大森町から日本橋を経由して九段下に朝9時半ごろ着き、地下鉄2番口を出て牛ケ淵を左に見て、靖国通りを進むみ武道館への道を通り過ぎる付近が、都心の桜の回廊千鳥が淵緑道ルート散策の行列の最後尾でそこに並び、花見のはしごとしてひと時を楽しみました。

  千鳥が淵満開の桜

千鳥が淵近辺の桜は、千鳥が淵緑道、牛ケ淵周辺では染井吉野がお堀に枝を垂らした桜を中心として見られ、堀に浮かぶボートは風情をそそります。周辺の靖国神社、北の丸公園、千鳥が淵戦没者墓園などでは、関山、大島桜、紅枝垂、八重紅枝垂などの各種の桜が色をそえてます。

  千鳥が淵緑道の桜

・昭和館
軍の予備役の訓練、宿泊を目的に1934年に竣工した、2・26事件の戒厳司令部で有名な歴史的建築の国有九段会館(日本遺族会運営)と並んで建つ近代的昭和館は、戦没者遺族など国民が経験した戦中・戦後の国民生活の労苦の歴史的資料・情報の約1万8千点が収集され、そのうち約700点が展示され後世代の人々に伝え、知る機会を提供する国立の施設で、平成11年に開館しました。桜のはしごで九段下に来ましたので靖国神社には寄らずに、昭和10年頃から昭和30年頃の苦労して生活を送った者の証しの確認に、常設展示室を見て来ました。

昭和館(千代田区九段南1-6-1)の常設展示室は、7階展示室は戦前(昭和10~20年)、6階展示室は戦後(昭和20~30年)の国民生活を伝えています。展示室は、撮影禁止ですので展示内容は省略します。

 千鳥が淵に浮かぶボート 昭和館(左)と九段会館(右)      靖国神社

都電荒川線で飛鳥山の桜見物
九段下から早稲田まで地下鉄で行き、約15分の距離で都電早稲田停留所まで歩き、乗車の行列に並んで頻繁に運転している都電は座っていけました。
久し振りの都電で、神田川沿いに走る面影橋、高戸橋までの満開の桜並木風景や、裏町を車窓から楽しみながら、飛鳥山停留所で下車しました。

   都電早稲田停留所            神田川沿いの満開の桜並木
      
都電を降りると薄暗く雨が降り出しそうな気配なので、急いで飛鳥山公園に行くと29、30日は桜祭りで沢山の人です。

  都電飛鳥山停留所             歴史ある桜の名所飛鳥山

今から300年前に、徳川吉宗がサクラの苗木を植えて江戸庶民に開放したと云う歴史ある桜の名所の飛鳥山は、シートを敷いた花見客で一杯ですが、天気模様が怪しい気配ですので帰り仕度をしていました。傘を差し始めた人も見かけましたので、JR王子駅へ下り京浜東北線で帰宅しました。

                   桜まつりで混雑の飛鳥山

大岡川の桜
3月31日午後は時間があいたので、前日の雨も上がり花を惜しんで桜のはしごを隣りの神奈川県に足を延ばし、京浜急行電鉄日ノ出町駅から弘明寺駅間の数キロを並行して流れる大岡川に繰り広がる桜のトンネルに行きました。

 第16回桜まつりが開かれた大岡川の桜

大岡川の桜並木は、関東大震災で丸焼けとなり1928年に植樹されましたが、太平洋戦争で燃料不足のため伐採されてしまい、再度1972年(昭和47年)に植樹され現在に至ってます。
大岡川の桜観賞は、京急黄金町で下車して次の駅の南太田駅までの川の両岸を歩いてみました。

 4月13日まで川沿いにボンボリ点灯と一部ライトアップが行われる大岡川の桜

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風景・風物誌 花見のはしご 開桜小花まつり・池上本門寺・千鳥が淵・飛鳥山・大岡川の桜 その1

2008年04月03日 | 風景・風物詩
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今年の東京の桜の開花は、3月20日に靖国神社境内の桜(ソメイヨシノ)が6輪咲き、昨年より1日、平年より8日早く開き、過去3番目の早さで、気象庁が発表する地域では最も早く咲きました。開花後1週間で満開となり週末の29、30日は絶好の花見日和となりました。
今年も、昨年と同様に花見日和を中心として、地元、都内、神奈川県と花見のはしごをしました。

地元大森町の花見
・大森西交通公園の桜
大森西交通公園(大田区大森西3-4-19 地図参照)の桜(「風景・風物詩 花見 サクラ前線に合わせて花見のハシゴ」参照)は、高架化工事が進む京急大森町駅から北へ徒歩5分の所にあり、公園の西面と南面には桜が植えられており、地元地域の町会住民などがお花見のスポットであり、3月28日にはほぼ満開の桜に囲まれて地元ご婦人会のお花見が開かれていました。

  大森西交通公園の桜

公園の西側の通りに面して斜め向かいには、隣接の大田福祉作業所の地所と交換して、内川に面したところにあった諏訪公園(地図参照)の移設工事が行われています。元の諏訪公園に植えられていた桜は、大きく見事な花を咲かせていました。また、開桜小学校前の内川北岸には、半完成ですが遊歩道が造られ、今後築造されると桜を植林する予定ですので桜のメッカとなります。

         内川風景(筏遊びと鴨の遊泳)            新諏訪公園造成

・開桜小学校桜まつり
西交通公園の先の内川沿いの開桜小学校(大田区大森西2-26-3 地図参照)は、大森第一小学校と共に大森では最も古く開校した兄弟校で、3月29日に満開の桜の下で第4回「花まつり」が行なわれました。


花まつりは、地域教育連絡協議会委員が実行委員で地域の方や保護者が集まり、校庭で桜と花壇の花の回りで阿波踊り、太鼓、よさこい連、バンドなどの催しと10数店の模擬店が出て、今年は隣接の大森学園高校からソーラーカーが校庭を走行し、また澤田町会からリニューアルされた山車のお披露目などで子供達とふれあいを深める催しです。


大田区池上本門寺の桜
池上本門寺(大田区池上1-1-1 地図参照)は、今年は満開の桜の中重要文化財の五重塔建立400年を迎え、3月29、30日には記念法要が行われ霊宝殿で五重塔に関する資料を展示した特別展が開かれます。
今年は、久しぶりに本門寺(「風景・風物詩 秋の風物詩 池上本門寺のお会式」参照、「風景・風物詩 池上松涛園 西郷隆盛・勝海舟の江戸城開場会見の名園 その1」参照)を花見のはしごに加えて28日に満開の桜を堪能してきました。

 此経難持坂(写真拡大)    本門寺大堂(写真拡大)     五重塔(写真拡大)

本門寺へのアクセスは、JR京浜東北線「大森駅」より池上駅行きバスで「本門寺前」下車徒歩5分、東急池上線で「池上駅」下車徒歩10分、都営浅草線で「西馬込駅」下車徒歩8分です。
7万坪の境内にある約300本の桜は、大田区の桜の名所としても名高く、特に五重塔前の参道のサクラのトンネルはとても綺麗で、関東では数少ないササベザクラもあります。

                     笹部桜

なお、本門寺参道総門の周辺寺院の本妙院の枝垂桜や、本成院門前の古木の桜も満開で見ごたえがありました。

             本妙院の枝垂桜             本成院門前古木の桜

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風景・風物詩 初詣風物詩 川崎大師平間寺2008

2008年01月21日 | 風景・風物詩
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川崎大師初詣
菩提樹と同じ真言宗智山派で、方向が恵方の川崎大師には毎年初詣をしています。今年は3連休中日の1月13日日曜日に近くに住んでいる従兄弟夫婦と連れあって参詣してきました。昨年は、1月7日に出かけましたがかなり混雑(「風景・風物詩 初詣風物詩 川崎大師平間寺」参照)していましたが、今年は一週間遅れのお詣でしたので、山門より前からの行列はありませんでした。
川崎大師は、全国に真言密教を広められた弘法大師空海上人が祀られており、初詣3が日の人気が高く、今年も前年同様に全国第3位となりました。

本殿参拝
川崎大師(真言宗智山派大本山金剛山金乗院平間寺 川崎市川崎区大師町4-48)の参詣(順路地図参照)は、川崎大師駅新設の北口(川崎大師駅参照下記)を出て踏切を渡り、駅南口方向に一旦戻ってから駅前通りを横断して、表参道入り口の厄除け門に進みます。
3連休で込み合っている表参道を、大師入口門を右折して一方通行の仲見世門を通過して、一方通行規制通りを迂回して、不動門前を右折して大山門に入ります。
・大山門
川崎大師は、世界大戦により殆どが戦災で焼失し、大山門は1977年(昭和52年)の開創850年の記念事業として建立され、山門には京都・東寺の国宝尊像を模刻造立した四天王像が安置されています。
山門を入ると、本殿までの中間の香炉堂の先から参拝客の列で一杯です。

      表参道             大山門         大本堂前の参詣者の列

・大本堂
大本堂は、1964年(昭和39年)に落慶し、鉄筋・鉄骨造りの平安朝の建築様式に近代的な感覚をゆたかに盛りこんだ大伽藍です。
当日は、警備警官による参拝整理を行っていないため、大本堂に入ると身動きできない状態で、押されながら賽銭箱の縁まで進まされ、参拝をしてから横這いで本堂右側の出口にやっと辿りつきました。参拝整理を行っていると、本堂には一定の人数で制限するため、参拝も賽銭箱のかなり手前から賽銭を投げられ、そこで参拝を済ませて楽に本堂から出られましたが、今回は混雑で何時もより本堂内で動きがとれずにかなり長く拘束されました。
丁度、本堂では12時の大護摩のご修業が行われており、供養を受ける人で一杯で煩悩を焼き浄め、大厄を消除し、家内安全、商売繁昌、病気平癒、心願成就など、開運の祈願をする人でいっぱいです。特に厄除けには、効果あらかたで人気があり、私も本厄の時に、護摩祈願をしました。

・お札・お守り
本堂を出た階段下のお札・お守り授け所で、弘法大師厄除けお札と身代わりお守りを授かり、山門脇の納札堂で昨年のお札・お守りとだるまを納めます。

 大山門まで続く参詣者     お札・お守り授け所         納札堂

・仲見世と参道の土産店
川崎大師参道の古くから営業している、名物のくず餅屋、だるまなどの縁起物店、とんとこと包丁でさらし飴を切る名人芸の咳止め飴屋さんなどの土産物屋さんは、数は多く目立ちます。それに、おせんべいとお饅頭屋さんの店も数が目立ちます。

 参詣客で混雑の仲見世        大師名物だるまと縁起物お土産店

大師参拝にくると、ここの雰囲気で何時もの様にくず餅、せき止め飴、だるまや霞ヶ浦のわかさぎと川エビを買い、表参道のお蕎麦屋で昼食をとって帰宅しました。

                 名物とんとこ飴切りの名人競演

・子供の頃の大師の想い出
私が小学生の頃、今もある漬物屋さんで、行く都度奈良漬けを買って貰った遠い昔が想い出されます。
その当時の境内は、今ほど混んでなく、鐘撞き堂の階段横に、[山雀]の『おみくじ』屋が出ていました。お客が来ると、「山雀」は梯子の渡り板を渡り神棚の前で、くちばしで「ちりんちりん」と鈴を鳴らし、ちょんちょんと観音開きの扉を開け、神棚の中より3cmぐらいの金色の帯封をした一枚の『おみくじ』をくわえ、中程にある三方の上に置きます。鳥に「表を見せて、封を切り」と云うとくちばしで帯封を切り、手を出すと「おみくじ」をくわえ手の上に載せる。感心して、次のお客のあるまで何時までも見ていた時代が今でも鮮明に覚えています。

また、最近では見かけなくなりましたが、私の子供が小学生の頃、土産物やで「だるまおこし」が並んで売っており、行く度にせがまれて買ったのもついこの間のような気がします。

川崎大師駅と大師線
川崎大師参詣下車駅の京急川崎大師駅は、京浜急行電鉄の前身の大師電気鉄道が1899年(明治32年)に開通した六郷橋~大師間の開業駅で、移動もせず現存する電気鉄道の日本最古の駅です。川崎大師駅舎の手前には、発祥の地の記念碑が1968年(昭和43年)に建立されてます。
1902年(明治35年)に六郷橋~川崎間が開通し、1925年(大正14年)に大師駅は川崎大師駅と改称されました。
現在の大師線終点の小島新田駅は、世界大戦中の1944年に開業されましたが、その時は小島新田駅より以遠の桜本駅が終点でした。1951年に川崎市電に譲渡して廃止となりました。

 風鈴市の川崎大師駅     明治時代の京急川崎駅  六郷橋~川崎間の電車
                          (京急100年のあゆみ出典)

昔は、川崎大師駅の大師参詣下車の1番線ホームは、当初は構内踏切を渡って改札口を出てました。その後参拝客が多くなり上りホーム間に地下道が新設され、混雑時のみ、昨年まで構内踏切を併用しておりました。今年は、初詣の下車客を捌くのが限界のため、1番線ホームに「北口」が開設(2007年12月20日)され利用が開始されました。

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風景・風物詩 初詣風物詩 穴八幡神社と放生寺 その3

2008年01月13日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2008

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穴八幡神社の初参りを済ませ、参道を戻り出口の馬場下町交差点の早稲田通りは、1854年(嘉永7年)頃の地図では「放生寺門前」と称して、この辺りは通称「融通虫封じ観世音」を御本尊とする穴八幡宮に隣接して放生寺があり、江戸の時代より夜泣きや疳の虫の祈祷霊験あらたかな寺として多数の老若男女の参詣がありました。

放生寺は穴八幡の造営に尽力し、その別当寺として開創された寺で、神社境内に建てられました。江戸の昔は寺社の区別無く、1868年(明治1年)の神仏分離令により穴八幡と放生寺は分離分割されたものです。
冬至の日から節分に、穴八幡では一陽来復お守りを授受しますが、放生寺では一陽来福のお札を配布します。
穴八幡宮に参詣後、隣接の放生寺のお参りをしてきました。

放生寺
放生寺へは、馬場下町交差点交番前の諏訪通りが、現在穴八幡宮の工事中で見渡せませんが、数10m西へ進んだところが入口の参道です。参道の坂道を上がって行くと、右側に本堂があります。

                      放生寺参道

放生寺(新宿区西早稲田2-1-14 地図参照)は、寺名が威盛院光松山放生寺(こうしょうざん ほうしょうじ)と称し、宗派は高野山真言宗準別格本山で菩提樹と同宗で、1641年(寛永18年)に、高野山で修行を積んだ威盛院良昌が社僧として招かれ開創され、本尊は聖観世音菩薩が祀られております。

              放生寺本堂                     お水舎

・一陽来福お札
江戸天保年間より放生寺に伝わる秘法を、厳修し一部の信徒に授与したのが始まりで、時代の変遷により今日の様に多数の信徒に授与するようになりました。
授与された方たち全てに沢山の「福」が来る様に、観音経の結びの「福聚海無量」の「福聚(あつ)むること海の如く無量なり」と言う偈文より「福」の字を取り「一陽来福」と名付けられました。
お札は、一家の居間か、商売先の部屋に毎年定められた恵方に向けて冬至、大晦日、節分の何れかの深夜0時に貼ります。

                       (写真拡大)

・修行大師像
境内の左手前には、弘法大師空海(774~835)の若き日の修行時代の姿の修行大師立像が鎮座しています。大師様が42歳の厄年の時に四国を巡錫されたのに因み、立像は「厄除け大師」としても親しまれております。
敷石の下には、四国八十八カ所霊場全てのお寺のお砂を敷いてあり、左より時計回りでご宝号「南無大師遍照金剛」と、お唱えになり巡られますと四国八十八カ所をお参りすると同じ功徳を受けられと云われてます。

・神変大菩薩
修行大師像の奥に建立の神変(じんべん)大菩薩は、別名役の行者(えんのぎょうじゃ)、役の小角(えんのおづぬ)と云い、634年(舒明6年) 奈良県葛上郡茅原村(現在の御所市茅原)の高賀茂家に生まれ、幼少の頃から博学であり仏教特に密教を信仰され、修験道の開祖として仰がれておりました。
神変大菩薩は、没後千年以上の後の1799年(寛政2年)に、当時の光格天皇から送られた「諡号」であり、当時の民衆から長きに亘って厚い信仰を受けていたかが判ります。
神変大菩薩が山岳信仰の第一人者であり、山野を駆け巡って修行されたことに由来し、今日では特に足腰の弱い方をお救い下さると云われております。

     (写真拡大)            (写真拡大)           (写真拡大)

・地蔵菩薩と馬頭観音菩薩
神変大菩薩の奥には、右に二体の水掛け地蔵菩薩と左に馬頭観音菩薩が鎮座しています。右側の地蔵菩薩は、左手に蓮華寶珠、右手に錫杖を持つ僧形で鎌倉時代、民間信仰にとり入れられ賽の河原で童児の救済者として子育地蔵、子安地蔵の名で古くから信仰されております。
左側の馬頭観音菩薩は、観世音菩薩化身の内、唯一の忿怒像であり怒りが強い程、内には人を救う慈悲の心も大きく、また馬は大食いであるということから人々の煩悩を喰べ尽くすと言われてます。また、「馬頭」という名称のゆえ、あらゆる畜生類を救う観音であるとも言われてます。
地蔵菩薩参考:「風景・風物詩 地蔵菩薩公開 薬師寺東京別院宝物のお地蔵さま拝観」参照

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風景・風物詩 初詣風物詩 穴八幡神社と放生寺 その2

2008年01月11日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2008

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一陽来復御守
本殿で守護神の八幡宮をお参りしたので、江戸時代の元禄年間から穴八幡宮だけに伝来する一陽来復御守を授かるため、御札所に行き頂いてきました。
一陽来復御守(いちようらいふくおまもり)は、冬至から節分までの期間に限り授与されます。このお守りは、金銀融通の商売繁盛のお守りで特に商売の店主の方々は、昔から師走の忙しい冬至に冬至祭りが行われ、朝早くから参詣し2時間も行列して求めると云うほどのご利益があります。

  一陽来復御守(拡大)

お守りは、金柑と銀杏各1個を清祓して円筒形の紙に包んであり、キンカンとギンナンで金と銀の財宝に縁が深く、その融通について苦しむことが無いということから、お金に不自由することが無く商売繁盛に霊験あらたかと人気があります。

                銀杏                        金柑

2007年12月22日の冬至は土曜日に当たり、今でも人気の冬至祭りには、都内を始めとして近県や遠地から例年より多くの参拝客が訪れ、朝9時のお守り配布前から歩道と境内に長蛇の列ができ、頂くのに2時間を要したと報じてました。

                     縁起物の銀杏細工

・お守りの祭り方
授かったお守りの祭り方は、冬至、大晦日または節分の午前0時に、恵方の巳午(真南から少し東)方向にお守りの文字を向けて、反対の子亥(北)側の柱か壁の高いところに、糊を付けて貼ります。
お守りは、一年間は動かさずにお祭りし、移転の場合には、取り外して神棚に納めるか穴八幡宮に納めます。
5日に頂いてきた一陽来復お守りは、節分まで神棚に収めてあります。


・一陽来復
一陽来復を大辞泉および大辞林では、
(1) 易で、陰暦10月に陰がきわまって11月の冬至に陽が初めて生じることから、陰暦11月または冬至のこと。
(2) 冬が去り春が来ること。新年が来ること。
(3) 悪いことが続いたあと、ようやく物事がよい方に向かうこととあります。

昨今は、老舗の食品会社や建築資材業者などでいろいろと偽りが暴露し、今年の漢字は「偽り」です。また、サプライムローン問題で米国が今年に景気後退入りするなどの憶測により、日本の株式が大きく下げて年明けの情勢はあまり良くない状況です。
今も昔も、よい年もあれば、悪い年もありで、江戸時代の人達も一陽来復のお守りを信心して、良い方向に向かうよう努力して改善を怠らないで安泰に過ごしてきたのでしょう。これは、現在にも通じ、良い方向に向かうには改革しか方策はありません。

穴八幡神社の由来(抜粋)
1062年(康平5年)源義家が奥州の乱を鎮圧した凱旋のおり、この地に兜と太刀を納め氏神八幡宮を勧請し、東北鎮護の社として祀りました。1569~1623年の慶長、元和の頃までは、このあたりは八幡山と呼ばれ、神木の下に小祠が祀られていました。
1636年(寛永13年)に幕府の御持弓組頭松平直次がこの地に的場を築き、射芸の守護神として八幡宮を奉祀しました。

1641年(寛永18年)に宮守の庵を造るために南側の山裾を切り開いたところ神穴が出現し、この時から穴入幡宮と唱えられるようになり、祐筆大橋龍慶が方百間の地を献じ、社殿を壮大に造営しました。また将軍世嗣誕生に際して色々奇瑞のあったことが、たまたま鷹狩の途次に当社に参拝された三代家光将軍の上聞に達し、当社を江戸城北の総鎮護として総営繕を命ぜられました。

1649年(慶安2年)42坪の社殿を始め数々の殿合が竣工し、その後も幕府により寛文・延宝・元禄・享保・元文と数次にわたって造営、営繕がおこなわれ、特に1703年(元禄16年)の造営は、江戸権現造り社殿として壮麗を極めました。
1854年(安政元年)の青山火事のため類焼し、幕府より造営料として金子が奉納され、再興に努めましたが、幕末の多事と物価高騰のため仮社殿のまま明治維新を迎えました。

1879年(明治12年)に大正天皇の御虫封を拝命し、以来崇敬者は年々増加し、1916年(大正5年)以降1926年(昭和初年)にかけて広壮な社殿が完成し旧時の盛観に復しましたが、今次大戦により社殿はことごとく罹災しました。
戦後はいち早く仮社殿により再興し、平成元年より慶安・元禄の江戸権現造りの当社設計絵図を基に御本殿御社殿等の造営を初め、平成10年8月の随身門竣工をもって往時の姿に復し、引続き再建、境内地の整備に着手し今日に至っています。

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風景・風物詩 初詣風物詩 穴八幡神社と放生寺 その1

2008年01月09日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2008

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冬至に一陽来復お守り授与の穴八幡神社
今年の初詣りは、元旦に氏神様の諏訪神社をお参りしましたが、5日に金銀融通「一陽来復」のお守りで有名な早稲田の穴八幡神社で、冬至から節分までの間にのみ授与されるお札を受けてきました。また、境内と堺を接している放生寺もお参りしてきました。

穴八幡神社(穴八幡宮 新宿区西早稲田2-1-11 地図参照)は、JR山手線の高田馬場駅から都営バスの早大正門行き(学02路線)に乗り、約7分の乗車で穴八幡神社横の「馬場下町(ばばしたちょう)」で下車し、早稲田通りを横断すると神社参道への石段です。
参考に、東京メトロ東西線を利用の場合には早稲田駅で下車して、高田馬場方面からは3b出口を、飯田橋方面からは2番出口を出て早稲田通りを2分ほど西に進むと、四つ角にでて神社参道への石段が見えます。

穴八幡神社参詣路
穴八幡神社参詣路入口の左側は、現在工事中の塀が張り巡らされており、ここに流鏑馬の像(区指定文化財)が建っていますが見られませんため、写真撮影ができませんでした。
・流鏑馬
1728年(享保13年)に八代吉宗将軍が、世嗣の疱瘡平癒祈願のため神社北の馬場で奉納されたのが始めで、ついで10年後の元文3年に若君誕生の報賽として盛大に行われ、中でも嘉永の時のものは特に盛大なものと記されています。
維新以後は中断してましたが、1934年(昭和9年5月)今上陛下御生誕を奉祝して再興し、以後年々執行されるようになった神事も、戦争のため再び中絶しました。その後、1964年(昭和39年)から水稲稲荷神社で復興し、1979年(昭和54年)から毎年10月10日に執行されてきましたが、平成12年より体育の日に執行されています。

塀で流鏑馬の像が見えない 露天の先は石段が聳える 随神門の先は縁起物露天が並ぶ  

・随神門
入口の石段を上ると、参道の両側には露店が並び、鳥居を潜ると急な石段が聳えています。石段を登ると朱色に輝いた、1998年竣工の随神門で、1945年(昭和20年)5月の東京大空襲で炎上し50年ぶりに再建したのです。門の中には右大臣と左大臣が鎮座しています。
随神門は、「清水組」の創業者である清水喜助が、1848年(嘉永元年)4月に穴八幡神社からご下命を受けて建築したもので、その出来栄えは当時、江戸中の評判になったと云われています。

・布袋像の水鉢
門を潜ると、両側には露天が軒を連ね、縁起物の銀杏細工、まねき猫、だるま屋さんに白南天橋と七味唐辛子屋さんなどの古くからの常連の店が出ております。お土産に、銀杏細工の干支の「とり」と「いのしし」を買って帰りました。
その露天の間の右側に、区指定有形文化財の「布袋像の水鉢」があり、区切りなく参詣者が布袋像を手でさすり、体の具合の悪いところの快復を祈願していました。

                      縁起物露天

区教育委員会の布袋像の水鉢説明
新宿区指定有形文化財  工芸品                                        
1649年(慶安2年)の紀年銘がある水鉢で、 同年家光が江戸城吹上御苑にあったものを穴八幡神社へ奉納したと伝えられている。布袋像は、左足を立てて水鉢を脇にかかえ、容姿は中国近世の弥勒像に類似し、作柄も優れている。他に類例のない特異な形をしており、また、布袋像の古様を示すものとして貴重である。 平成4年8月

  布袋像の水鉢            穴八幡宮本殿    随神門には左・右大臣が鎮座   
 
・本殿
戦災で焼失して、慶安・元禄の江戸権現造りの当社設計絵図を基に御本殿御社殿を復興した本殿に参拝しました。
祭神は、八幡宮を守護神とし、應神天皇、仲哀天皇、神功皇后が祀られております。
商売繁盛・金融業繁盛・金銀融通・勝馬券祈願・除災招福、虫封じの御利益があります。

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風景・風物詩 江戸時代から続く千躰荒神祭 竃の神様として賑わう海雲寺 その2

2007年12月16日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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平蔵地蔵
境内の中央の庭に立像と二体のお地蔵様が祀られております。右側のお地蔵様が平蔵地蔵で、由来の石碑が立てられています。
菩薩のような平蔵の地蔵は、青物横丁の松並木の所に石の地蔵像を立て供養されていたが、その場所に京浜電車が開通することになり、当時の海雲寺住職横川得諄和尚が境内に移して回向しました。
平蔵地蔵尊の信仰こそ荒んだ人心を洗うものであるとの、篤信者があり賛同と援助を得たので、海雲寺並に荒神王を参詣する総ての人にお参りいただくため、本尊前庭に移し奉安することになったと由来に書かれています。

                     平蔵地蔵(右)(拡大)    平蔵地蔵の由来石碑(拡大)

平蔵地蔵の由来石碑から抜粋
江戸の末1860年頃 鈴ヶ森刑場の番人をしながら交代で町に出て施しを受けて暮らしていた三人連れの乞食がいた その一人平蔵は或る日 多額の金を拾ったが落とし主を探し 当然のこととして金を返し お礼の小判を断った そのことを知らされた仲間の者は金を山分けすれば三人とも乞食を止めて暮らせたのにと腹を立てて正直者の平蔵を自分たちの小屋から追い出し凍死させてしまった これを聞いた 金の落とし主である仙台屋敷に住む 若い侍 平蔵の遺体を引きとり 青物横丁の 松並木の所に手厚く葬り そこに石の地蔵尊をたて ねんごろに供羪しつづけた
明治三十二年十月 京浜電車が開通することになったが 生憎その線路 地蔵尊の土地がかかり 時の海雲寺住職 横川得諄和尚が 菩薩のような 功徳の君子 平蔵を 長く社会の木鐸たらしめんと 願望して当寺境内に 移してもらい回向した

たまたま篤信者あり平蔵地蔵尊の信仰こそ荒んだ人心を洗う甘露の法乳であると賛同と援助を得たので海雲寺並に荒神王を参詣する総ての人にお参りいただくため本尊前庭に移し奉安することとなった ここに平蔵地蔵の由来を略記し讃仰の資とす
昭和六十一年十月吉日  龍吟山 海雲寺二十三世 如雲裕生 僅誌

千躰荒神祭の名物と露天
千躰荒神祭には、昔から商家の”かまど起こし”の縁起と結びつき、東京ではではここだけにしか売っていない縁起物のお釜おこし・荒神松・ご守護、久寿餅などの名物が出ています。
江戸庶民の味であった、豆いたや生姜糖などが最近では、あまり目にしなくなってきました。

・名物


   荒神松の店(拡大)       お釜おこしの店(拡大)       久寿餅屋(拡大)

三方荒神御尊影の祀り方
家庭の台所の清らかな場所で、神棚は目の高さよりやや上にお祀りします。御札は東向きまたは南向きに祀りますが、北向は避けます。花は榊、又は荒神松を供えます。

・露天
海雲寺周辺の境内、参道や旧東海道には、煎り銀杏・ゆで豆・唐辛子・南天の箸・乾物・暦・竹細工・植木等々珍しい露店も、数多く立ち並び、関東一円からの参拝客でごった返します。
28日の午後1時頃の参詣では、参道もそれほどの混雑ではなく、護摩の受付とお札受け所の行列はありませんでしたが、参詣者は途絶えることなく続いてました。

      乾物店              植木屋          池上通り付近の露店


             本堂参道の露店                参道付近の露店

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風景・風物詩 江戸時代から続く千躰荒神祭 竃の神様として賑わう海雲寺 その1

2007年12月14日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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千躰荒神祭
京浜急行青物横丁駅の東側の線路に沿った路地の塀内は、千躰荒神様として古くから信仰されている海雲寺です。
海雲寺(品川区南品川3-5-21 地図参照) は、毎年3月と11月の27、28日に千躰荒神祭が開かれ、火と水を守る竃の神様としてご利益により、江戸時代から関東一円の多くの人々の信仰を得て、今でも荒神祭は平日でも参詣客で大変混雑します。
千躰荒神祭は、午後5時までの日中で、平日に当たる日が多く行く機会が少なかったのですが、11月28日にお参りしてきました。

参詣路
海雲寺の下車駅の青物横丁という駅名の由来は、地名をとったもので、江戸時代の終わり頃この地に農民が収穫した「青物」を持ち寄って市を開いたことからきていると云われています。
青物横丁駅を降りると改札口が品川方向にあり、改札を出て直進すると池上通りへ出る階段ですが、改札口の右手に海雲寺出口がありその階段を降り、路地に沿って旧東海道に出ます。

                   青物横丁駅海雲寺出口

旧東海道を左に曲がると、この辺たりは江戸時代の南品川宿で、通常の縁日には見られない台所用品、竹細工或いは古着や和服小物の店などの、沢山の露天が立ち並び参詣客で歩くのが大変で、池上通りまで続きます。

  千躰荒神石標(拡大)  旧東海道南品川宿荒神様参詣路 参道前には竹細工の店(拡大)

参道の正面は山門で、門をくぐると境内の正面に堂が2つあり、右側が本堂で1251年(建長3年)に不山東用和尚の開山で曹洞宗、本尊の十一面観音像が安置されております。

      参道              山門(拡大)            境内(拡大)

山門の正面に位置する本堂左手の護摩堂には、千躰荒神様が祀られております。荒神様は、大日如来、文殊菩薩、不動明王の三身を表していて、憤怒の形相をしています。
天井には、1930年(昭和5年)に「東京各区消防組」が奉納した、「纏」のレリーフが天井一面に描かれています。

                      護摩堂(拡大)

荒神様は、竃の神様ですので、台所を預かる女性の参拝車が多く、各家庭の台所に祀っているお宮を風呂敷に包み参詣するのがしきたりで、護摩を焚いて頂いて祈願して新しいお札を受けます。

                      護摩祈願(拡大)     千躰荒神様の由来(拡大)

台所を守ってくれるご利益を授かるには、昔から帰り道には決して寄り道をしてはいけないと云い伝えられております。

                        本堂(拡大)   烏瑟沙摩明王(うすさまみょうおう)殿

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風景・風物詩 秋の風物詩 2007年酉の市 大森鷲神社

2007年12月03日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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大森鷲神社酉の市
今年の酉の市は、11月11日の日曜日と23日の祝日の二の酉が休日にあたり、陽気も暖かったので、23日に大森鷲神社に行ってきました。
大森鷲神社から「熊手守り」の授与を受けるようになったのは、1939年に大森に転居してきた、父の代から続いており、熊手は東京の一般庶民の願を授かる縁起物で、昔本格的な寒さを迎えるこの時期は、火事の多い冬場の「火の用心」を縁起熊手に託して気をつけると云う行事が東京の風物誌で、我が家では世界大戦中の混乱期の数年間を除き、68年経過した今日まで続いております。

         参道にあふれる参詣者の行列

鷲神社
大森鷲神社の由来(「風景・風物詩 秋の風物詩 酉の市 大森鷲神社」参照)は、祀られた日本武尊が戦勝を祈願をされたと伝えられる処から、武運、開運、商売繁盛の神として多数の方の信仰を集めて居ります。


酉の市の縁起熊手
縁起熊手は、金銀財宝を詰め込んだ熊手で、運を「かっ込む」、福を「はき込む」といって開運招福・商売繁盛を願った、江戸っ子らしい洒落の利いた縁起物で、熊手守りは年々大きな熊手に換えてゆくのが良いとされます。

       参詣者で混雑の境内                   古い熊手を納める

・かっこめ

   かっこめ授与(拡大)                       お祓いを受けご利益を頂く

鷲神社では、江戸時代から開運招福のお守りとして、稲穂を付けた小さな竹の熊手の「かっこめ熊手守り」を授与しています。このお守りは、今でも酉の市に限り授与されています。

       (拡大)              (拡大)       かっこめと神宮館運勢暦(拡大)

・酉の市の名物
江戸時代の酉の市の名物には、唐の芋を「頭の芋」と名付け、食べて人の頭になるように、粟餅を「黄金餅」と称して、黄金持ちになるようにと、あちこちで売られ、大変な人気があったようです。黄金餅は、その後姿を消し、変わって切山椒(きりさんしょ)と呼ばれるお菓子が名物として出てきました。

「おとりさま」の参詣風景
酉の市の大森鷲神社の参詣は、何十年もの間変わらずにお参りしており、先ず神社参拝の行列に並び境内のお囃子を聞きながら、参詣者で押し合う本殿で家内安全無病息災のお祈りをします。参拝後、本殿脇の特設台で授ける「かっこめ」を求め、巫女さんからお祓いを受けて来年の福のご利益をいただきます。

       (拡大)              (拡大)             (拡大)

参詣を済ませ、境内に立ち並んだ熊手屋さんの金銀細工の華やかで見事な縁起熊手を観賞しながら、「買った買った」の掛け声や手締めを聞くと、我が身も景気が良くなった気分になれます。

    手締め(拡大)              (拡大)             (拡大)

鷲神社周辺の参詣道の混雑している露天を眺め歩くのが、おとりさまの楽しい風物です。
露天の人気は、イカ焼き、お好み焼き、たこ焼き、じゃがバター、串焼き、綿あめ、あんず飴などなど、若者の食欲を満たします。大森鷲神社の露店には、人気のお好み焼き屋さんがあり、ここは毎年行列して売れています。


時代とともに、酉の市の露店の品物も変わっております、昔は、豆板、生姜糖などの下町の駄菓子的なものが定番でした。
以前は参詣後に、上新粉に砂糖と山椒を加えて短冊形に切った餅菓子の名物「切山椒」を露天で買うのが習慣でした。
ところが、最近「切山椒」を売っている露店が目につかなくなり、このところ名物を何年も味わっておりません。大森酉の市の露店の出店は多く、200店を数えますので、売っている店はあると思いますが探しておりません。


毎年のおとりさまで必ず買う物に、神宮館運勢暦と七味とうがらしがあります。暦は、鷲神社で来年の福を授かってきますので、来年の運勢が良いことに恵まれますようにと、暦を参考に行動することができる、江戸時代からの知恵袋です。
庶民の冬の寒さをしのぐ料理には鍋ものが一番です。七味とうがらしは、鍋もの、煮込みそば・うどん、白菜のお新香にはかかせない江戸の味覚です。
また、商店街の賑わいを見ながらJRガード傍の古くからある豆屋さんで、塩豆と落花生などを求め、酒の肴にするのが通で、長年大森に住んでの鷲神社の酉の市、冬の歳時記です。

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風景・風物詩 地蔵菩薩公開 薬師寺東京別院宝物のお地蔵さま拝観

2007年10月22日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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JR山手線五反田駅から近い池田山にある、薬師寺東京別院で毎年秋に開かれている宝物特別公開「衆生を救う菩薩の姿~お地蔵さま~」10月14日から24日まで開催を、10月15日に拝観してきました。


     (拡大)             (拡大)                 (拡大) 
(薬師寺東京別院宝物特別公開 衆生を救う菩薩の姿~お地蔵さま~ パンフレット複写)

薬師寺東京別院
薬師寺東京別院(東京都品川区東五反田5-15-17 地図参照)は、檀家や組織を持たない1300年の歴史を持つ奈良薬師寺の別院です。
薬師寺は、450年前に焼失した堂塔の再建を願い、お写経による白鳳伽藍復興の関東以北の拠点として、1975年(昭和50年)より本格的に始動しました。

JR山手線五反田駅を東口に降りて桜田通りを渡り、東に進み目黒方向に左折すると石畳の坂道があります。その坂道の両脇には桜が植えられた小さな公園があり、繁華街をちょっと外れただけで閑静な憩いの散策の場所です。
坂道を登りきったところが池田山で豪邸ばかりです。この屋敷町には美智子皇后のご実家の元正田邸のあったところで、その跡地は「ねむの木の庭」公園となっています。

東京別院へは、坂の突き当たりを左折して、池田山沿いに右に曲がると古風な和洋折衷の豪邸の向かいが、お寺とは感じられない鉄筋3階建ての薬師寺東京別院です。
新別院は、元御家流香道を極めた故山本霞月氏の旧宅で、そこを薬師寺が譲り受けて2003年に、本山よりお遷えした本尊薬師如来様を中心に、祈願した周囲壁面に千体佛をお祀りする三千佛が祀られる写経道場を新築して落慶しました。

   東京別院宝物公開入場券            薬師寺東京別院  

薬師寺東京別院内には、山本霞月氏が香道に親しまれた邸宅の座敷を移築復元し、その奥には濃茶専用の茶室を設けて、厳かな雰囲気の中で「奈良佛教の教え」と「日本の伝統文化」を発信しています。

  山本邸宅の座敷移築復元       茶道室             3階の庭
(薬師寺東京別院(公式サイト)から参照)

地蔵菩薩公開
宝物特別公開「衆生を救う菩薩の姿~お地蔵さま~」の公開は、薬師寺の僧侶による法話と解説が毎日11時、13時、15時の3回あります。
東京別院に着いたのは13時を少し廻っておりましたが、高田好胤師銅像の立っている入口で靴を脱ぎ、受付を済ませ2階の本堂に行きました。

本堂では、法相宗大本山薬師寺執事の大谷徹奘師による法話が始まっており、本堂の右半分には説明を聞くための椅子座席が並べられており、月曜のため空席があり座れました。
本堂の正面には、本尊薬師如来様が鎮座しており、その左右にお地蔵さまが並べられ公開されておりました。
本堂の広間の左半分は、写経道場の台座の席で何人かの方が写経をされておりました。

法話が30分ほどで済んでから、公開の宝物のお地蔵さんに触れては駄目であるが、普通には上がれない本尊が鎮座している壇上に、登って直前で見てよいとの許可により、交互に国宝の菩薩に触れるばかりの面前で拝観してきました。
本堂での拝観が済んでから、隣室でお抹茶とお干菓子を頂戴して、3階の山本霞月氏宅復元のお座敷と茶室に上がり、床の間に鎮座している公開のお地蔵さんも眼前で拝観してきました。

公開の地蔵菩薩

 地蔵菩薩1   地蔵菩薩2  地蔵菩薩3  地蔵菩薩4   地蔵菩薩5  地蔵菩薩6

・地蔵菩薩1 
 木造 源次・源四郎・源五楼郎作 像高153.5cm、1564年(永禄7年) 奈良県指定文化財
・地蔵菩薩2
 木造 善円作 像高97.5cm、1240年(延応2年) 重要文化財
・地蔵菩薩3
 木造 像高95.7cm、平安時代 重要文化財
・地蔵菩薩4     
 木造 像高59.7cm、江戸時代  
・地蔵菩薩5
 木造 像高48.2cm、桃山時代末から江戸時代 
・地蔵菩薩6
 木造 像高45.2cm、1561年(永禄4年) 
(写真・資料説明 薬師寺東京別院宝物特別公開 衆生を救う菩薩の姿~お地蔵さま~ パンフレット出典)

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風景・風物詩 秋の歳時記お彼岸 城下町古河の菩提樹お墓参りと周辺散策 その2

2007年10月03日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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古河市
古河市(こがし)は、関東地方のほぼ中央、茨城県の西端に位置し、2005年9月12日に城下町である旧古河市と、総和町、三和町との1市2町の合併により誕生した、人口約15万人の都市です。
古河観光の見所としては、古河公方館跡、永井路子(作家)旧家、古河歴史博物館、鷹見泉石記念館、古河総合公園などがあり、訪問記を何れの次期かに掲載をしたいと思います。
古河総合公園には、2000本の日本一の花桃林があり、春彼岸のお墓参りに来て満開時の掲載記事(「小さな旅(12) 茨城古河 桃まつり」参照)があります。

・歴史
万葉集に詠まれてる古河は、「許我」と表記されており、奈良時代から渡良瀬川の渡し場として賑わっていたことが伺えます。
 「逢わずして行かばおしけむ まくらがの許我(こが)こぐ船に君も逢はぬかも」
 「まくらがの 許我(こが)の渡りのからかじの音高しもな寝なへ児ゆえに」

室町時代には古河公方の本拠地として、江戸時代には下総国古河藩の城下町で日光街道古河宿の宿場町として盛えました。
古河藩第十一代藩主である土井大炊頭利位(どいおおいのかみとしつら)が、1832年に日本初の雪の結晶に関する観察図鑑「雪華図説」を出版しました。

 古河城(明治3年 武藤松庵撮影)古河歴史博物館出典  古河駅前万葉歌碑

・古河城 (wikipedia古河城)
江戸時代の曲亭馬琴作の読本南総里見八犬伝の芳流閣とは、古河城と云われているが、1873年(明治6年)廃城令によって、翌年、城は取り壊され、石垣の石をはじめ、門や櫓などの部材は、入札によって払い下げられました。古河城(古河城下模型 古河市公式ホームページ参照)跡は渡良瀬川の改修でほとんどなく、城門(市の文化財)古河城文庫蔵、乾蔵、が遺構として、移築現存しており国の登録有形文化財に指定されています。

古河城の起源は、平安時代の末期に、下河辺行平が古河の立崎(竜崎)に築いた城館とされています。室町時代には、足利成氏(古河公方)が本拠とし、関東動乱の中心の一つとなりました。江戸時代には、多くの譜代大名が入れ替わりで城主を務め、近代城郭として整備を進めました。古河藩庁が置かれて、行政機能を担うとともに、将軍の日光社参時の宿として、あるいは、江戸城の北方の守りとしても機能しました。

城下には、日光街道の本陣がおかれ宿場町が発達するとともに、渡良瀬川による河川水運も発達して、交通・物流の要所となりました。 徳川将軍による日光社参では、岩槻城・古河城・宇都宮城に宿泊した後、日光に入ることを恒例とし、将軍の宿城の一つとして重視されました。

古河城はどこにあるのかを、筑波大学地球科学系人文地理学研究グループ調査のレポート「古河市における中心市街地の変容と都市観光への取り組み」の第3図の近世古河城下町(天保期頃)地図を参照して、Google Mapの旧古河市内地図上に古河城本丸跡付近や町名をマークしてみました。

・古河宿
街道沿いの宿場は、原町、台町、一丁目、二丁目、横町と続き、延長約1.8kmほどで旅籠や茶店が軒を並べ、飯盛女がことのほか多い町だったと云います。
JR古河駅西口から西へ向かい県道261号線(旧日光街道)に出た、本町2丁目交差点の若野屋着物店前に「史蹟 古河城下高札場跡」碑があり、道路の反対側の北斜め向かいに「本陣跡碑」があります。逆に、道路の反対側の南斜め方向には、「御馳走番書所跡」と「古河城お茶屋口跡」があります。

      本陣跡碑           下高札場跡碑        お茶屋口跡碑

若野屋着物店前261号線を北に歩くと、信号のある十字路で、旧日光街道は261号線と別れて左折し「曲の手」です。左折した右側のお寺は、お墓参りをした神宮寺です。
この、神宮寺の道路に面した石塀内には、昔「脇本陣」だった太田屋旅館がありましたが、廃業して現在は神宮寺の境内となっております。

              「脇本陣」だった旧太田屋旅館(山田屋出典)

神宮寺の道を挟んで左斜め前には、常夜塔が上に乗っている大きな道標があり、正面に「左日光道」、右側面に「東筑波山」、左側面に「右江戸道」と刻まれております。もとは、左折した交差点のところにあったと云います。


左折した旧日光街道を100mほど歩くと十字路があり、旧日光街道は右折し「横町」です。ここには昔遊郭があったところと云われ、道の右側に「よこまち柳通り」の標識があります。横町を北に進むと、別れた261号線と合流して古河宿は終わりです。

神宮寺のお墓と石碑
神宮寺は城下町の由緒あるお寺でありますので、歴史ある石碑や著名人のお墓などがあります。
・水戸藩勤王の志士殉難の碑
神宮寺には、墓地の中央の東端に「水戸藩元治甲子之変殉難追悼碑」があります。水戸藩勤王が永井寺と正定寺の付近(旧古河市街図参照)で殉難する変がありました。


古河の社寺
旧古河市街には、30もの古河宿ゆかりの社寺があります。神宮寺からJR古河駅の間だけでも7つの社寺(菩提樹ルート地図参照)があり、秋の彼岸のお墓参りにそのうちの二寺を帰路に散策してみました。


・西行寺
神宮寺から旧日光街道(曲り手)を東に歩き、信号を渡って直進して古い家が多い筑波道を100mほど進み、鍛冶町から南下する北新町の道を歩くと左手に西行寺(浄土宗称名山 総本山:知恩院 本尊:阿弥陀如来)の山門が見えます。


・浄円寺
西行寺からさらに南へ進むと、浄円寺(真宗大谷派 本山:本願寺 本尊:阿弥陀如来立像)の山門が見えます。古河では、お寺からお寺と続いております。


浄円寺と道を挟んで小さな八幡宮が鎮座しております。八幡宮は江戸時代初期、藩主土井利勝により北新町(現本町一丁目)に移されたといわれ、今も町内の人々によって祭られています。
八幡様をお参りして、駅前通りを通って帰路につきました。


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風景・風物詩 秋の歳時記お彼岸 城下町古河の菩提樹お墓参りと周辺散策 その1

2007年09月29日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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彼岸の先祖供養
今年の秋の歳時記お彼岸は、秋分の日の9月23日が「中日(ちゅうにち) 」で、前後3日間の20日の「彼岸入」から26日の「彼岸の明け」までが秋彼岸です。
同様に、春分の日を中心に7日間を春の彼岸と云います。
春分の日、秋分の日は、昼と夜の長さが同じで太陽が真西に沈みます。真西には極楽浄土があるという仏教説から、先祖の霊を供養する仏事が行われるならわしとなり、この時期にはお寺では七日間に渡って彼岸会(ひがんえ)が行われます。
彼岸とは、仏教でいう俗世界に対する佛の世界のことで、現世に対してあちら側という意味です。

家庭では先祖の霊を供養するためにお彼岸の前に仏壇、仏具を綺麗にして、お花やお供物を供えますが、お盆の時のように決まった行事や飾り付け(「大森町界隈あれこれ お盆歳時記 大森町のお盆、先祖供養」参照)はありませんが、一般には家族でお墓参りに出かけて先祖供養をすることが多いようです。
仏壇のお供え物は、一般に秋にはお萩と呼ぶぼた餅を供えます。この名前のいわれは、季節の花に関係しており、秋には萩を、春には牡丹をたとえています。

古河の菩提樹お墓参り
菩提樹のお墓参りは、法事、月遅れのお盆と春・秋の彼岸にはなるべく都合をつけて、家族で先祖の供養を心がけています。今年の彼岸には、彼岸入りの20日にお参りしてきました。
菩提樹は、埼玉と栃木との県境に近い茨城県古河(こが)市にある神宮寺(「小さな旅(2) 菩提寺墓参」参照)で、JR宇都宮線の古河駅まで1時間のところです。

神宮寺(古河市横山町1-1-11)へは、駅前の28階のアプリKOGAの横を北に進み、広場のある道を左折すると県道261号線と交差するので、そのまま直進すると右手の石塀が神宮寺境内(地図赤線航空写真参照)です。
神宮寺の境内に入ると、右側は檀家用の広い駐車場になっており、ここは以前には由緒ある太田屋旅館があったところで廃業により神宮寺で引き取りました。本堂は、参道を進んだ正面にあります。

 日光街道に面した神宮寺     神宮寺正門              本堂

・神宮寺由緒
この寺は、1446年(文安3年) に良宥上人の開基で、もとは鎌倉にありました。1455年(享徳4年)に帰衣が深かった関東公方足利成氏が幕府の追討を受け、鎌倉から古河城に移り古河公方と称し、守り本尊である十一面観音菩薩像を良宥上人が守護してともに古河に移り、古河城中の観音寺曲輪を賜り建立し心城院と称し、後に十一面観音菩薩を雀神社の本地仏とし境内の観音堂に祀られました。

1620年(元和6年)に、城主奥平美作守忠昌が城増築のため町割りをした際、現在地に移って真龍山心城院神宮寺と称しました。1688年(貞享5年)に類火に遭い寺宝、縁起等を焼失しましたが、1691年(元禄4年)に再建されました。
本尊の不動明王とは別にある十一面観音座像は、もともとは、雀神社の境内の観音堂にまつられていましたが、1869年(明治2年)に神仏習合が禁止されて神宮寺に戻されました。
その後、1915年(大正4年)には解体しその古材を使用して大改修をし、平成3年には床修理工事を行い土台を強固にして、平成12年には屋根の瓦を新しく葺き替えて現在に至っております。

        (拡大)

・本尊、宗派
 宗派:本山 長谷寺、真言宗豊山派
 本尊:大日如来

・神宮寺の黒松
神宮寺の庫裏の入り口にある黒松は、古河城から移築したもので樹齢が400年以上経ており、樹高が5.50m、幹周りが1.36mあります。庫裏を建替えるまえの木造の家屋の縁側から眺めた黒松は見事なものでした。この、黒松は、お墓参りの都度出迎えてくれ、400年もの間神宮寺を見守ってきた歴世の松です。

        (拡大)             (拡大)               (拡大)

・お墓参り
お墓は、本堂のすぐ裏手にあり、そこは先祖が本堂から遠いと寂しいからと近くを選びました。
元のお墓は、沢山の墓石があり平成10年に整理して、先祖代々のお墓とし、向きをも方向の良い東向きにして現在に至っております。

お墓参りは、彼岸中であればいつ行ってもかまいません。用意するものは生花、線香、ロウソク、御供物、マッチ、数珠などで、遠方から参りますので手桶とひしゃくはお寺に保管してある、他の檀家の方のものを借用します。


お墓参りの手順ですが、まず墓の掃除(周囲の雑草、お墓のよごれ)、生花・御供物を供えます。次いで線香に火をつけ供え、手桶の水を墓石にかけます。その後しゃがんで合掌し一礼、という手順で行います。


ふだんは忙しくていけないお墓参りですが、家族そろってお参りしましょう。お墓のご先祖様は、“よく来たね“と喜び、帰りには”また来ます“と帰れば心が休まります。


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