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kan-haruの日記

風景・風物詩 糀谷祭 糀谷神社・浜竹天祖神社・西仲天祖神社の宮神輿連合渡御

2007年09月19日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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糀谷祭
9月は、1年でお祭りが最も多く、秋祭りを向かえると収穫期です。今夏の猛暑は記録的で、残暑の厳しい9月8、9日には、阿波おどりが行われた糀谷(「風景・風物詩 阿波踊り 第33回糀谷阿波おどり大会」参照)界隈で、隣接する三神社の宮神輿が連合渡御する糀谷祭りが行われました。

連合渡御する糀谷の三神社(地図参照)は、京浜急行電鉄空港線の糀谷駅北側の西糀谷3、4丁目に並んで鎮座する、西仲天祖神社(大田区西糀谷4-9-17)、糀谷神社(大田区西糀谷4-7-18)と浜竹天祖神社(大田区西糀谷3-19-18)の3氏子町会の合同祭で、羽田神社(大田区本羽田3-9-12)の兼務社です。

宮神輿連合渡御
各社は、8日が宵宮で11時から式典が行われ、18から21時まで各町会を渡御します。9日は12時半からの式典後、東京で唯一の宮神輿連合渡御が、村守稲荷神社(大田区東糀谷4-3-6)を出発して産業道路を渡り、西糀谷3丁目交差点を経て西糀谷4丁目交差点付近までの道路を、各神輿に100人ほどの担ぎ手により威勢よくパレードするので、見に行きました。

糀谷祭り連合パレードは、お囃子の車に続き子供神輿が先陣です。


三社とも祭神が天照皇大神の連合神輿渡御の先頭は、西仲天祖神社で神輿の台座は二尺六寸(77)で、儀宝珠を載せた唐破風軒屋根の胴羽目木彫で勾欄造りが特徴であり、1977年(昭和52年)に浅草・宮本重義の作です。

                                          (拡大)

二番手の宮神輿は、浜竹天祖神社で神輿の台座は二尺三寸(70)で、延軒屋根の胴羽目木彫で勾欄造りが特徴の同じく浅草・宮本重義の1935年(昭和10年)の作です。

                                          (拡大)

しんがりは糀谷神社で、神輿の台座は二尺八寸(85)で、大唐破風軒屋根の胴羽目木彫で勾欄造りが特徴の三社とも同じく浅草・宮本重義の1976年(昭和51年)の作です。

                        (拡大)

神輿が通り過ぎると祭りも終え、秋の出迎えです。秋祭りの時期は、何か裏悲しく物寂しい思いがするのは季節のせいでしょうか。


糀谷祭りの仲良し三神社
糀谷連合祭りの仲良し兼務社の三神社を、糀谷駅に近いところから順にお参りしてきました。


・西仲天祖神社


京急の糀谷駅を降りて環八通り側の商店街通りとは、反対の北側の道路をおよそ150mほど直進(地図参照)すると四つ角です。そこを右折すると通りに面して西仲天祖神社の鳥居が見えます。本殿に並んで、末社のお稲荷様が鎮座しております。
西仲天祖神社に到着した時は、丁度連合渡御に合わせて子供神輿の出御の準備をしておりました。兼務社の天神様は、お祭りでしたが一つの露天も出てなく、入り口に神社の幟と本殿に国旗が掲揚してあるだけの寂しい雰囲気でした。


・糀谷神社


糀谷神社は、西仲天祖神社前の道路を東に200m弱進むと、同じ様に道路に面して鳥居が見えます。
丁度着いた時は時間が悪く、子供神輿など出払った後で、人一いないも抜けの殻でした。神社には、西仲天神と同様に入り口に神社の幟と本殿に国旗が掲揚してあるだけでした。

・浜竹天祖神社


浜竹天祖神社は、糀谷神社前の通りを東に進み、産業道路に出る前の糀谷中学横の四つ角を南に曲がり、二つ目の四つ角を東に行くとすぐ道路に面して鳥居が見えます。
この辺一帯の道路には、しめなわが飾られお祭りの雰囲気が感じられます。神社境内には、祭り提灯が沢山吊るされ、本殿には神社の高張り提灯が出され、20店ほどの露天が出店しておりました。やっと、ここで祭りの露天にめぐり合えました。三社の合同祭りなので、仲良し神社のどこかの一社が持ちまわりで、祭り役を受け持ちしているような感じです。
浜竹天神でも、丁度着いた時には連合渡御に合わせて子供神輿の出御の準備をしておりました。


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風景・風物詩 池上松涛園 西郷隆盛・勝海舟の江戸城開場会見の名園 その2

2007年09月17日 | 風景・風物詩
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小堀遠州名園の名山
庭園の坂道を登っていくと、「松月亭」からの道と合流して高度が増してきて、森林がうっすらとした深山の山登りの赴きで、枯山水の滝もあり廻りが見渡せません。山道は、右にカーブを切り低木となり見晴らしが良くなると、庭園の最も高い所の前方に家が見えてくるという、小堀遠州ならではの素晴らしい名山の情景を設計した大庭園です。

 石灯籠の奥に松月亭の床几が覗く

小堀遠州の茶室を偲ぶ
小堀遠州は、1579年(天正7年)近江国(滋賀県)小堀村に生まれ、優れた茶道家であり、遠州流の創始者でもあります。遠州流は、江戸時代初期の大名で、茶人として有名な小堀遠州を流祖とする武家茶道の代表的な流儀で、大名茶道とも呼ばれ400年の歴史をもち、格式のある茶道として今日まで受け継がれています。
小堀遠州は、庭園に4ヶ所の茶室を設けましたが、戦災で全て消失してしまいました。茶道家の小堀遠州が建てた茶室の位置場所は作られた時のままであり、今は無い格式高い茶室の面影が偲ばれます。

・茶室 松月亭
深山の山道を登ってきましたので、松月亭には寄りませんでしたが、松涛園の茶室の一つで、庭の西の小高い見晴らしの良い場所の「あずまや」で、茶会では立礼席として使用され、床几などを配して60名の席が作れます。

  浄庵(拡大)            (拡大)                (拡大) 

・茶室 浄庵
浄庵は庭園の茶室では一番高いところにあり、西郷隆盛・勝海舟が会見した「あずまや」のあった跡に建てたもので、平成4年4月に完成したものです。
国賓などを接遇できる茶室は、法華思想である「水」にちなみ、「浄庵」と命名されました。

         浄庵(拡大)                (拡大)

松涛園の石碑、石灯籠群
松涛園の要所には、多くの石灯籠や石碑などが庭に風格をそなえて見られます。

・橋本雅邦の筆塚
浄庵の高台から東に進むと石塀に囲まれた、橋本雅邦(がほう)が使用した画筆を収めた見事な九層の高い「雅邦の筆塚」にでます。筆塚は、狩野派の由緒が深い本門寺に雅邦の門人が1922年(大正11年)に建立したものです。
橋本雅邦は、1835年(天保六年)に武蔵国(埼玉県)川越藩の御用絵師、狩野一門の橋本養邦の長男として江戸木挽町で生まれ、七歳のころから父に絵の手ほどきを受け、狩野勝川院雅信の門弟となりました。

 雅邦の筆塚(拡大)                            (拡大)

1884年にフェノロサの知遇を得、以後岡倉天心らと日本画革新の運動を推進し、東京美術学校教授となり、日本美術院を興し天心とともに、横山大観・菱田春草・下村観山・川合玉堂ら多くの逸材を育てました。画風は、和漢の古画を広く学び、穏健で格調の高い作品が多く、1908年(明治41年)東京・本郷竜岡町の自宅で、七十四歳で没しました。

・西郷隆盛と勝海舟会見の碑
筆塚の高台からの池上東方の遠望を眺めながら、直線に下る4段階の石段を1階降りると、池泉に平行してる坂道があり、そこを進むと西郷隆盛と勝海舟会見の碑があります。
西郷隆盛と勝海舟会見の松涛園の説明板を見ると、石碑は西郷隆盛の甥にあたる西郷従徳の揮毫で1941年(昭和16年)に建てられたもので、本門寺には倒幕軍の本陣が置かれていた。1868年(慶應4年)3月の倒幕軍の江戸城攻撃の前に主席参謀の西郷と幕府軍の勝が、現在の浄庵のところにあった「あずまや」で会見し、江戸城無血開場の交渉を行ったとあります。

 会見の碑(拡大)         (拡大)                 (拡大)

しかし、勝海舟に関する文書などでは、1868年(明治元年)3月13日、14日に、幕府軍勝海舟と倒幕軍西郷隆盛は、現在の田町に所在した江戸薩摩藩邸で会談を重ね、その結果4月11日、江戸城は無血開城により新政府軍に引き渡されたとの記述も見られ、種々の説があります。

・其角の句碑
西郷・勝会見の碑のつづらおりを進むと、其角の碑があります。十四、五歳で芭蕉に入門し、芭蕉門下十哲の首位として活躍した、建立の経緯が不祥な榎本(宝井)其角の碑を右に見て石段を降りると池泉の傍です。

・茶室 鈍庵

        鈍庵              (拡大)             (拡大)

池泉に沿って進むと、やきもの師の鈍阿が邸内に建てた建築材が全て栗材の四畳半板敷きの茶室が左に見え、自らの名にちなんで付けた茶室の「鈍庵」で、平成2年に寄贈されました。

        根庵                                   (拡大)

大野鈍阿(1885-1995)は、岐阜県に生まれ品川に出て、28歳の時益田鈍翁の大邸宅碧雲台に誘いを受け、碧雲台の一隅に住まいを与えられました。鈍翁の名器を手本に技量を磨き、鈍翁の号の一字をとり鈍阿の名で、鈍翁のお庭焼きのやきもの師となりました。

      根庵(拡大)            (拡大)              (拡大)  

・茶室 根庵

      根庵(拡大)            (拡大)
 
茶室鈍庵から進むと先に八畳間の茶室二間の「根庵」があります。大野鈍阿の住まいであった建物を「根庵」と名ずけ、「鈍庵」とともに裏千家から寄贈されました。

         (拡大)                (拡大) 

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風景・風物詩 池上松涛園 西郷隆盛・勝海舟の江戸城開場会見の名園 その1

2007年09月15日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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池上松涛園(しょうとうえん)一般公開
池上松涛園(東京都旧跡)は、本門寺の奥庭として、約4000坪の渓流と池を回遊する池泉回遊式庭園で、茶道と京都桂離宮の造園で有名な、桃山期から江戸時代に活躍した小堀遠州(1579~1647)によって作られたと伝えられています。
松涛園は、普段は朗峰会館ロビーからの眺めだけで園内に入れませんが、年一度の9月に一般公開され、今年は9月3日~9日の期間に公開されましたので、6日に行ってきました。
6日は、丁度台風9号が神奈川県に上陸した日の前日でしたので、雨が降ったり止んだりの不安定な天気でしたが、運よく園内を散策している間は雨に遭わずに見学ができました。

                                        朗峰会館

池上松涛園へのアクセス(地図参照)は、お会式で有名な池上本門寺(「風景・風物詩(B9) 秋の風物詩 池上本門寺のお会式」参照)大堂裏側の客殿・寺務所の道を右に進み、突き当たりを左折して北奥(境内図参照)にある朗峰会館(東京都大田区池上1-2-1)の裏手にあります。
池上本門寺(東京都大田区池上1-1-1)の参道階段には、東急池上線「池上駅」を下車して参道を徒歩10分のところです。JR「大森駅」からは、池上駅方面行きの東急バスで、池上通りの「本門寺前」で下車して徒歩5分のところです。
戦災を免れた元禄年間建立の総門(大田区文化財)を潜り、加藤清正寄進と云われる別称「此経難持坂(しきょうなんじさか)」(大田区文化財)の96段の石段を登り、正面の山門を潜ると本門寺の大堂です。

      総門(拡大)        此経難持坂(拡大)         山門(拡大)

池上本門寺は、1945年(昭和20年)4月15日の世界大戦の大森・蒲田大空襲の戦災(「大森町界隈あれこれ(15) 鎮魂!大森町大空襲(第7~10回)」参照)では、五重の塔、宝塔、総門などの一部分の建物を残しただけで焼失しました。
松涛園も伝来の茶室の全てが失われましたが、宗祖700年の遠忌の事業で修築されて、平成3年5月に落慶しました。

朗峰会館には、講堂・結婚式場・宴会場・団体参拝の宿泊・休憩施設・駐車場などの設備があり、みやげもの販売やレストラン・喫茶店には、松涛園を望みながら懐石料理を楽しめる「花むら」とフランス料理と手作りケーキのカフェレストラン「Hanamura」があります。

松涛園散策
朗峰会館で、松涛園一般公開入園の手続きをして、係りの人から庭の道が滑りますから気付けてとの注意を受け入り口から入園すると、松涛園(案内図-1航空写真参照)正面は大きく開けた池泉です。

 松涛園池泉①位置(拡大)  松涛園池泉②位置(拡大)   松涛園池泉説明(拡大)

・池泉
自然の窪地に作庭された大きな池泉は、豊富な地下水からの湧き水であり、沢山の緋鯉が池一杯に泳いでいます。池には、洲浜、織部井戸、船付場、鶴島、亀島、魚見岩、太鼓橋などが配されております。

 松涛園池泉③位置(拡大)  松涛園池泉④位置(拡大) 松涛園太鼓橋⑤位置(拡大)    

案内図(松涛園案内図-1参照)に従い、散策は時計廻りに左手から進みました。小堀遠州作の名園を楽ししんで、池泉に沿って鶴島、亀島など眺めながら行くと、右手の石灯籠の枝道に太鼓橋が架かる枯れ山水は、海に見立てた池に川がながれ込む風景を巧みに見せております。

松涛園太鼓橋⑥位置(拡大) 松涛園枯山水⑦位置(拡大) 松涛園枯山水⑧位置(拡大) 

道を折れずに山手方向に直進すると、本門寺名物の精進アイスで休憩が出来る「松月亭」に行く分かれ道がありますが、雨模様も気になりましたのでそこに寄らずに直進すると枯れ山水の川は沢となり沢渡りが見えます。

松涛園沢渡り⑨位置(拡大) 松涛園沢渡り⑩位置(拡大) 松涛園松月亭⑪位置(拡大)

ここから庭園の道は登り坂となり、木が茂った山へと入って行き、池泉とはお別れです。

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風景・風物詩 山王熊野神社 歴史ある鎮守の森の大神輿池上通り渡御

2007年09月13日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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山王熊野神社
JR大森駅西口の池上通り右手の山王台地にある山王熊野神社(大田区山王3-43-11)は、今年は本祭りで8月31日から9月2日まで行われ、2日には池上通りの春日橋交差点からくらやみ坂下までを車両を通行止めして大神輿の渡御が行われました。2日には、お祭りパレードが15時過ぎから始まりましたので見てきました。


山王神社(地図参照)へは、大森駅西口の池上通りを5分ほど進むと、大森郵便局の対面に大きな「新井宿義民六人衆霊地参道」の常夜灯が建てられている四つ角を右に曲がると、突き当たりに、農民が父母の墓という名目で建てた義民六人衆の墓のある日蓮宗法光山善慶寺があります。

     善慶寺参道              新井宿義民六人衆説明板

善慶寺の裏山に当たる台地は、池上通り西北の八景坂(やけいさか)から馬込にかけて入り組んだ台地の地形が、ちょうど拳のようにはり出した形で善慶寺の先まで延びています。

                善慶寺             熊野神社参道は善慶寺境内から

山王神社のこんもりと茂った鎮守の森の池上参道は、この善慶寺の境内を通り裏手の石段を登った台地の上にあります。

                 鎮守の森の熊野神社参道

この台地を木原山とか陣屋山と呼ばれ、江戸時代には新井宿村という農村で、村の領主木原氏の陣屋と屋敷が置かれていました。木原山は、万葉集にも詠まれた荒藺ヶ崎の旧蹟とも伝えられております。
山王神社社伝によると、1615~24年(元和年間)に領主・木原木工允により屋敷内に建立されたと伝えられておりますが、幕府の大工頭をつとめた木原氏が担当した日光東照宮の余材で本殿を造営したのは、1636年(寛永13年)であるとも云われております。

                      熊野神社本殿

大田区内の神社建築では、最も古いものです。また、境内東口の鳥居は寛政8年建立と記され、 区内で2番目に古いものです。
木原氏の元の姓を鈴木といい、紀伊の熊野社に仕えた一族であることから、熊野信仰を新井宿村に持ち込んだといってよいでしょう。
なお、1608年(慶長13年)2月に上棟された、池上本門寺の五重塔は木原方の建築です。

                       熊野神社境内

山王熊野神社大神輿の渡御
熊野神社大祭の初日の8月31日は、18時半から中神輿の御霊遷しが行われ出御し、22時に御仮屋に納められました。
9月1日は、10時から式典を行い、13時から曳き太鼓と一緒に子供神輿が巡行しました。
3日目の9月2日は、14時に神社からの坂を下るため、担ぎの横棒を交換した大神輿が出御して、15時15分から池上通りをスタートするお祭りパレードの出発点の春日橋交差点近くのガス会社前に勢揃いしました。

        池上通りお祭りパレードの曳き太鼓・子供神輿・山王囃子

・池上通り
今の池上通りは、1937年(昭和12年)に出来た道で、大森駅から大森郵便局あたりまで古い池上道を使い、そこから東急池上駅までは新しく新道が造られました。
古い池上道は、大森郵便局あたりから西側をほぼ並行する裏道を通り、池上本門寺あたりは門前町の雰囲気を残す街道でした。
古い池上道(平間街道)は、古い東海道の本道であり、奥州街道とも相州鎌倉街道(鎌倉古道) とも呼ばれたが、徳川家康が海沿いの街道を整備してから脇道となり以降「池上街道」と称されました。

          池上通りお祭りパレードの高張り提灯・猿田彦・手古舞

・お祭りパレード
お祭りパレードは、先頭に曳き太鼓に子供神輿から始まり、山王囃子にリトルリーグメンバーの高張り提灯が続き、そして猿田彦と手古舞が大神輿を先導します。
熊野神社の大神輿は、祭神が伊邪那岐命で、台座が三尺(91cm)の大正14年の製造、製作者は大井町・大竹で、銅葺きの大振りの延軒屋根の勾欄造りが特徴であり、品川拍子で担ぎます。

       神官のお祓いの済んだ神酒所前では神輿を差し上げてご挨拶

大森郵便局付近のガス会社前を出発したパレードは、最初のダイシンデパートの神酒所前で休憩します。大神輿はお神酒所前では、神輿を差し上げてご挨拶をして、木が入り屈んで神輿を馬にのせます。

        (拡大)             (拡大)               (拡大)

神輿の渡御は、池上通りの道幅一杯を使って、横笛と括り太鼓の品川拍子で神輿を左右に「おいさ」「おいさ」と右へ押し、左に押し戻しながら前進して行きます。
次の神酒所で神輿を差し上げて、池上通りのくらやみ坂下で折り返し、大神輿の宮入は19時40分です。

        (拡大)             (拡大)               (拡大)

パレードの最後は、山王女性連の踊りが登場します。


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風景・風物詩 穴守稲荷 涼しげな行灯に照らされながら晩夏の献灯祭と輪踊り

2007年09月07日 | 風景・風物詩
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羽田恒例の神事 献灯祭
今年は日本列島が74年ぶりの猛暑に見舞われたなかで、ようやく晩夏を迎えた8月24日金曜日、25日土曜日の2日間にわたって、東京羽田の穴守稲荷神社で神事の「献灯祭」が開催され初日は18時より祭典が催され、その後行灯に灯明が灯されました。
行灯は、家内安全や商売繁盛、交通安全などの願いを託して事前に申し込んで奉納します。
普段は闇夜に紛れている神社参道が、「献灯祭」では厳かな光に包まれる光景は趣深く、19時から境内で輪踊り(盆踊り)が行われ、残暑の夕涼みをかねて25日に見に行きました。

穴守稲荷神社(東京都大田区羽田5-2-7)(「風景・風物詩(B15) 初詣風物詩 穴守稲荷神社」参照)は、京浜急行電鉄の京急蒲田駅から支線空港線の3駅目の穴守駅下車徒歩5分ほどで参道(地図参照)です。

献灯の行灯
参道の鳥居に着いたのは、午後6時を少し過ぎた頃で辺りはまだ明るく境内がよく見渡せました。献灯の行灯(配置図参照)は、参道の左通路に沿っていっぱいに2列に並べられている276個(A,B)の大型の行灯が先ず目に付きました。

 参道鳥居の特大型行灯   参道通路の行灯(拡大)   参道通路の行灯(拡大)

境内に飾られた行灯は、大型行灯が本殿への通路の両脇に2列120個(C,D)が並べられ、小型行灯は境内の通路に2列90個(a,b)と、本殿の横に48個(e)、さらに手水舎の奥に60個(配置f)が並び、豪華な絵や文字の大小の行灯がとても華やかに目だちます。

 参道山門の特大型行灯   社務所前通路の行灯    穴守駅前の行灯(拡大)

献灯祭の行灯は、この他に特大行灯3個が参道の鳥居と、山門、本殿および社務所に2基ずつ飾られております。また、京浜急行の穴守駅の構内に10個の小型行灯と、駅前に44個の行灯を含めて、総数が800個にのぼる豪快華麗な羽田の風物詩です。

・行灯の点灯

                       行灯の点灯

18時20分頃から、神官や役員の方などにより行灯をロウソクによる点灯が始まりました。ロウソクで点灯する行灯は、本殿と社務所の4基の特大型行灯(L)と大型行灯(A~D)の400個に小型行灯(a~d)の150個が続々と点されていきます。
鳥居と山門の5基の特大型行灯(E,F)と小型行灯(e,f)の100個は、電気の点灯で明かりが灯されます。

 奉納の行灯を点灯(拡大)

奥宮参拝
穴守稲荷神社は、世界大戦までは現在の羽田空港の敷地内にありましたが、終戦により駐留アメリカ陸軍の命令により48時間以内の強制退去を命ぜられ、1948年に現在地で仮社殿により復興した不遇のお稲荷さんなのです。

夏目漱石の「我輩は猫である」にも登場した穴守稲荷は、明治・大正時代には歓楽地で参道にはおびただしい数の鳥居と茶店、土産物店などが立ち並ぶ盛況でした。
小学生時代に行った昔の穴守稲荷の築山は、かなり大きかったとの記憶があります。行灯の灯が映えるのには若干の時間がありますので、かなり薄暗くなってきましたが奥之宮社殿と本殿の間を通り、現在のお稲荷さんの築山に登ってお参りしてきました。

                   築山に登って末社の参拝

美しく輝く境内の行灯と輪踊り
神楽殿前の広場の輪踊りの櫓の提灯の明かりが目立ってくると、行灯の灯は幻想の世界を誘い、昼の暑さを忘れさせる晩夏の一風の涼剤です。
輪踊りの始まる19時になると、辺りはすっかりと暮れ、行灯の明かりが映えて「献灯祭」も高潮を迎え参拝客で混んできました。

                   幻想的に輝く境内の行灯

輪踊りは、昔から羽田では土地に伝わる目出度い席で必ず唄われる羽田節で始まりました。
 “お背戸に蔵が 七棟まえ 七棟まえの蔵よりも 親が大切”
 “目出度いものは 芋でそよ 袖長く葉広く 子供あまたに”
 “羽田ではやる お穴さま 朝参りや 晩には利益さずかる”


各町会婦人部の方々で始まった輪踊りも、時間がたつにつれ近隣の踊りの好きな男性、女性陣も加わり、行灯の灯りにつつまれて子供も参加して輪が膨らんできました。


20時になり踊りの休憩時間には、穴守神社13人の雅楽部メンバーによる笙、篳篥、横笛などによる雅楽の演奏が神楽殿で演奏され、「献灯祭」を幽玄の世界へと導き、長かった夏の終わりを告げる風物詩でした。

           穴守神社雅楽部の演奏         参道山門の特大行灯(拡大)

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風景・風物詩 阿波踊り 第33回糀谷商店街阿波おどり大会

2007年08月26日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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阿波踊り
東京で阿波踊りといえば、8月最終土、日の2日間開催される高円寺阿波おどりで、約70連、約7,000人の踊り手がお囃子を奏で踊り、見物客100万人あまりの規模は、徳島に次いでの規模を誇ります。今年は第51回目の高円寺阿波おどりで、25日と26日に開催されますが、昨年の第50回阿波おどり(「風景・風物詩(B8) 夏の風物詩 高円寺阿波踊り」参照)には、8月27日の日曜日に見に行きました。

阿波踊りは、大田区でも盛んで、各地の盆踊り大会や大森町サマーフェスティバル(「大森町界隈あれこれ 大森町共栄会 2007年サマーフェスティバル」参照)などのイベントなどに必ず阿波踊りが登場します。
阿波踊りの盛んな訳は、大田区には「くすのき連」という東京都大田区役所の踊る阿呆を自負する職員とその関係者でつくる阿波踊りグループがあり、商店街のお祭りや福祉施設のイベントなど、積極的にまちに出て、地域や周辺自治体との交流を深めているのです。
くすのき連は、地元大田区で盛大に行われております糀谷商店街阿波踊り大会に参加し、商店街振興のお役に立とうと、平成2年度に発足いたしました。


糀谷商店街阿波おどり大会
糀谷商店街は、京浜急行電鉄の京急蒲田駅から支線の空港線で1つ目の糀谷駅(地図参照)の南側の環八通りを横断した南北の通りが商店街です。
糀谷商店街阿波おどりは、高円寺阿波おどりから見ると規模は小さいのですが、歴史的には古く今年で33回目を迎え、大田区の夏の風物詩として地域にすっかり定着し、人気のある阿波おどり大会です。
出場の連は、地元のちびっ子連をはじめ11連が参加して8月3、4日の午後7時半から9時半までの二日間開催されましたので、4日の土曜日に見に行きました。


阿波おどりのコース(コース図参照)は、商店街の南端からスタートして商店街通りを北上(コース図緑色線)し、環八通りを横断して踏み切りの終点までを踊りながら進行します。
阿波おどりのコースには、4ヶ所の組おどりを行う場所(第33回阿波おどり大会コース図参照)が設けられており、第1ポイントは商店街南端ゲート付近で、第2ポイントは商店街の肉の大田屋付近、第3ポイントは商店街の大会本部席が設けられているスズキ薬局前、第4ポイントは環八通りを横断した京急踏切までの麻生時計店前で、各連の演技を披露する組おどりが見られます。


おどりのコースを踊り終えた連は、商店街の横道(コース図青色線)の迂回路を通り、商店街の南端のスタート地点へと戻り、太鼓やかねのお囃子に合わせて「ヤットサー、ヤットヤット」の掛け声で、阿波踊りのコースを何度も巡回して観客に披露します。
4日の連には、西糀谷児童館ちび助連(第32回大会優勝)、ゆりかもめ連、中荻中わくわく連(第32回大会準優勝)、荻若連(第32回大会理事長賞)、子六連、くすのき連、大和新橋連、助六連(第32回大会理事長賞)などが登場しました。その他3日には、ひょっとこ連、伍楽連が登場しました。


糀谷商店街阿波踊りは、「踊る阿呆」に「見る阿呆」の日本の独特の夏祭りの風物詩で、ローカル色豊かな連の踊りは、今夏の猛暑のなかの一時を心地よく和ませてくれました。

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風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その4)

2007年07月09日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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養願寺と虚空蔵横丁
大変と古い履物店の丸屋(地図案内図2参照)から旧東海道を南に進むと、養願寺に入る「虚空蔵横丁」に出ますので、その横丁を養願寺に向います。
養願寺(品川区北品川2-3-12)は、横町の道に面してすぐ右の本堂に通じており、山門も境内と云える場所もありません。1299年の開創と伝えられており、品川有形文化財になっている、銅造阿弥陀如来立像(1192年)、木造不動三尊像(1658年)が安置されてます。本堂に続いて「虚空蔵堂」があり、「品川の虚空蔵さま」と呼ばれて親しまれてきました。
虚空蔵尊(養願寺)は、東海七福神の布袋さまで、毎年4月7日と11月7日の大祭に開帳され、毎月7の付く日には縁日が開かれます。

      養願寺本堂          本堂提灯         仏像説明板


   虚空蔵横丁説明板        虚空蔵横丁道標

一心寺
一心寺(品川区北品川2-4-18) は、養願寺と顔を合わせる形になっており、養願寺から横丁を30mほど戻った旧東海道の道を挟んだ場所にある、成田山分身の不動明王が本尊で、「品川の不動さま」として知られた寺です。
1854年(徳安政2年)に大老職の井伊直弼公が縁起により、江戸台場の中心である品川宿において"鎮護日本" 、 "開国条約"、"宿場町民の繁栄安泰"の願いと霊験の悟りを元に開山され、町民代表によって建立されたと云われております。本堂は1884年(明治17年)に火事焼失しましたが、再建されて古くから延命・商売の神様と信仰されておりました。

      一心寺               一心寺本堂             一心寺由来

以前は、補陀落山 海晏寺(品川区南品川5-16-22)が江戸三十三観音札所でしたが、平成4年から一心寺が札所となりました。

                江戸三十三観音札所

竹屋横町と正徳寺
一心寺をから南に進むとすぐ「竹屋横町」で、目黒川本流(現在のなぎさ通り)に至る横町で、1800年ごろ品川宿を描いた『東海道分間延絵図』に記載がありますが、地名の由来については不明です。

   竹屋横町説明版           正徳寺            正徳寺山門          

正徳寺(品川区北品川2-7-26)には、竹屋横町から斜め先の参道を進むと山門で、入ると本堂が目に付き、境内には大きなイチョウの木があります。
浄土真宗・大谷派で1296年に僧 春応が開創したと伝えられており、幕末の住職の日記55册が保存されております。

東海道品川宿本陣跡
正徳寺参道を旧東海道に戻り、南に進むと東海道品川宿跡の聖跡公園です。

  東海道品川宿本陣跡説明版  品川宿本陣跡石標   本陣跡・聖跡公園説明版   

品川宿本陣跡(品川区北品川2-7-21)は、江戸時代に大名が宿泊する本陣を置いたところです。
幕府は、1635年(寛永12年)の武家諸法度で参勤交代を義務づけました。毎年下向する勅使・院使、あるいは将軍名代の大名や高家に、公用の旅行者などが加わり東海道の各宿を通ったので、品川宿は江戸に一番近い宿場なので、通行量が最も多かったところです。

・聖跡公園
1868年(慶応4年)に江戸を東京と改称する詔が出て、江戸は東京と定められ、改元が行われて明治元年となりました。改元により、天皇の京都から東京への行幸の第一回目が行なわれました。

 聖跡公園入り口     聖跡公園     御聖蹟説明版 

総勢3300人余りの大行列は、9月20日に京都を出発し、10月12日に川崎宿で昼食をとり、大森梅屋敷(「大森町界隈あれこれ 大森町風景 梅屋敷公園」参照)で休息後、午後3時頃に品川宿本陣に到着し、入り口に「行在所」と書いた高札を建てて宿泊しました。
翌年、天皇は再び東幸し、3月27日に品川宿に宿泊、東京城を改めて皇城と定め、東京遷都が行なわれ、2回の天皇の東幸によって、品川宿は周辺の村々とともに新しい時代の夜明けを実感しました。(品川歴史館から引用)

聖跡公園を後にして、北馬場通りを西に進み第一京浜国道に突き当たると、対面は大神輿の渡御が行われた品川神社(「風景・風物詩 天王祭 品川神社例祭(その1~2)参照」)です。
品川神社の「品川富士」は、1869年(明治2年)に品川宿内の富士信仰の講が築いたもので、江戸時代は品川沖の江戸湾から房州半島を一望する景勝地だったのです。
品川神社の前は、京浜急行電鉄の「新馬場駅」の北馬場口です。新馬場駅は、昔「北馬場駅」と「南馬場駅」の2つの駅を合体したものです。
旧の南馬場駅から青物横町にかけての、目黒川南岸は「南品川宿」として栄えておりました。第2編として、南品川宿編の掲載を予定しております。

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風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その3)

2007年07月07日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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法善寺
品海公園(地図案内図参照)から旧東海道を下ると直ぐ法善寺の参道で、参道を進むと法善寺正門脇に「品川小学校発祥之地」の石碑が建っています。
品川区で一番古い小学校の「 品川小学校」は、1874年(明治7年)に法禅寺で、それまでの私塾を引き継ぐ形で開かれました。 開校当時の名前は「第二中学区第六番小学品川学校」でした。

     法善寺正門      品川小学校発祥の石碑     法善寺本堂

法善寺(品川区北品川2-2-14)は、1384年の開創と云われ、本堂の等身大の本尊「阿弥陀如来坐像」は1705年(宝永2年)の安阿弥末流大仏師、大部の作であり、造高29センチの「法然上人坐像」は、室町時代から鎌倉時代の作者不明の像で品川区指定有形文化財です。

また、文化財の縦180、横157.5センチの釈迦誕生の絵「紙本着色釈尊誕生変相図」は神田宗庭貞信(1765~1800)の作で、神江戸期を通じ上野寛永寺の絵画役を務めた絵所で、貞信はその七世です。縦228.5、横127.5センチの「紙本着色地獄変相図」は、地獄での亡者の様相と阿弥陀如来の救済の情景を描いた絵で、品川宿で旅籠屋を営んでいた田村屋清七の筆になるもので、1828年(文政11年)に寄進されたもので品川区指定有形文化財です。
本堂の右には、結婚50周年を記念に奉納の布袋尊の石像(トップ写真)が鎮座してます。

・流民叢塚碑
1838年(天保4年)の天保大飢饉では多くの餓死者を出し、品川宿には農村などから流浪してくる者が多く、病や飢餓でたおれる人を法禅寺と海蔵寺に葬られました。
「流民叢塚碑」は、なくなった人たちを祀る供養塔であり、初めは円墳状の塚で、1871年(明治4年)に塚の上に、流民叢塚碑が立てられました。1934年(昭和9年)の境内整備の折、コンクリート製の納骨堂が建てられ、その上に碑が置かれました。

   流民叢塚碑説明板     流民叢塚碑     法善寺板碑説明板      古石仏

・法禅寺板碑(付 法禅寺遺墳碑)
板碑は、鎌倉時代から戦国時代にかけて造られた石造の供養塔で、関東を中心に広く分布しております。品川台場の築造の折りに、品川御殿山から宝篋印塔・五輪塔とともに出土したものの一部で、破片を含めて総数121基あります。
遺墳碑はその時の由来を記しており、最も古い板碑は1308年(徳治3年)で、最も新しいのは1490年(延徳2年)の銘が確認されています。

  法善寺末社         杉森稲荷鳥居     杉森稲荷社        

・大イチョウ
本堂の左手に品川区指定天然記念物の幹囲り3.4m、高さ25mで、推定樹齢400年の雌樹の大イチョウがあります。

    法善寺とイチョウ     樹齢400のイチョウ    法善寺のイチョウ説明板  

溜屋横丁と丸屋
溜屋横町は、法禅寺の斜め前から海岸へ出る横町で、利田新地へ渡る鳥海橋(後の品海橋)に海岸線で通じる横町です。

    溜屋横町説明板         丸屋丸屋履物店

溜屋横町から約100mくらいの旧東海道の右側に、大変歴史が古い丸屋履物店があります。
趣味の履物の丸屋(品川区北品川2-3-7)は、1865年(慶応元年)からの老舗で、現在のお店の建物は何時ごろ建てたのかは分からないほど古く、下駄や草履などの和物の履物を売っております。一人がやっと通れる路地を挟んだ隣のお店も、丸屋に劣らず大変古い建物のお店で、北品川の旧東海道沿いには古い建物のお店がかなり見かけられ、昔の感触が味わえます。

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風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その2)

2007年07月05日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007 京急普通電車の旅① 北品川・新馬場編(拡大)

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利田(かがた)神社と鯨塚
北品川宿(地図案内図参照)の台場横町を八ッ山通りへ進むと、北品川から立会川にかけての町並みは古い家を、あちこちで見かけます。陸続きの御殿山下台場に下って行く横町を、台場横町と呼んでいます。

   台場横丁説明板        横町の古い家1           横町の古い家2 

八ッ山通りに面した品川浦公園に接して利田神社があります。
利田神社(品川区北品川1-7-17)は、1626年(寛永3年)に、東海寺の沢庵和尚が弁財天を勧請したのが始まりといわれており、洲崎の弁財天と呼ばれて漁師町の守護神として祀られていました。歌川広重の「名所江戸百景」に、弁天堂が描かれております。


       利田神社              神社正門          神社本殿

利田神社にある鯨塚は、1798年(寛政10年)に江戸・品川沖に迷い込んだ体長17mほどの鯨を、品川州崎の漁師たちが総出で捕らえ、骨を埋めて葬って石碑が建てられておりす。当時の騒動を伝えた「かわら版」の写しが残されており、江戸市中で評判となり見物人が押しかけたそうです。時の将軍徳川家斉にも、芝の浜御殿(現在の浜離宮庭園)の沖まで鯨を曳いて行き、将軍に供覧したと云われております。

    利田神社の鯨塚          利田新地説明板    品川浦公園に接する船だまり

御殿山下台場(砲台)跡
御殿山下台場(砲台)跡へは、利田神社の前の路地を海寄りに進みますと台場小学校があり、この小学校の敷地を含めた陸続きの五角形の地形が砲台跡です。小学校の正門の脇に、台場跡から見つかった石垣を使って記念碑が建てられました。石垣の上に建つ灯台は、1870年(明治3年)に第二台場に造られた、日本で3番目の洋式灯台「品川灯台」を模したものです。実物の品川灯台は、重要文化財として愛知県犬山市の明治村に移設されています。

御殿山下砲台は、1853年(嘉永6年)に米国のペリーが4隻の黒船を率い、日本に開国を求め浦賀に来ましたので、江戸を守るため徳川幕府は品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を作ることにしました。このうち、五つの台場は完成しましたが、残りは着工にも至りませんでしたので、陸続きの五角形の砲台を造り、これが御殿山下砲台です。
現在は、周囲が埋め立てられ姿を消しましたが、台場の輪郭は道として残りましたので、位置と形を知ることができます。台場小学校の敷地は、台場の半分程の面積を占めてます。

  御殿山下砲台跡説明板   砲台跡記念碑灯台      台場小学校

・黒門横町
御殿山下砲台跡を後にして、もと来た道を八ツ山通りに戻り台場横丁の南側に幅の狭い名も無い路地がありましたので、そこを突き抜けて旧東海道に戻りました。
この路地の交差点と台場横丁の交差点との中間点に第一京浜国道に抜ける横町があります。
この通りは、旧東海道から東海寺に至る道で「東海寺大門通り」と呼んでいました。寺の入口に黒塗りの大門があったことから「黒門横町」と呼ばれるようになりました。

品海公園「品川宿の松」
北品川宿まち歩きの次の行き先の法善寺に向う途中左手の品海公園(品川区北品川1-30)に、「品川宿 日本橋より二里・川崎宿へ二里半」の石標が建っており、日本橋から二里にあたります。
品川宿は東海道五十三次の最初の宿場町であり、旅人は品川宿を経由して西を目指し、また家路についた事から「東海道の玄関口」として栄え、宿内の家屋は1600軒、人口7000人の規模で賑わっていました。
2000年に品海公園を改修した記念に品川宿から寄付された松を、「街道松」として植樹しました。

    品川宿説明板   日本橋から二里の石標

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風景・風物詩 旧東海道品川宿 タイムスリップまち歩き北品川宿(その1)

2007年07月03日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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北品川宿
大神輿が渡御(「風景・風物詩 天王祭 品川神社例祭(その1、2)」)した第一京浜国道沿いの品川神社からおよそ200m海岸よりに、並行して旧東海道が通っています。
京浜急行電鉄北品川駅から新馬場を経て青物横丁に至る旧東海道の周辺一帯は、江戸時代には日本橋に始まる東海道五十三次の第一番目の宿場町で、江戸の町人たちはこの品川宿で知人と旅の別れを惜しんだ昔を偲んで、先ずは北品川から新馬場までの北品川宿(地図案内図参照)を6月30日に歩いてみました。

北品川駅は第一京浜国道に接しており、南に進み踏切を渡る通りは「清水横丁」で、その先が江戸時代から同じ道幅の旧東海道につながっています。このあたりの町名や古いお社が路地に佇むのをみると江戸そのもので、百軒の旅籠が集まる宿場町へのタイムスリップです。
清水横丁の奥には『江戸名所図会』に磯の清水として紹介される名水の井戸があったと伝えられています。
・土蔵相模跡
旧東海道に突きあたると「土蔵相模跡」の石碑があります。この土蔵相模の大妓楼で、1862年(文久2年)に高杉晋作、伊東博文らが密議して英国公使館の焼き打ちを実行して幕末の歴史の舞台となったところです。

土蔵相模跡石碑  土蔵相模跡説明板     土蔵相模のあった場所

・問答河岸の碑
旧東海道を左折して品川方向に進むと、土・日・祝日の昼間のみ「品川名物堂」(あぶりや連)を借りて開いているしながわ観光協会案内所があります。ここでは、品川宿に関する資料がおいてあり、マップや刊行物が手に入ります。この案内所の辻向かいに「問答河岸の碑」があり、旧東海道のすぐ先が海であった時代に、徳川家光と沢庵が禅問答をしたところと云われています。

品川宿入り口石票 問等河岸跡石碑

・品川浦
問答河岸の碑の横丁の路地を進み八ツ山通りにでると、屋形船や釣り船のふなだまりの品川浦で乗船場が沢山あり、以前は漁師まちとして水揚げを誇り栄えていたところです。この水辺は、かっての目黒川の河口であり、荏原神社の北側を流れていたと云われます。

 品川浦ふなだまり拡大           拡大              拡大

・善福寺(北品川1-28-9)
八ツ山通りから横丁の路地をぬけ、再び旧東海道に入り左折すると他の横丁より広い大横丁にかかります。大横丁をすぎると、右手に善福寺の参道がみえるので善福寺の山門を潜る。この寺の始まりは1294年と古く、宗派は一遍上人がひらいた時宗寺院です。

    山門           本堂       本堂竜の彫り物      本堂こて絵 

本堂正面には、伊豆長八の作の漆喰壁に施された鏝絵で、見事な竜が描かれている。長八は、幕末から明治初期に活躍した左官工であり、1815年(文化12年)伊豆国松崎村明地に生まれ、生来の手先きの器用さから同村の左官棟梁関仁助のもとに弟子入りし、19才のとき江戸へ出て絵を狩野派の喜多武清に学びました。
かたわら彫塑の技を修めてこれを左官の業に応用し、漆喰を以て絵を画き或は彫塑して華麗な色彩を施し、新機軸をひらいてついに長八独特の芸術が完成しました。

   こて絵その1      こて絵その2    石造念仏供養塔  石造念仏供養塔説明板          

墓地の入口には、1658年(万治元年)造立の念仏供養塔があります。供養等は、笠塔婆型の塔で、当時の住職の想阿の指導のもとに、念仏講の人々が死後の往生菩薩を生前に祈り、供養などの善行を積むことを意識して造立したもので、江戸初期の民間信仰の資料として貴重なものです。
善福寺を拝観して、山門を旧東海道に戻り、台場横丁を通り八ッ山通り際の利田(かがた)神社に向かいました。

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風景・風物詩 天王祭 品川神社例祭 (その2)

2007年06月23日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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品川神社本殿
浅間神社付近から境内には、沢山の露天が出ており、そこから鳥居を二つ潜ると正面が品川神社本殿です。本殿直前にある石造鳥居は、1648年(慶安元年)に三代将軍徳川家光公の側近の堀田正盛の奉納で、上野東照宮に次いで都内では二番目に古いもので、石造水船(水盤)と共に奉納され品川区指定の有形文化財(建造物)です。

  石造鳥居          品川神社本殿     

現在の社殿は、大東亜戦争では戦火を免れましたが、老朽化により1964年(昭和39年)に新築され、境内には阿那稲荷社上社・下社、御嶽神社、浅間神社、道祖神社(石祠)等の末社と神楽殿があります。末社の浅間神社の参道に置かれている石造燈篭(写真再掲)は、慶安元年に亀岡政重(石工)と後藤光利(装剣具彫刻工)が寄進したもので、品川区指定の有形文化財(建造物)です。

   阿那稲荷社


                  石造水船(水盤)   宝物殿正面安置が葵神輿

御由緒
1187年(文治3年)に、源頼朝公が安房国洲崎明神の「天比理乃命」をお迎えして、海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。
鎌倉時代末期の1319年(元応元年)に、二階堂道蘊公が「宇賀之売命(お稲荷様)」を、室町時代中期の1478年(文明10年)に、太田道灌公が「素盞鳴尊(天王様)」をそれぞれお祀りしました。
1600年(慶長5年)に、徳川家康公が関が原の戦いの出陣の際に参拝して戦勝を祈願され、その後の祈願成就の御礼に「天下一嘗の面」などを奉納されました。
1637年(寛永14年)に、三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され、当社が鎮守と定められ「御修復所」となり、1694年(元禄7年)、1850年(嘉永3年)と二度の社殿焼失の際には、時の将軍の命により再建が行われる等、徳川家の庇護を受けました。
1868年(明治元年)には、明治天皇が新都東京の安寧と国家の繁栄を祈願されるため、当社を含む十社が「准勅祭神社」と定められました。

宝物殿
本殿の左に宝物殿があり、例大祭、正月、ゴールデンウィーク、11月の土・日・祝日、神社の祭典日に入場無料で公開され、葵の神輿や書軸、文書、面などの文化財が展示されております。

葵神輿
嘉永年間に徳川家光公の奉納で、江戸時代初期に作られた貴重な神輿で屋上に鳳凰を置き、胴の前部が唐戸で他の三面が牡丹唐草文毛彫の金銅板で飾り、屋根は立花文の型押しの金銅板で覆い、三葉葵の紋を四方に打ち出した神輿で、品川区指定の有形文化財(工芸品)です。明治時代に、勝海舟が「葵神輿」と名付けました。
宝物殿には、葵神輿の台棒金具が公開展示されています。

神輿の渡御の準備
神社をお参りし、宝物殿を見学してから境内の北側にある坂の参道を降ると、竜の彫り物の鳥居の左右の広場で、9日に行う町内神輿の連合渡御の惣町神輿と、10日に行われる宮神輿連合渡御の大・中神輿の準備をしておりました。

                        大神輿

皇室に御慶事のあった年に渡御する「大神輿(通称・千貫神輿)」は、1884年(明治17年)の奉納の神輿で、例年に渡御する「中神輿」は1924年(大正13年)に奉納された神輿です。
大・中の神輿の台座には穴が無く、担ぎ棒の台座下部には凹部が付けられていて、鳳凰と蕨手と担ぎ棒を太い綱で締め上げて固定します。

       中神輿          連合渡御の惣町神輿

渡御は、神輿の脇に大拍子を付け「品川拍子」を打ちながら行いますので、台座の下の縦棒は二本のみで、担ぎ手は前後に付けられた横棒を担ぎます。
渡御の神輿には、徳川家康公の奉納の「天下一嘗の面」の御神面を屋根に付け、「品川拍子」の拍子によって、お神輿の進行に緩急をつけたり、上げ下ろしが行われます。
・天下一嘗の面(国常立尊面・赤面さま)
徳川家康公の奉納で、室町時代の中期の作とみられ、江戸時代中頃の疫病が流行した時、「この面を神輿に付け町々を廻れば苦しみから救うぞ」との神様のお告げがあり、六月の例大祭にこの面をお神輿につけて渡御し、無病息災・幸福招来を祈願します。
・品川拍子
品川拍子は、「大拍子」と呼ばれる締め太鼓と、篠笛によって奏されます。起源は江戸時代初期の神輿奉納の時と伝えられており、現在伝承のものは明治時代中頃に、品川神社太太神楽と祭り囃子を加味して作曲したもので、「品川拍子保存笛睦会」会員により伝承されており、品川区指定の無形民族文化財(風俗習慣)です。

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風景・風物詩 天王祭 品川神社例祭(その1)

2007年06月21日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007 写真拡大

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大・中神輿の渡御
品川神社の天王祭は、6月8~10日に行われました。今年の例祭は、秋篠宮悠仁親王ご誕生を祝い6年振りに本社大神輿渡御をし、毎年例祭で担いでる中神輿と揃っての合同渡御はめったに見られないお祭りにあたりました。

     大神輿説明拡大         中神輿説明拡大

北の天王祭と南の天王祭
品川神社(品川区北品川3-7-15 航空写真参照)は、京浜急行高架の新馬場駅を品川方向に進むとすぐ、第一京浜国道沿いの小高いところに鎮座しており、毎日の通勤電車の中から何時も眺めて通る見慣れた神社なのです。神社の正面には、53段の急な石段と左手に富士塚が目につきます。

   品川神社正面参道    急な石段の参道   神輿渡御が通る石段

京急の新馬場駅(1976年高架統合)は、高架になる前は北馬場駅と南馬場駅とで独立しておりました。
東海道五十三次第一の宿場として栄えた品川宿は、北品川宿と南品川宿に分かれておりました。現在、荏原神社(品川区北品川2-30-28)の南を流れる目黒川は、昔は神社の北側を流れており、この目黒川を挟んで、北と南で二分する一大勢力ともいえるそれぞれの地元の鎮守として信仰を集めた品川神社と荏原神社の例大祭が、「北の天王祭」(6月第2週)と「南の天王祭」(6月第1週)が金・土・日曜日にかけて盛大に行われます。

品川神社
品川神社は、何十年と何時も眺めて見慣れた神社なのですが、実は一度もお参りしたことがありません。品川神社の例祭には「おいらん道中」が見られることで知られており、何年かぶりの大・中神輿の渡御を楽しみにしておりましたが、残念なことに当日急な用事ができ6月9日の午前中だけのとんぼ帰りで品川神社をお参りし、お祭りのさわりだけに触れてきました。
品川神社のお参りは、柱に竜が巻きついた彫り物の鳥居を潜り、急な石段を登ると最初の踊り場の左手に、富士塚への登山道があります。富士塚に登ると、富士山に登ったのと同じご利益があるとのことで、登山してみることにしました。

富士塚
富士塚は、品川富士とも呼ばれ、富士山を信仰する富士講(北品川の丸嘉講)の人々が、富士山を遥拝する場所として1869年(明治2年)に造った人造の山です。その後、1922年(大正11年)に、第一京浜国道の建設のため西に数十メートル移動して、現在の場所に再建されたものです。
現在も毎年7月1日に「山開き行事」を行い、丸嘉講の人々は塚のふもとの浅間神社に、行衣の白装束で集まり、富士塚に登山して遥拝を行い、この富士塚は品川区指定の有形民族文化財であり、富士塚山開きは品川区指定の無形民族文化財に登録されてます。

  富士塚登山口      一合目石碑      登山道の石碑      四合目石碑    

今まで各社の富士講に登りましたが、品川富士は最も大きくて石碑が沢山建てられており、大変立派な富士山でした。頂上は、東面は海岸線でしたので、昔は遮るものが無く東京湾の遠望は絶景であったことが伺えます。現在では、天王州のビル群が一望です。

      五合目        六合目石碑   品川富士頂上からの展望

富士塚には、裏側にも登山道があり、そこを下山すると末社の富士浅間神社です。浅間神社を進むと品川神社境内の参道に繋がっています。

   富士塚裏の下山道       富士浅間神社      浅間神社から品川神社境内へ    

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風景・風物詩(B16) 花見 サクラ前線に合わせて花見のハシゴ

2007年04月03日 | 風景・風物詩
kan-haru blog 2007

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東京のサクラ開花
今年の東京のサクラ開花予報は、3月20日で満開が29日と報じられていました。
しかし、今年の東京地方の天気は安定せず、29日の夜から朝にかけて雨がふり、日中からは晴れましたが、30日から1日にかけての日中は薄曇、夜間はところによりにわか雨模様で、特に1日は28度を越す夏日かと思えば、翌2日は10度以上も気温が乱高下するという落ち着いて花見ができる陽気ではありませんでした。

それでも桜前線はどんどん北上し、東京のサクラも満開に咲き誇っておりましたが、3日は肌寒い雨模様で花が散り始めてきました。このように今年の東京は、天気が安定しないこともあり、昨年の京都日帰り桜見物(「小さな旅(4) 京都桜・日帰り花見 その1~4」参照)のような花見をしませんでしたが、その代わり都内を出歩いた折に何箇所かの桜の在る場所に立寄り、通りすがりの花の観賞をしてきました。

紫紺館 フォレタス椿山荘

お茶の水に出向いた折、丁度昼時でしたので完成間もない明大交友会紫紺館(地図参照)内のレストランのフォレタス椿山荘に寄ってみました。レストランは、5階にありゴージャスな設計のエントランスホールからエレベータで上ると、さすがは椿山荘経営の落ち着いた雰囲気のお店であり、駿河台キャンパスを望むテーブルで先ずは花より団子をと、一流の味のランチメニューを楽しみ、近くのお茶の水小学校の桜を観てきました。

通りすがりの花の観賞
・お茶の水小学校の桜
明治大学の裏の錦華公園と接した、夏目漱石が学んだお茶の水小学校(千代田区猿楽町1-1-1 地図参照)(「イベント(11) 展覧会 お茶の水小学校展覧会(その1~4)」参照)の校庭に面した道路沿いの桜が、31日にはほぼ満開でした。


・開桜小学校の桜
大森町の内川に沿ってある開桜小学校(大田区大森西2-26-3 地図参照)は、私が通った大森第一小学校と共に大森では最も古く開校した兄弟校で、両校は親子で通学した縁のある学校です。
開桜小学校では、3月31日に第3回「花まつり」が行なわれました。花まつりは、地域教育連絡協議会委員が実行委員となり、地域の方や保護者が集まり、校庭で桜と花壇のチューリップを阿波踊り、太鼓、お囃子、お神輿などの催しと模擬店を出して子供達とふれあいを深める催しで、人気のある地域交流ですが都合が悪く参加できませんでした。
開桜小学校の桜は、校庭南側の内川沿いと東側校舎の道路沿いに植えられておりますが、30日にはほぼ満開でした。


・大森西交通公園の桜
大森西交通公園(大田区大森西3-4-19 地図参照)は、大森町のほぼ中央にあり京急大森町駅から徒歩5分ほどの距離で、公園の殆どがサイクリングコースになっており、横断歩道があり信号機や警報機を設置し、小学生以下の児童に自転車、ゴーカート、豆自動車、三輪車等を貸し出して遊びながら交通規則を学べるように作られております。
公園の西面と南面には桜が植えられており、地元地域の町会住民などがお花見の会を開き、人気のスポットであり、30日には見頃でした。


・増上寺近辺の桜
増上寺(港区芝公園4-7-35 地図参照)は、浄土宗 大本山(ご本尊 阿弥陀如来)で三縁山広度院増上寺が正式の呼称です。江戸時代の初め源誉存応が徳川家康の帰依を受け、大伽藍が造営され以後徳川家の菩提寺となりました。戦災によって三門・経蔵・黒門は消失を免れましたが、霊廟は焼失し、1974年(昭和49年)に大本堂などを整備して完成しました。


増上寺の近辺には、御成門交差点付近には芝公園があり、大門付近には芝大神宮(1005年(寛弘2年)創建、「芝明神だらだら祭り」として知られている)(地図参照)があり、近辺の桜は30日には見頃でした。

        御成門付近の桜              芝大明神の桜

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風景・風物詩(B15) 初詣風物詩 穴守稲荷神社

2007年01月11日 | 風景・風物詩
穴守稲荷(東京都大田区羽田5-2-7)は、川崎大師と多摩川を挟んで対岸の東京国際空港の近くに鎮座しております。7日に川崎大師に初詣の帰りがてらに思いたち、10数年振りに穴守稲荷(地図参照)に足を伸ばしてみました。

穴守稲荷の歴史
穴守稲荷は昔、1804年(文化元年)頃、現在の東京国際空港内の開墾地であった鈴木新田の堤防上の一祠に風浪の害をなくすために稲荷大神を祀ったのが草創であると社史に記されております。
稲荷大神の「稲荷」は「稲実る・稲生る」の意味から、大自然より与えられた生産活動と希望・発展につながり、豊受姫命を祀った穴守稲荷は、商売繁盛・家内安全・心願成就・病気平癒・交通安全・厄除・開運祈祷などがあらかたでした。
1887年(明治20年)頃から参拝客が増えだして、明治27年には和泉茂八が温泉を発見し料亭や旅館が門前に進出したため歓楽地となりました。

1902年(明治35年)には、京浜電車の穴守線(現京急空港線)が蒲田(現京急蒲田)駅から穴守駅(海老取川の手前)まで開通し、参道にはおびただしい数の鳥居と茶店、土産物店などが立ち並び、1913年(大正2年)には穴守駅を海老取川を渡り伸延して穴守稲荷に達して、その発展ぶりは目をみはるほどであったそうです。
穴守稲荷神社は、夏目漱石の「我輩は猫である」にも登場し、「序でだから御三の顔を一寸紹介するが、それはそれはふくれたものである。この間さる人が穴守稲荷から河豚の提灯をみやげに持って来てくれたが、丁度あの河豚提灯の様にふくれている。」。当時は河豚の提灯がお土産だった様です。

戦後の穴守稲荷神社
1945年(昭和20年)8月の太平洋戦争の終戦により、当時の国営(逓信省管轄)民間航空専用空港東京飛行場が、駐留アメリカ陸軍の管理下に置かれ、ハネダ・アーミー・エアベース(羽田陸軍航空基地)と呼ばれました。同年に行われたアメリカ軍による拡張工事の際は、周辺住人が48時間以内の強制退去を命じられ、言葉通り着の身着のままで追い出されたといわれます。これにより、空港拡張地にあった穴守稲荷も、48時間以内の強制退去を命ぜられ、いったん羽田神社に合祀されたが同年9月に地元崇敬者有志により境内地700坪が寄進され、1948年(昭和23年)仮社殿が復興し、1965 年(昭和40年)には再建されました。

しかし、空港敷地内にあった昭和4年に立てられた、穴守稲荷参道の三の鳥居は、移動させようとすると、ブルトーザーが故障したり、作業員が怪我をしたりして、不可解な事故が続いたため、放置されることになり残されました。
立退きから50年以上経った1998年秋には、赤い鳥居はB滑走路の建設により空港の敷地から弁天橋の近くに移設されました。

穴守稲荷初詣り
川崎大師初詣り後、川崎大師駅前でタクシーを拾い穴守稲荷へと向かいました。穴守(地図参照)には、国道409号を東進し産業道路に出て、左折北進し大師橋を渡り萩中公園入り口交差点で右折し、京急穴守稲荷駅前通りから2つ目の一方通行の通りを左折すると穴守稲荷の東門です。
タクシーを降りて、豊受姫命を祀った本殿を参詣して、お稲荷さんの境内を廻って見ました。境内の中央に立つと正面に拝殿があり、稲荷社であるので狛犬ではなく、狐の神狐像で左が父親狐で、右には子狐をかばう母親狐で1936年(昭和11年)に深川大盛講の奉献のものです。本殿は拝殿の背後にあり稲荷大神を祀ってあります。

拝殿の左には社務所があり、ご朱印を戴いてきました。


本殿右には奥之宮があり千本鳥居をくぐると「お穴さま」とも呼ばれる奥之宮です。穴守稲荷では絵馬と同じように願い事があるときは、鳥居を寄進しました。
古くから伝わる羽田節の一節に、「羽田ではやる お穴さま 朝参り 晩には 利益授かる」とあり、「花柳界、遊郭」の人々に強く信仰され、移転前の穴守稲荷神社には、万を超える鳥居が寄進され、大変な盛況であったといわれています。

・・・奥之宮の千本鳥居(写真拡大)・・・・・・・・奥之宮社殿・・・・・・・お穴さま(写真拡大)

ここの「お砂」を持ち帰り敷地内や玄関に撒いたり、身につけると所願いがかなうと古くから信仰を集めており、移転前には境内近くの海砂を袋に詰め、「お砂様」とか「福砂」と称して売られており、持ち帰って庭先に蒔くと御利益があると信じられていたそうです。
奥之宮の右手奥には、築山があり「築山稲荷」が祀られております。
築山の手前には、縦に様々なご利益を持つたお稲荷様がならんでおり、奥から順に「稲荷大明神」、「出世稲荷社」、「海運稲荷」とその右側には、昔競馬場があった名乗りか「必勝稲荷社」があります。

・・・・・築山(写真拡大)・・・・・・・・・・・・築山稲荷・・・・・・・・・・稲荷大明神(写真拡大)


出世稲荷社(写真拡大)・・海運稲荷(写真拡大)・・・・・・・・必勝稲荷社(写真拡大)

境内中央の背後側には、神楽殿があり節分、初午、例大祭に開放しております。右手には手水舎があります。
久振りの穴守稲荷をお参りして、戦前の幼稚園の頃父親に連れられて穴守稲荷に来た時の微かな想い出として、当時は大きい築山に上ったことと、参道は今の江ノ島のようにさざえのつぼ焼きなどの飲食店などで賑わっていたことなどの遠い昔の記憶があります。
昔の穴守稲荷神社の賑わいの風情については、穴守神社のHPの中の「戦前の穴守稲荷神社」のページに、戦前の穴守神社模型、明治頃の境内全景図、昭和12年頃の境内周辺地図、絵葉書(明治~大正頃)12葉などの貴重な当時の資料が掲載されておりますので、ご参照ください。
また、穴守稲荷神社関連ブログ記事として、明治40年頃東京の山崎染物店の主人が、草津へ湯治に通い、病気が平癒した記念に信仰していた、穴守稲荷を分霊し祀ったと記事(「旅ものがたり(3) 同窓旧友たちの旅 草津温泉(その2) 」)も参照して見てください。

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風景・風物詩(B14) 初詣風物詩 川崎大師平間寺

2007年01月08日 | 風景・風物詩
川崎大師
年中行事である初詣には、毎年川崎大師を欠かしたことはありません。川崎大師(大本山金剛山金乗院平間寺)は、大森町からさほどの距離でなく、初参りも全国3位の人気があり、しかも、宗派が菩提樹と同じ真言宗智山派である外、方向が恵方に当たります。
例年通り混雑する3が日を避けて、今年は1月7日に参詣してきました。しかし、7日は3連休の中日で、連休の初日が雨にたたられこともあり、昼近くには参詣者の出足は高まり、午後になると相当に混み入ってきました。

川崎大師は、昨年の7月19日から23日に第11回目の風鈴市が開催(「風景・風物詩(B3) 夏の風物詩 川崎大師風鈴市」参照)され、定着の人気が出てきました。「風鈴市」にも記載しましたが、全国に真言密教を広められた弘法大師空海上人が祀られており、総本山は京都東山七条にある智積院です。
川崎大師のご本尊弘法大師さまの教えは、わたくしたち一人一人の人間が現世の迷いから「心の目」を開き、現実生活の中に目覚めた人間 となることを説かれた教えであり、災厄をことごとく消除する厄除大師として、霊験あらたかなことで有名であり、家族は皆お札とお守りを受けております。

皆んな、今年も良い年でありますように!

参詣路線の大師線
川崎大師の参詣は、京急川崎駅から参詣路線の大師線に乗り換えて川崎大師駅に降りたのは11時半頃でした。
大師線のルーツは、当初1899年(明治32年)に川崎大師への参詣路線として、旧東海道の川崎側の六郷橋下流に設けられた通称の六郷橋駅(当初川崎駅と称していた)から大師(現川崎大師)駅までの2.0kmが建設され開業しました。現京急川崎駅には、1902年(明治35年)に六郷橋(改名)駅から旧東海道上を単線の併用軌道で、府中街道(現国道409号)との交差点付近に下新宿駅を設け、さらにそこからは専用軌道の複線により、川崎(現京急川崎)駅まで延長され、1929年に現在の線路に付け替えられた、関東で始めての電車運行による参詣路線として歴史があります。

表参道から大山門へ
川崎大師駅を降りて川崎大師までは、大師駅前の厄除け門から表参道を通り、大師入口門を右折するとすぐ仲見世門があります。普段は、右折して仲見世門内の仲見世通りを直進すると、大師境内の入り口への大山門となりますが、正月の3が日や7日のように参詣客の人出が予想される時には、大山門から仲見世門までの仲見世通りは参詣を終えた帰路の人だけしか通れない一方通行の交通規制(地図参照)が掛けられます。

一方通行の交通規制が掛けられと、参詣者は大師入口門を右折した後、仲見世通りを通らずに直進し、仲見世通りの先の並行した一方通行用規制道路で右折し突き当たった所が不動門です。到着した11時半頃には、不動門前付近が通行規制の行列の最後尾でした。
不動門前を右折してから、何度も小刻みに進みながら大山門から大本堂に入り参詣が出来たのは、12時を廻っておりました。規制で何回も止められたお蔭で、本堂前の小さな出店で「宝さらえ」という縁起物を見ることができました。


大師ご本尊像のお参りを済ませ、例年通りに本堂右手のお札・お守り授け所で、行列を作り厄除けお札と家族に身代わりお守りを求めました。昨年購入したご利益をもたらした、古いお札・お守りとだるまを、納札堂に収めました。納札堂付近には、清瀧権現堂聖徳太子堂があり、受験期を前にして神頼みの信者が行列して参拝しておりました。


仲見世土産店を覗く
初詣を済ませてから門前でおそばの軽い昼食を取り、これまた例年通り門前の住吉店(店内)で久寿餅と仲見世の土産店でだるまを買い、昨年新規改築した仲見世角の松屋総本店で さらし飴咳止め飴を買いました。


帰路についたのは、13時を過ぎていましたが、交通規制の参詣者の最後尾は表参道の大師入口門の手前まで続き(大山門前の人出)、表参道の人出もかなりの混雑をしてきました。今年もまたお蔭様で、正月の風物詩である川崎大師の初参りを過ごせました。

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