味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

天を怨まず、人をとがめず。

2014-05-16 16:02:43 | ブログ

タイトル----天を怨まず、人をとがめず。第1967号 26.05.16(金)

.

 天を怨まず、人をとがめず。『論語』

.

 事、志とちがい、世にいれられないけれども、わたしはなすべきことをしているのだから、天をうらみもしないし、人をとがめもしない。

.

 【コメント】

.

 このような境地に達することができれば最高ではないでしょうか。何事も、人の所為ではなく、自らが歩いてきた結果の所産であるということです。

.

 天風師を学んで後、運が悪いのは自分が蒔いた種が悪いのだ、誠心誠意すれば天が認めてくれるのだと思うようになりました。

.

 昨夜は子どもたちに75歳の老人青年のフットワークを見せました。我ながらよく訓練をしてきたものだと思うことでした。

.

 蚊が泣くような小さな声で返事をする子どもに、大きな声で返事をしなさいと厳しく諭してあげました。

.

 大人になってから、仕事をする際、危険が伴うような場合、先輩の主任とか責任者は、こういうことが危ないぞと教えてくれます。その時、蚊の泣くような小さな返事をしても、注意した人には聞こえないのです。

 折角注意したのに、聞こえているのか、聞こえていないのか、それが分からないのです。大きな声で返事をすれば、俺が言ったことは聞こえているのだなと安心するのです。

 それが安全作業にもつながるし、生命の安全にもつながるのです。 

.

 ----------------------------

.

 『天保おすわり事件』(第23回)

.

 一 一

.

 轉封の臺命は、當の酒井家にさへ、青天の霹靂であった。況や三百諸侯に於てをやだ。

 おそらく事前に之を知って居たのは、「大御所様」の家斉と、松平大和守斉典と、外二三の老中共に過ぎなかったであらう。

 それだけに、投げた石は小さくとも、四方にひろがる波紋は大きかったのである。

 その波紋の一つに、こんなのがある。

 川越の松平大和守の本家に、松平越後守といふ大名がある。此の人から、老中太田備後守と脇坂中務大輔にあて、左の意味の詰問的伺書が出てゐける。

.

  --------------------------

.

 短歌の紹介

.

すてきなり酒田の美女の理子さまは 

               心行い人の範なり  6763 味園語録 

激戦で潰乱するも榊原 

               伴の屍背負いて退いた 6764 『臥牛 菅実秀』


礼を知らざれば、以て立つことなし。

2014-05-15 12:54:07 | ブログ

タイトル----礼を知らざれば、以て立つことなし。第1966号 26.05.15(木)

.

 礼を知らざれば、以て立つことなし。『論語』

.

 礼は社会に立つ人間の背骨である。だから、その礼を心に備え、身につけない者は、世の中に立つことはできない。

.

【コメント】

.

 標題の解説はその通りだと思いますが、それを心得ている人が、穏やかに、謙虚に、悟らせることが出来れば、よろしいのではないでしょうか。

.

 最初から何でも分かっている人はいないのですから。

 かく申す私も、たまたま『南洲翁遺訓』との出会いがあり、かついろいろな文献を読み進めるうちに分かってきたのですから。

 だから道場では子どもたちに、遊びながらボツボツ本を読んだり、文字を書いたりしましょうよ、と話しかけているのです。

.

 --------------------------

.

 『天保おすわり事件』 (第22回)

. 

 さうした噂が、チラリチラリ耳に入るたんびに、水野はいやな顔をしたに違いない。といって苟も日本人である以上、勤王を言ひがかりに、酒井家をどうかうするわけにはゆかぬ。折があったらと、頻りに機会を狙ってゐた水野の胸に、松平大和守の仏頂面が思ひうかんだのに不思議はない。

「名案! 名案!」

 荘内の酒井を越後長岡に追払ひ、そのあとを、松平大和守に與へれば、大御所様も必ずお喜びになるに違ひない。大和守は無論手中の者になる。大御所様の御機嫌を取結んで置けば、他日の栄達は期してまつべしだ、ひいては水戸家への面当てにもなる。長岡の牧野備前は、嘗て自分と京都所司代を争った男だ。川越の芋を食せて逼塞させてやるのも面白い。一石二鳥どころか、一石四鳥の狙ひうち、何と越前は天下の知恵者であらうがな!」

 .

 天に唾するといふ言葉がある。再び自分の顔にふりかかるといふのである。人は呪はば穴二つ、古人はうまい事を言ったものである。それが他藩であったら-----少くも荘内の酒井家でなかったら、或ひは水野の思惑通りになったかも知れぬが、相手が酒井家では荷が重過ぎたのである。さすが知恵者の水野越前も、千慮の一矢、籔をつついて蛇を出した形となり、散々手を焼いた挙句、天保大改革の大立物、一代の大政治家も、かっかり男を下げる結果となったのである。

.

 ---------------------------------

.

 

 

 


道は二つ、仁と不仁とのみ。

2014-05-14 09:38:58 | ブログ

タイトル----道は二つ、仁と不仁とのみ。第1965号 26.05.14(水)

.

 道は二つ、仁と不仁とのみ。『孟子』

.

 世の中に道は二つしかない。仁であるか、さもなければ不仁である。(孔子のことば)

.

【コメント】

.

 仁と不仁のほかに無関心もあると思います。『南洲翁遺訓』に云う十に七八は小人なればということです。でも、不仁よりか無関心がいいのではないでしょうか。性質が悪くないからです。

.

 -----------------------

.

 『天保おすわり事件』 (第21回)

.

 忠徳公も、文政五年と天保八年と二度、京都に参向、拝謁を賜ってゐる。その都度、多額の金帛を献納されてゐる事は、記録に明記してあるが、記録にのらない事実として、古老の間に傳へられる所によれば、藩公が御参内の時には、必ず黄金を錦の袋におさめ、それを装束の下にかくして御持参、おいとまを賜って御前を退出する時、わざとそれを、お席にのこしてお帰りになった。おかみでは、酒井侯のお忘れ物として、御嘉納になったといふ事である。まだある。酒井家が、常に皇室の式微をなげいて、供御のおたしにもと、ひそかに献上したお米は、どれだけあるか知れないといはれている。三百諸侯が、ひたすら幕府の鼻息のみを伺って、皇室の御窮状を見て見ぬふりをしてゐる中に、老中共の忌韡をもおそれず、勤王の誠意を披歴遊ばされた酒井家御歴代の忠誠は、特筆大書されてよい事実だと思ふ。

.

 -------------------------------


記問の学は、以て人の師と為るに足らず。

2014-05-13 20:19:47 | ブログ

タイトル----記問の学はも以て人の師と為るにたらず。第1964号 26.05.13(火)

.

 記問の学は、以て人の師と為るに足らず。『礼記』

.

 単なるものしりで、実行の伴わない者は、人の資格はない。

 「記問の学」とは、ただ古い事柄をよく覚え、古書を暗記しているだけで、実行の伴わない学。

.

 【コメント】

.

 昨日も超多忙でブログは標題だけにしておきました。日付を確保するためです。

 多忙でしたが、一年生の礼弥君が空手にやってきました。

 私の両手にはプレスレッド?をつけています。左手は池田南星君作成、右手は礼弥君作成のものです。これをみて一人でニヤニヤ笑いながら、仕事をしています。

.

 標題の『礼記』の言葉は、良い言葉ですが、実行が伴ったとしても、『南洲翁遺訓』の改竄をするような実行は駄目だと思います。天風師が言うように、「清く尊く美しく」でなければならないと思います。

.

 ---------------------------

.

 『天保おすわり事件』 (第20回)

.

  一 〇

.

 水野は、豫てから荘内の酒井家を眼のかたきにしてゐた。

 酒井家は、三河以来の御譜代にもかかはらず、水戸家と共に、累代勤王の家柄として著聞されてゐた。

 水戸家は、何といっても御三家の随一、天下の副将軍だ。いくら老中でも手のつけようがない。狙ひの的を、荘内の酒井家につけた水野の腹は、見えいてゐる。

 酒井家では、これ迄も度々、将軍名代として京都に参向を命ぜられてゐる。

.

       雲の上や愚かなる身のかしこさは

             大宮人にそでをつらねて

    けふといへはおましまちかく立交る

             身のかしこさを何にたとへむ 

    忘らるる時こそなけれ恵のみ

             あふく心に匂ふたちはな

.

 忠徳公が、寛政九年五月、光格天皇に拝謁仰付けられた時の御歌である。

.

 -----------------------------

 


名に近づくに意あるは、則ち是れ偽りなり。

2014-05-12 08:36:40 | ブログ

タイトル----名に近づくに意あれば、則ち是れ偽りなり。第1963号 26.05.12(月)

. 

 名に近づくに意あれば、則ち是れ偽りなり。『近思録』

.

 学問をするにあたって、それによって名誉を得たいという考えが少しでもあれば、それはもう偽りの学となる。本当の学問はとてもできない。

.

 【コメント】

.

 まさしくその通りです。連日、読み書き等々をしていて、上の解説が指摘する小人の欲でないので、そうだよと相槌を打っています。

 .

 インターネットを立ち上げると、悪戯のコメントが10件位連日入っています。多分、若い子どもたちだと思われますが、こういう悪戯はやめた方がいい。その内、天罰が来て早死にすることになるのです。

.

 私にたてついた人が、早死にする、難病にかかるという現象が起きています。不思議です。悪戯のコメントが入っても怒りもせず、ただマウスを左右クリックして消している私は、指の訓練だと思ってやっているだけです。天は必ずみているとは、そういうことも言うのです。

.

 今、公に書く訳に行きませんが、大変な事が起きる前兆で大忙しです。念入りにブログを書けない状況を御察しください。ただ本人の、老人の私は、坦々と作業をしているだけなのです。

.

 荘内南洲会様にはFAXしましたが、要用の件、よろしくお願い致します。

.

 とにかく今日も大忙しです。どんなに超多忙であっても、私は挫けないし、怒りもいらだちもありません。夜間高校時代からこういう生き方をしているから、これが平常心なのです。私と対峙して、根くらべして勝つ人はいないでしょう。私は寝なくても大丈夫なのですから。

.

 その昔、朝の勉強会に行った際、2時間の睡眠を二週間続けたことがありました。そうすると極限状態の世界が展開されるのです。中味を知りたい方は、ご自分で経験してください。ここでは書きません。

 こういう異常体験を半世紀に亘って実践しているのです。このように書いているのは、私のブログに悪戯をしている子ども、青年たちに対する警告として書いているのです。

.

 理子先生、お酒は大変美味しく頂きました。丁度、「岸の柳」をダビング作成してくださいました森崎先生がおみえになりましたので、一本あげました。

 -----------------------------

.

 『天保おすわり事件』(第19回)

.

 「蛟龍いつまでか地中のものたらんやだ。乃公も大名の家に生まれたからには、一度は風雲に乗じて、天下の政権を握って見たい。それには、唐津では都合が悪い。何をおいても、どこか適当な處に、十分の足場を得なければならぬ。」

 その水野が、適当な場所として選んだのが、遠州濱松だ。

 濱松の城下から、十町ばかりはなれた處に、東海道十三次の一驛引馬の宿がある。その中間、さざんざの松原に通ずる馬込橋が、京都と江戸との真中だといはれてゐた。

 彼はここに眼をつけたのである。彼は臆面もなく自薦運動をはじめた。政治家肌の男だけに、かういう事にはぬけ目がない。彼の運動は首尾よく成功して、文政元年二十五歳の時、愈濱松の城主となった。彼の得意知るべしである。

 文政八年、大阪城代となり、翌九年牧野備前と争って京都所司代をかち得た彼は、躍進また躍進をつづけて、同十一年西の丸老中となり、天保五年には、四十一歳で早くも本丸老中となったが、家慶は名のみの将軍、實権は依然として前将軍家斉の手に握られてゐるので、彼は隠忍自重、言ひたい事も言はず、諸事控え目にして、ひたすら家斉の機嫌を取結ばうとつとめたために、大御所様の大覚えいよいよめでたく、出羽守没後の臺閣にたって、老中筆頭にまで進んだのである。

.

 --------------------------------